智恵×邑―二人きりの甘いしあわせ。:立成17年2月
『明日の放課後、用務員室に来れるか?』
件名もない、邑さんらしい何の装飾も施されてないメール。
いつもよりずっと混みあった寮の調理室から少し出て、『大丈夫ですよ、仕事が終わったらすぐ行きますね』と返す。
邑さんがイベントとかそういうものに興味がないのも、甘いものが好きじゃないことも分かっている。でも、……恋人になって、初めてのバレンタインデー。チョコレートの甘い香りが漂う調理室に入り直して、私も周りのみんなとおんなじように準備をする。レシピと同じように作ったし、ちゃんと食べてもらえるように工夫だってした。
「よし、これならいいかな」
味見をして、ようやく自分でも納得のいくものができると、うんと伸びをする。壁に置かれた時計を見ると、もうすぐ調理室が閉まってしまう時間。周りも慌ただしくなってる中、手早く片づけを済ませて部屋に戻る。ラッピングは、部屋に戻ってからやれるし、
邑さん、喜んでくれるかな。想像して、思わずスキップしてしまうのを、止められない。
――今日の教室は、甘い匂いとわいわいとした声に溢れている。
恋に敏感な年頃だからか、はたまた女の子だからなのかはわからないけど、こういう時の学校は何かのお祭りみたいだ。
みんなにお菓子を配ってるような人たちのお菓子を受け取るので放課後の喧騒を抜けるのは大変だった。生徒会室に向かう間も、生徒会室に着いてもチョコレートの渡し合いは起きていて、私も買ってきたチョコを渡し合う。やっぱりおいしいけど、何かが虚しくなる。これからの「おたのしみ」が、きっと楽しみで仕方ないせい。みんな、浮ついちゃってるなって、私も言えないけど。
こんなに浮ついてたら仕事にならないよ、今はちゃんとやろうって、周りに言うけれど、それと同じくらい自分に言い聞かせる。きっとまだ、用務員室で私を待ってくれてるから。私が、今はなんとかしなくちゃ。
でも、終わったあと、急いてしまう気持ちを抑えられない。鍵を手の空いてる子にお願いして、廊下を駆け下りる。こんなの、生徒会長らしくないな、なんて心の中でため息をついて、それでも抑えられないくらい、大好きでいることに気づいてしまう。
「邑さん、お待たせしました」
「いや、待ってない、……智恵だって、仕事あるんだから」
息を切らした私を温かく迎えてくれる邑さんに、心が溶かされていく。私が訪ねていくことはよくあるけど、邑さんに呼び出されて行くことはあまりないけれど。廊下にまで漂う甘い匂いは、用務員室の中までは届かない。今日がどういう日なのかは知っている。でも、邑さんがそういう俗なものに関わるのか。期待と不安の間で揺れ動く。「まあ座れ」と邑さんが示したパイプ椅子に座ると、ほんのりと赤くした顔が真横に見える。小さな鞄から、中を探るくぐもった音。
「それでさ、……今日はバレンタインだろ?だから、これ……」
差し出されたのは、ワインレッドの包装紙に、金色のリボンを結ばれた巾着。中身は、もう考えるまでもなくて。
「あ、ありがとうございます、その……、帰ってからいただきますね?」
「いや、あのさ、一個、ここで食べてみてくれないか?感想、聞きたいから」
「そ、そうですか?なら、……いただきますね?」
邑さんらしくないピンク色のリボンをゆっくりとほどくと、中からはチョコレートの甘い香り。
開けてみると、ころんとしたトリュフチョコが何個も現れてくる。お店で買ってきたように綺麗な形をしていて、少し気が引ける。
「これって……!」
「初めてこういうの作ったんだが、……どうだ?」
「ま、まだ食べてないですよ、……それにしたって、自分で作ったんですか?」
「まあな、……その、早く食べてみてくれるか」
あんまり私のほうを見ないのは、照れくさいのを隠してるんだなってわかる。一個だけ手にとって、あとは大事に袋にいれて、丁寧にリボンでくるむ。
「それじゃあ、いただきます」
口に入れたその瞬間に、ふんわりとした甘みに包まれる。こんなにおいしいの、食べたことがないってくらい。
しばらく舌の上で転がして、心行くままに味わってると、邑さんの不安げな声が聞こえる。チョコレートはもう溶けてしまって、もうずっと黙ったままだったんだなと気づいてしまう。
「どうだった?……おいしくなかったか?」
「そんなこと……!今まで食べたことないくらい、おいしかったです」
「そうか、……それならいいんだ」
抱き寄せて、精一杯の気持ちを伝える。それに対して邑さんはただ抱き返してくれて、甘い温もりを伝えてくれる。
「あ、そうだ、……邑さんにも作ってきたんですよ?」
「私はいい、……甘いの好きじゃないから」
「一口だけでいいですよ、……それに、甘くないのにしましたから」
抱いてた手を離して、鞄から小さな包みを取り出す。邑さんに合うようにシックな色で、青のリボンで止めてある。なんか、邑さんがくれたものとそっくりだな、なんて。
「そうなのか、……見てもいいか?」
「はい、いいですよ?」
開けてみた邑さんが、中身を見て怪訝な顔をする。見た目はただのチョコブラウニーなんだから。
「……やっぱりチョコじゃないか、食べられないの知ってるだろ?」
「甘いの嫌いなことくらい知ってますよ、一口だけでも」
「わかったよ……、そんなに智恵が言うなら」
しぶしぶといった感じで、端っこのほうをちょこっとだけかじって、それから不思議そうな顔をする。
「あれ、甘くない……?」
「カカオが濃いものを使ってるんです、普通のは四割くらいみたいですけど、七割のものを使ったから、そんなに甘いわけじゃなくて」
「そうなのか、わざわざ、ありがとな、……結構、おいしいな」
ぽんぽん、と頭を撫でる手。もらうだけじゃ気が引けるからってわがままだったのに、気に入ってもらえてよかった。優しい手つきに、心を溶かされる。胸の中も、甘ったるいもので満たされていく。
手の中にあったブラウニーは、いつのまにかなくなっていた。お世辞なんてこともなくて、本当においしかったんだろうな。
「いえ、喜んでもらえて、嬉しいです」
「私も、あげる事ばっかり考えてたから、……もらえるなんて思わなかった」
「甘いものは嫌いって言ってましたもんね、……でも、せっかくだから邑さんにも食べてほしかったんです」
「そうなのか、……」
何か言いたげな雰囲気に、自然と意識させられてしまう。こてん、と肩に何かが乗る。横目で見ると、邑さんの顔が、肩に乗っかっていて。
「智恵、……好き」
優しく囁く声は、鼓膜を甘く震わして。
「私も、です。……邑さん」
返せる言葉は、これしか見つからなかった。