表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

インテリジェント・クソメガネ

 それはある夏の夜のこと。

 世間はそろそろ夏休みシーズンだが、この会社に夏休みという概念はない。ことこの部署に関して言えば、夏こそ最たる繁忙期と言えよう。

 そんな時期には、どんなに頑張っても家に帰ることができない日だってある。

 今日のような蒸し暑い夜であっても、それは例外でない。

 湿気と気温でさながらサウナのような外界から、冷房が効いていてなお蒸し暑さが拭い切れないオフィスへ帰還する。今日の仕事はひとまず終わりだ。しかし時計の針が十二を越えて久しい今、こんな気候も相まって家に帰るのすら億劫に思えた。会社からアパートまでそこそこ掛かるのも、その思いに拍車をかける。

 仕方がない、今日は会社で寝よう。明日起きたら、朝一でロッカールムに行ってシャワーだけ浴びる。シャワールームを備え付けてあるのは、この会社の数少ない美点の一つだ。

 まぶたをこすりながら、パーテーションで句切られた食事スペースへと向かう。机で眠るのにちょうどいい枕とブランケットがあったので、こちらに放り投げてあるのだ。

 と、足元に寝袋を見つけた。これは確か、梓馬だ。彼は明日の朝早くから遠方に出るため、家に帰らずそのまま寝ているのだろう。

 踏んで起こしてしまうと悪いので、そっと避けながら夏海の枕を確保する。

 机で寝ていても腕の血が止まらない枕。ホームセンターで見かけて即決で購入した。作った人は天才だ。

 スイッチが社員用エレベーターから見て奥にあるので、電気はつけたままにしておく。後二人ぐらい戻ってくるはずなので、最後に帰る人が消せばいいだろう。

 歯は数時間前に磨いた。明日の用意も済ませた。何の憂いもなくさて寝ようと枕に手を突っ込んだところで、あることを思い出す。

「あ、やば」

 化粧を落としていなかった。

 危うく翌日の朝をグチャグチャの顔面で迎えるところだった。慌ててトイレに向かい、乱暴に化粧を落とす。本当はもう少し丁寧にやりたいところだが、今は一秒でも早く眠りに就きたい。

 スッピンになって事務所に戻る。この顔は誰にも見られたくないので、早く寝てしまおう。――そう思った矢先、悲劇は起きた。

「お疲れ様でしたー」

 戻ってきたのは、黒崎ウズミ。メガネの似合う二十六歳。勇二と同い年だが、ウズミは専門卒なので二年のキャリア差がある。

「あっ……」

 ここで無視してトイレに戻れば良かったのだが、老いた脳は咄嗟にそんな高度な判断を下すことができなかった。思わずウズミと目を合わせてしまい、スッピンをバッチリと見られてしまう。

 そして彼は、こう言い放った。

「……誰?」

 疲れた脳でも、その言葉の意味はすぐに理解することができた。顔を隠すのも忘れて、その場に呆然と立ち尽くす。

 ウズミはしばらくこちらを観察してから、大げさなりアクションで気づいたことをアピールする。

「ああ、御幸さんでしたか。これは失礼しました」

 そのわざとらしい反応のせいで、冗談のつもりなのか本当に気づかなかっただけなのか判断がつかないのが憎たらしい。せめて最期まで気づかず、袴で持っていってくれればよかったものを。

 女は化粧で別人になると言われている。

 文字通り別人になるつもりでした化粧でなら構わない。だが、社会に顔向けするためだけの――いわゆる社交辞令的なメイクで別人扱いされるのは、正直言ってショックだ。前者は褒め言葉として使われている場合もあるが、後者の場合はネガティブな意味を含んでいるのが明らかである。

 自分ではスッピンでもそこそこイケていると思うのだが、他人にそんな評価を下されればそんな自信も失ってしまう。

 これが冗談なら、いいのだ。彼は五つも年下なので、それぐらいの無礼は許してやる。これはこれで化粧の有無を一瞬で見ぬかれたことになるが、嫌味に受け取られないようわかるように化粧している側面もあるので、別に構わない。

 しかしこれが万が一本当に別人だと思われていた場合、話は別だ。

 働く女性の化粧は、 『していることは明らかでも、できるだけ薄く済ませる』 ……というのが理想だ。化粧というのは、言うならば身だしなみの一部。ノーメイクはネクタイを締めないのと同じだし、派手なメイクは花柄のネクタイと同じである。その場その場に相応しい格好というのがあって、女性の場合はその中に化粧が含まれているのだ。

 なので当然、必要最低限以上の化粧は控える。しかしその必要最低限というのが、人によって異なるのだ。

 というのも、必要最低限の化粧というのは、つまりこの程度の容姿であれば人前に顔を晒しても平気だという指標である。自信があれば薄くても平気だし、なければどうしても濃くなってしまう。

 夏海の場合は、全体的に薄く、それと目元を少しだけ重点的に行っている。濃さはあまり意識していないが、平均的かそれ以下なはずだ。

 だが、夏海がそう思っているだけという可能性もある。実際には無意識の内にかなり濃い化粧を行っていて、別人に変貌している、と。

 彼に言葉の真意を訊ねることができれば、楽になれるのだ。

 しかし、それができれば苦労はしない。何が悲しくて、同僚……それも若い男にメイクの寸評を求めなきゃならんのだ。

 もういい、寝る。今日は枕を濡らして寝る。

「……おやすみ」

 せっかく二人になったというのにロクに会話もせず、夏海はそのまま枕に顔を伏せて寝てしまった。

 その日の夢は、最初の彼氏に振られた時の夢と同じだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ