八十八話 惑わしの森
街道よりは、ただの山道といった趣の、森の中を進む。
残念なことに、心洗われるような静けさは、隣から放たれる異様な鼻歌で台無しだ。女が、調子外れな行進曲を口ずさんでいた。
眩惑の芋道がどうとか堕落の蜜がなんたらとか、内容はいつもの如く、言い回しは怪しいが中身のないものだ。
それを耳から排除するべく、辺りの景色へと意識を向ける。
景色といっても、目に入るのは連なる木々と、でこぼこした道だけだ。
馬車も通れるよう、それなりの道幅はあるのだが、帝国側の手入れの行き届かない場所と比べてさえ見劣りする。
よほど利用者が少ないのだろうか。
領内で大抵のことが賄えるというなら、それは大したものではある。
しかし、各国とのやりとりはどうしているんだろうな。
幾ら最新の魔術具があるといえど、まさか、転話具越しでだけの取引などできない。
現物は、送り合わなくてはならないのだから。
それに、港を増やしてまで増便してるんだ。帝国とは物資のやり取りも、頻繁に行われているんだろ。
大体、幾ら先進的な道具を作り出す頭脳が揃っていたって、原料がなければ役に立たない。
鉱山なんて、どの程度のものがあるのか知らないが、帝国から都合してもらってると思っていた。
代わりに、最新の道具を真っ先に渡すような取引なのかと。
内訳なんぞ知らないから、想像でしかないが。
ちらと、視界に髭面と女騎士が入る。
今まで、あれこれ想像に委ねていたものの内容を、知ってそうな奴らがここにいる。それが、不思議な感じだ。
だからと言って尋ねる気はしない。
こちらは、本来の目的のついでに考察しているだけのものだ。
仕事の内容について、個人的な興味本位で尋ねるのは、さすがに憚られる。
ようやく、考えに集中できていたところを、不快な韻律が遮った。
「理性をかどわかすー芋に魅せられ、いざ行かんー」
興に乗ってきたのか、女の鼻歌はしっかりとした声となっていた。
精神防御を突破してくるなよ。
いや、いつものことだ……気にしたら負けだ。
「たとへ朽ち果てー屍となろうと、いざ甦らんー。それは、い・も。芋のためー」
黙ってくれないか。
いつものこととはいえ、どうにも癇に障る。
違う国へ来て、落ち着かないせいだろうか。
長閑な場所に見えるが、やはり知らない場所では気が抜けないのだろう。
午後もしばらくは、そうして進んでいたのだが。
慣れるどころか、苛立ちは募っていった。
苦しいわけでもないが、外套の襟元を開き、無意識にシャツの首元を引っ張る。
「日が暮れる前に渓谷へ着けるだろう。早めになるが、そこで野営するといい」
髭面が、商人へ提案めいた命令を下していた。
その目は、一瞬俺を捉える。
体調が悪いとでも、勘違いされたのか。
無用の気遣いだと言おうとしてやめた。
川があるなら休むには丁度いいだろう。
反対はなかった。
疲れたのか飽きたのか、女もようやく口を閉じ、森には静けさが戻っていた。
それでもなお、何かが絡みつくようで苛立たしい。
おかしな歌のせいで呪われたか。
そろそろ渓谷へ着くかという頃、その違和感にはっきりと気付いた。
げんなりするのは、何も女の無駄に元気な歌のためではなかったらしい。
なんだ、何かが煩わせる。
気のせいではなく――干渉している。
そこで、ようやく思い至った。
こういうものの正体といったら、大抵は何かの精霊力。
「速度を落とせ。足は止めるな」
隣に声を掛けると、女は即座に前方へ走り、商人へ伝えた。
声を張れば届かない距離ではないが、考え込んでいることが多いからな。
そのまま女は、背後を守るように前方を歩く。すでに、鉈を取り出していた。
気が早いぞ。
俺は、後方へ意識を向け、他の気配がないかと探った。
「何事か」
初めの一声で、すでに辺りを警戒していた髭面が聞く。
お前らの手下がヘマしたんじゃないかと、疑いの目を向けつつ答えた。
「精霊力だ。こっちを窺っている」
「フィデリテ」
それを聞いた髭面は、即座に女騎士へ声をかける。
既に、俺の答えを聞いた時点で、女騎士からは精霊力が発せられていた。
「おい、やめろ」
気付かれたとばれる可能性がある、そう言おうとして、その質の違いに気付いた。
女騎士の襟元から、光が漏れだすのが見えた。
初めて見るが、よく覚えのある、自分以外の精霊力。
あの光は――喉元にあるのか。
思わずその光に見入ると、女騎士は柔和な面に微笑を形作る。
その理由を、聞く前から分かっていた。
その精霊力は、普通のものとは違う、印から発せられるものだ。
失敗した。
「大丈夫ですよ。私の精霊力は、些か特殊なのです……確かに、精霊力の流れがありますね」
「遠見の魔術具か」
女騎士が確認すると、髭面がそれが何かを予想する。
俺も同意だ。そんなところだろう。
「領内へは、まだ二日は先だったな」
「その通り。物見にしては気が早い。警戒態勢に入ったと報告にはなかったが、変更されたか。もしくは」
こんなところに盗賊か。
魔術具なんて高い物を使える盗賊なんて、以前に出くわした行商人もどきな奴らくらいだろう。
物資の定期便があるというし、その予定なら知っているはずだ。
そんな奴らがいたとして、こんな寂れたような道を、維持に金のかかる道具まで使って、いつ来るともしれない獲物をわざわざ待ち伏せするだろうか。
ありえないな。
いっそ、ここで留まって出方を待つか。
いや、相手の縄張りだろう森の中で、様子を見るのも馬鹿らしい。
「進んだ方が、ましか」
「それがいいだろう」
俺の呟きに、髭面も答えた。
「後ろを頼む」
こいつらを信用するかは置いておくとして、ひとまずの俺の仕事は商人の護衛だ。
商人の左側近くへ進み、右前方を進む女とで、護衛対象者を挟むよう位置する。
「まだ距離はあるが、考え事に浸るのは控えてくれよ。その間にぐっさりといったら洒落にならない」
忠告と、気休めの冗談のつもりだったのだが、商人は逆に緊張を滲ませた。
俺には人を気楽にさせるような才能は、なさそうだということを思い出した。
商人は、荷車に突っ込んでいたらしい細身の剣を、荷物の隙間から取り出して、腰元の革紐に繋ぎだす。
身に付けてなかったのかよ。
どっちにしろ、警戒してもらう分には、俺の気休めも丁度良かったようだ。
俺は、剣は抜かず柄に手を添えたまま、辺りを警戒しつつ進んだ。
森の半ば、警戒して町へ戻るには遠すぎる。
相手は道に慣れているはずだ。抜け道もあるかもしれない。
そして、またこの問題か――俺達は、徒歩なんだ。
そりゃ盗賊とは限らない。
人気がないからこそ、遠くまで警戒のために兵を巡回させている可能性もある。
しかし、そうなら、魔術具なんぞ使わないはずだった。
攻撃を受けるかもしれないと考えれば、撤退して回り込まれるよりは、進んだ方がましだと思ったのだ。
戻れば良かった、進んでいれば良かった。
どちらの後悔を選ぶかだけのことだ。
その筈だった。




