アルコール・フェアリー・テール
「セダンに乗らない男は使えない」 ……前の職場のセクハラオヤジがよく口にしていた言葉だ。
人間社会の荒波に揉まれて生きていれば、自分なりの法則を見つけた気になることだってある。まだ三十路程度の夏海ですら 『表情が幼い奴は使えない』 という持論を持っているぐらいだ。五十年近くも生きていれば、そういった偏見の一つや二つはあるだろう。彼の意見に賛同するつもりは微塵もないが、そんな意見を持つことを否定しようとは思わない。
話は変わるが、かっこつけたいお年頃な男の子に求められる要素には、セダンの他に左ハンドルというものがある。要するに外車なのだが、これがなかなかにクセモノだ。
夏海も車好きの端くれとして、外車に憧れた時代もあった。理由はただ一つ、かっこいいから。車なんてそれだけで十分だ。
しかしその幻想は、いともたやすく崩れ落ちた。
それは前の前の会社に勤めていた頃の話だ。そこの社長もそこそこ車が好きで、外車を一台持っていた。確かコルベットだったような気がするが、いかんせん昔のことなのであまり覚えていない。
通勤に使われていたので、社員をやっていればその車は何度も目にすることになる。まだ若かった夏海は、毎日羨ましそうにその車を眺めていたものだ。
そんなある日、社長はこんなことを言い出した。
「御幸君、運転してみるかね?」
こういった社員サービスが好きな社長で、度々ポケットマネーで焼き肉を奢ってくれたりするいい社長だった。無論、夏海は二つ返事でありがたく運転させていただいた。
今思えば、あの時に幻滅したことで、今は変な憧れを抱かずに済んでいるのだろう。それほどまでに、あの体験は強烈だったのだ。
まず座席の位置が違うので、運転しづらい。乗り慣れない車はただでさえ運転が難しくなるというのに、座席の位置が違うのは致命的だった。……しかしこれは慣れの問題だ。これだけなら、普段から乗っていればどうにでもなるのだろう。
しかし問題はそれだけではない。そもそも日本車の右ハンドルは日本の交通事情に合わせてのものなのだ。
たとえば交差点。左折や直進ならば支障はないのだが、右折になると危険だ。対向車の影に隠れたものが見えなくなってしまう。死角なら右ハンドルでも存在しているが、左ハンドルだとそれが多くなるのだ。
他にもある。その中でも特筆すべきは、料金所だろう。大概の装置が右ハンドルに合わせた仕様なので、左ハンドルでは苦労するどころか、利用できない部分も多い。
そして一番腹が立ったのが、ヘッタクソなライダーにナンパされたことだ。
座席が左側なので、必然的に左端を走るライダーとの距離が近くなる。普通はその程度でナンパなどされないと思うのだが、その時は運悪くナンパされてしまった。しかも走行中にだ。危なっかしい事この上ない。それに社長の車なので、ぶつけられたらタダでは済まなかっただろう。
幸いなことにこちらが加速したら轟音と共に視界から消え去ったので、被害は受けなかった。偶然にもその日は付近でライダーが電柱に衝突して死亡した事故があったらしいが、詳しいことは知らない。もしかしてあのライダーは幽霊だったのだろうか。
……というのを先日の飲み会で理緒ちゃんに話してから、彼女の視線に怯えを感じるようになった。霊感持ちが苦手なのだろうか。今までこの話でウケなかった試しがなかったために、夏海は困惑していた。
というのも、来週の土曜は旧友と集まって飲み会を行うのだ。話のネタは沢山用意しておきたい。だというのに、このネタが使えないのは大きな痛手だ。理緒ちゃんが特殊なだけかもしれないが、人の好みが移り変わった可能性も十二分にある。時代によって変化するのが、感性というものだ。
思えば、今までこのネタを披露したのは夏海より一回りも二回りも年上のオッサンばかりだった。若い女の子にウケる保証など、どこにもなかったのである。
アラサーはまだ若い。いいね?
とにかく、次の飲み会用に新たなネタを用意しなければならない。飲んでもあまり酔わない夏海は必然的に話題提供に回ることが増え、生半可な宴会芸では間が持たないのだ。腹踊りなんてセクハラじみた芸当できないし、恥を忍んでやっても若い子にはウケない。時間を稼ぐというただ一点だけにおいては、とても有効な宴会芸なのだが。
気軽に話せて、同年代にウケて、弾数にも困らない。そんな都合のいいネタが、どこかに転がっていないだろうか。
今日は金曜の夜だ。酒の肴なら、実際に酒を飲んで考えるのが早いはず。冷蔵庫に余っていた缶ビールを開けて、テンションを上げていく。酔いはしないが気分は盛り上がる、便利な体質だ。
少し考え、やはり飲み会の華は職場の話だと思い至る。
左ハンドルの話だって考えようによっては職場の話みたいなものだし、他のネタも――夏海が上座を "じょうざ" と読んでいたのが間違いだったと新歓で発覚したことなど――大抵は職場関係だ。それに今の職場は、若い男だらけ。ネタの供給に困ることは、ハッキリ言ってないに等しい。
そう、例えば先日のこと……。
爽やかスポーツマンのY君は、歳の離れた妹と二人暮らしをしているらしい。両親が不在なのではなく、妹さんの進路上の都合のようだ。
ある夏の日のこと。夏海が薬局で胃薬を物色していると、Y君がなにやらコソコソしているのを見つけてしまう。気になって尾行してみると、彼が手にしたのは、なんと――生理用のナプキンではないか!!
普通なら見なかったことにして退散するところだが、その日の夏海はスクラッチで二千円当てて調子に乗っていた。抜き足差し足で忍び寄り、親しげに肩に手をかけ訊ねる。
「こんなところで何やってるの?」
彼は背が高いので、手をかけるのにも一苦労だ。しかしその甲斐あってか、面白いものを見ることができた。
突然の出来事に驚いたY君は、慌ててこちらに振り返る。まるでツチノコにでも噛まれたような、普段お目にかかることのできない驚き方だった。
「み、御幸さん、どうしてここに」
「私はちょっと胃薬を。君はなんでナプキンを?」
何の躊躇も無くクエスチョン。デーデレデッデ。流石に調子に乗りすぎだと思う。
ここで適当に誤魔化せばよかったものの、焦った彼にそんな器用な真似はできなかったらしい。馬鹿正直に全てさらけ出してしまう。
「い、いや、もうすぐ妹の生理が来るんですけど、ナプキン切らしてたから……」
なるほど、これは良いお兄ちゃん。見直したぞ。
「なんだそんなの恥ずかしがること無いじゃん。妹さんと仲良くね」
納得した夏海は、彼の背中を馴れ馴れしく二度三度叩いてから、その場を去った。
……というお話。意味がわかると怖い話ということで、ひとつ、どうだろうか。職場関係の集まりではまず使えないネタだが、彼と接点のない相手に話すぶんには問題にならないはずだ。
よし、こうだ。こんな感じでもう少し用意しよう。これで来週の飲み会では大活躍だ。
※
一晩寝て、冷静になった。
一夜で考えたネタを全部忘れる……なんてマヌケなことにはならなかった。が、どちらにせよネタは使えなくなっていた。
冷静に考えてみると、どのネタも死ぬほど気持ち悪い。こんなネタを喜々として語られれば、たとえ相手が親しい友人であっても距離を置く。誰だってそうする。夏海だってそうする。
却下だ却下。冷静に考えよう。