七十三話 新たな式の実験
最悪の寝起きだった。
開けた目に映ったのは、上掛けに乗っていた手の平大の蜘蛛。
叫びこそしなかったものの、地面へと転がり落ちた上に壁にぶつかった。
起き上がってベッドを見たが、敵は見事に撤収した後だった。
いきなり鼓動が高まり不快だ。深呼吸をして落ち着ける。
悪態をつきながら、出かける準備をした。
打った肩をさすりながら、部屋を出る。
隣からも、ちょうど二人が出てきた。
「朝から暴れるなんて、元気ね」
二人と合流した途端、欠伸を噛み殺しながらの女の言葉。
お前にだけは言われたくない。
大抵は俺の方が早く、起こす方だが、どうやら物音で目覚めてくれたようだ。
外で寝るよりは、微々たるものながら疲れも取れた。
それも、奇襲を受けたために台無しだ。
荷物を確認しなおす。
忘れ物はないかと、余計なもんまで付いてないかである。
符の回収し忘れはないかと、商人の部屋も確認した。
特に残してまずいものは見当たらない。
「出ようか」
商人が荷車に手をかけると、出発の合図だ。
日が昇りきる前の薄暗い道を、のろのろと歩き出した。
街道を南東方面、港町へ向けて進む。
景色は、濃い緑に覆われている山間が続いていた。
道は、帝都から鉱山周りほど広いものではなくなっている。
だが、食料などを届けている地元住民らしき者達や、行商人等と擦れ違う。
頻繁に人の行き来はあるようだ。
真昼も過ぎると、経由地の町へ向かっているらしき、兵の集団とも擦れ違った。
日暮れに着くような日程なんだろう。
たまに山間が途切れると、村らしき集落も目に入る。
気分のせいかもしれないが、北部とは違い、景色に温かみがあるように感じられる。
殺風景さのない場所もあるんだなと、不思議な気持ちだった。
通り縋る一行の中には、それらの村方面へ進む者もあった。
俺達は街道から逸れる気はないので、道を繋ぐ町以外の場所を訪れることはない。
途中で、女から目的地について聞かされないかとわずかな期待もあったが、まだまだ変化は訪れないようだった。
とはいえ、大陸が途切れるのもあとわずか。
そう思えば気力も戻り、しっかりと歩みを進めていった。
数日の後、朝靄の中、小高い丘の上に登りきると商人は荷車を止めた。
器用に坂道を登っていたが、あまり疲れは見えない。
たまに手を貸しはしたが、大丈夫かと聞くと、重心がどうのと言い始めたので聞かないことにした。
「山の壁が見えるだろう。あれを超えると港町だ」
その言葉に、片手で日を遮り、連綿と続く濃緑の起伏に目をやると、最も遠くが高くせり上がっているように見える。
「今日は、あそこまで行ければ十分だ」
確かに、目に届く場所とはいえ、起伏ある山の中を歩けば相当に時間はかかる。
俺はその予定に疑問はなく、頷いた。
日暮れもかなり前に、山の壁の麓に到達していた。
崖というか、急な道をどれほど降りれば港町なのかは分からないが、今晩はこの森の中で野営するという。
何も疑問に思わずにいたが、どうやら商人には別の意図がありそうだった。
道中、休憩時間ごとに、商人の目が満足気に輝くのを見ては不安に駆られる日々は終わりを告げる。
ついに、この時が来た。
「待たせてしまったが、ようやく試験作品が完成したよ」
特に待ってはいない。
「……楽しみだ」
なるべく、嫌そうには見えないようにと気を使ったつもりだ。
「目が笑ってないよ」
余計な口を利くな。
商人が道具袋から取り出したのは、様々な符。
思わず腰が引ける。
商人作の怪しげな符の実験。
「こんなことやっている場合かとか言ってなかったか」
代わりに女が楽しそうに答えた。
「それはそれ。これはこれでしょ」
商人も、いつもの覇気のない顔に、目だけを輝かせている。
「どのみち、旅の最中は他に出来ることもない」
女の邪気に満ちた目と並ぶと、気味の悪さ倍増である。
気を取り直して、符を見つめる。
約束は約束だしな。
試すのはいいが、初めに効果は教えてくれよ。
「環境に影響の出るものは、できれば避けてくれ」
念のため、懸念は伝えておく。
強力になった火属性なんかあれば、山がどうなるか分からない。
「ユリッツさんが、そんなこと望むわけないでしょ。日和見主義なんだから」
また代わりに女が答えたが、お前は本当に庇っているのか馬鹿にしているのか分からんな。
「あんたの力を見て、精霊力の制御について考えをめぐらしていたんだ。全部、制御の為の式と思ってくれ。危険なことは起こらない……恐らく」
最後に不穏な言葉が聞こえた。
「そう遠慮しなくていい。まずはあんた専用の顔料と、魔術式使用の光の符だ」
遠慮なんかではなく、本心で嫌なんだよ。
でもまあ、光の符なら、周りに被害は起こりえないだろう。
それも俺用ってのは、商人曰く「改悪」したものだな。
それならと、早速手に取った。
精霊力を流そうとすると、強い抵抗を感じる。
「おお」
普通だ。普通の魔術円だ。
胴体周り程度の直径を持つ、淡い白色の円が目の前に展開されていた。
それは久しぶりの光景だった。
基本は、これなんだ。
普通がこれほど嬉しいとは。
流れを止め、まじまじと新たな符を見る。
なんとはなしに表裏を確認するが、外からは何が違うのか分かりはしない。
「うぐぬにに……」
女が試そうと、遠距離からの展開を試みていた。
両腕を上げ、何かに掴みかかろうとするように手を開いている。
その手の先からは白い光の糸が、蛇行しながら俺の手元の符へと伸びていた。
気持ち悪いことするな。
そういや、こいつは符に触れなくとも展開できるんだった。
「無理ぃ」
女は俺の手から符を、ばしっと掴み取った。
両手で握って、呪いの言葉を吐きながら念じている。
ちょろっと薄ぼんやり光ったようだが、一瞬で途切れた。
「うっを何これ。ぜんぜん通らない」
悔しそうにしているが、悔しがるようなことじゃないだろ。
商人から、次を促す声。
「次こそが、本懐」
商人の眠そうな目に、鋭さが宿った。
「安心してくれ。また光の符だ……一応」
また最後にぼそっと何か聞こえたぞ。
どんな仕掛けが施されているのやら。
とんでもねえ発光。
「っ!」
咄嗟に目を閉じる。
「びゃあああっ!」
「これは……」
女の奇声と、商人の動揺の声が耳に届いた。
慌てて力の流れを止め、そっと目を開く。
どうやら一瞬で収まったようだ。
まだ日はある。
そんなに目だってなければいいが。
「うーん、おかしいな。あの繋がりをしくじったか、いやあそこをこう……」
何事か呟いている商人を無視し、女に手渡した。
「試してみろ」
「合点だ!」
女が力を流すと、光は不思議な広がり方をした。
通常は、紙の上の魔術式を光がなぞり、それから空中へ展開される。
その符は、なぞりながら、同時に展開されていった。
式を解きながら、空中へと展開されていく。
「そのまま、発動してみてくれないか」
商人の意識が現実に戻ってきたようだ。
その言葉に、女は集中し発動させる。
展開時と同じだった。
すでに展開されている空中の白い円を、発動を合図する金色の光が辿っていった。
時間差で発動か。
「もしかしてこれなら、各人精霊力の強さによる、発動時のばらつきを抑えられるかもしれないんだな」
数枚ずつ、同様のものを作ったらしい。
もう一枚を手に取ってみた。
何が違うか分からないのに、つい見入ってしまう。
商人は、眉尻を下げた。
「そのつもりだった」
いつもの覇気のない顔に戻っている。
「ほら、やっぱり異常、んぶゃあっ!」
手にした符を、女の顔に向けて展開してやった。
「俺だと力の調整が出来ないから無理なようだが、あいつが使ったのが本来の効果なら、成功はしてるだろ」
商人の目が据わり、紙束を取り出す。
「起動時の精霊力の流れの具合を教えてくれ。瞬き一つの時間ごとの感覚の流れを掴みたい」
えええ……そんなに細かく必要なのか。
闘志を燃やしている気配に、逃げる機会を逸した。
それから暫く、様々な質問に答えさせられることになった。




