四十七話 零時間へ
昨日、女が話してくれた子供の頃の変化というのは、いつだろう。
あの、大異変が起きた頃だろうか。
空が割れた後なら、時間的にも、状況的にも合う。
俺の変化は最近始まった。
本当に、そうだろうか。
日々を生きるだけで精一杯だった。
ずっと、何も感じないように生きてきた。
父に関連することは悲しみごと、全て忘れたかった。
それこそ印については、考えないようにしてきた。
北に再び異変が表れ、昔の事も色々と思い出すことになったが、それで気付いただけで、実は変化し続けていたのではないのか。
いや、そんな筈はない。
組合の依頼で、精霊溜りを消すのにもついてまわった。
その度に符を使っても、今のように異常な増幅はなかった。
精霊溜りを見つけ易くはあったが、他の者より精霊力が強かっただけだ。
それまでも、常識外れとは言われていたが、コルディリーの中ではという程度だ。
帝国軍の魔術式使い達を見てからは、より強くそう思った。
違いはなんだ。
当然、この忌々しい印だ。
これに精霊力を流してしまってから、全てが変わっていった気がする。
痛みが行動を促したとしても、印に力を与えてしまったのは俺自身だ。
そう考えるに至り、乾いた笑いが、我知らず漏れた。
旅に出てから、練習なんかしてたが、あれで益々強めてしまったわけだ。
確かに俺は、あの女の言うように、馬鹿だな。
「昔はどうだっただろう」
印に関することについて、記憶を探る。
在りし日のトルコロル共王国。その限定された場所についての記憶。
◇◇◇
「母さんは、また部屋か」
俺は剣の稽古の手を休め、室内を振り返った。
風を通すために開け放たれた籐の扉。その向こうに、寝椅子が見える。寝椅子は、淡い土色の生地に、沈んだ緑の葉が絡む中、くすんだ赤や桃色の花柄が浮かぶ。
その端で、母さんは凛と首を伸ばし腰掛けていた。
緑が眩しい、広々とした中庭がある。柔らかな日差しの下で飲むお茶の方が美味しいだろう。
なのに母さんはいつも、庭に面した居間の日の当らない奥で、繊細な造形のカップを手に過ごしていた。
庭で父さんや側付きの騎士達と剣を交える俺を、眺めていることもある。
だけど大抵は、薄緑と薄桃色が交互に並んだ、格子模様の壁紙に向かって静かに佇んでいた。
正しくは、壁に掛けられた、大きな額縁に向かってだ。額の中には、大ぶりで色鮮やかな花々に囲まれた、立派な屋敷が描かれている。母さんの生家という話だった。
ここが嫌いなのかと聞いたことがある。そこへ帰りたいのかと。
「帰りたいわね。でもイフレニィ、お父様とあなたのいるこの家も、とても大切な場所なのよ」
嘘だ。
何故か、そう思った。
あんな屋敷で暮らしていたなら、この家が嫌いでもおかしくはない。
ここは、父さんのように王位継承順位の比較的高い者達が住まう、寮のような場所だった。
中庭を囲むように、幾つかの棟が連なる。二階建てのそれらは、縦割りになっており、それぞれの家族に割り当てられていた。
周りを気にせずにいられた以前と比べれば、母さんにとっては、自由など感じられないだろうと思ったのだ。
俺はここで生まれたが、六歳になると父さんの外交に付き従うことになった。外を回る内に、この場所へ息苦しさを感じ始めていた。
継承権を持つのは父さんだ。
母さんは、そんな父さんに見初められ、ここに閉じ込められることになる。
その父さんは、この家にいるよりも外を出歩いている期間の方が長い。
理不尽さに腹を立てていたって、当然だろう。
俺はまだいい。父さんの仕事に付いていき、外へ逃げる機会がある。
だが、母さんは、俺達が出かけている数ヶ月もの間、この場所で過ごすのだ。
母さんの内なる想いは、刺繍に綴られていた。
外から戻る度に増えるそれらの布は、テーブルやベッドを覆う。そこには母さんの知る思い出の場所が、描き出されていた。
「綺麗だね」
それ以上のことは、言えなかった。
何かを聞いたとしても、母さんはただ、微笑んでくれるだけだ。
ここは、王城に住まうことを許されなかった者を、監視するために作られたのだろうか。
そんな気さえ、していた。
父と共に、中央大陸へと海を渡る際、港から国を振り返る。
闇神殿の回廊と呼ばれる場所、この国の端っこからでも、小さくだが王城の先端が見えた。
その先端は、やや距離を置いて三つある。三人の王が、それぞれの城に住んでいるためだ。
他の国で王様といえば、一人が普通らしい。
不思議なものだ。俺は、自分がここで生まれ育ったという感覚があまりない。
父さんが言うには、外を周ってばかりなせいだろうと言う。それに、そういう気持ちは、成長するにつれて育っていくものだと。
俺は城に呼ばれたことはないし、今後も機会があるとは思えない。
そんな俺が、見も知らぬ王様たちを、敬うなんて日が来るんだろうか。
アィビッド帝国領内に入り、帝都へ向かっていた。
村々へ滞在し、その生活に触れるにつけ、羨望のようなものが胸の内に湧いていた。
ある日、つい軽い気持ちで口にしてしまった。
「父さんは、トルコロルって、変だと思わないの?」
父さんは、それまで見せた事のない、険しい顔付きへと変えた。
片膝を地につけて目線を合わせ、俺の肩を掴む。
稽古中でも、見たことのない厳しい目に飛び上がった。
「私は祖国に誇りを持っている。無用に見えることにも、意味がある」
「でも、でも母さんは……っ!」
どうしていいか分からず、泣きそうだった。
「イフレニィ、少しずつでいい。お前にも大切なものが出来れば分かる。それに、分かるような未来であって欲しい」
俺に辛抱強く言い聞かせると、父さんは口を閉じ、最後に、静かに微笑んだ。
哀しみや寂しさや、諦め。それでいて、その全てを受けいれて、なおも強さが垣間見える。
その顔に浮かぶのは、母さんの見せる微笑と、同じものだった。
◇◇◇
胸に重石を乗られたようで、意識を現実へと戻した。
よりによって、気が重くなる事を思い出した。
どうも、自分で思うよりも、疲労が溜まってるようだ。
あの場所も、なくなってしまっただろう。
こんな思い出ばかりだ。ずっと嫌な思い出だと思っていた。
だからこそ、意識しては思い出さないようにしてきた。
何故だろうか、嫌な気分になるのは変わりない。
それでも今では、あの短い期間を家族で過ごせた記憶が、大切なものだったと思える。
昔に、そう思えていたらな。
幼い心には、幾つもの真実が重なり合う心の機微など、到底理解及ばなかったこともある。
悲しいことに、今でも、大して成長してない気もするが。
感傷に浸ってしまったが、何を思い出そうと……ああ、印か。
残念ながら、あの頃は、印のことなんか気にしたこともなかったようだった。
はじめから期待もしてなかったが、手掛かりはなしだ。
頭を振って、立ち上がった。
もう昼だが、組合にでも行くか。
やることに困ったら、とりあえず行ってみればいい。
その前に、商人のところへ顔を出そう。パンの礼を言ってなかった。
扉を叩くと、「開いてる」と、くぐもった返事が聞こえた。
開けっ放しかよ。
扉を開け、顔を覗かせる。中には一人だ。
あの女はとっくに依頼でも受けてるだろう。
商人は、真面目な顔で机に向かっていた。
まだ試験でもあるのか?
「あんたは何やってるんだ。申請の方はうまく行ってるか」
こういう時は反応が鈍い。
一呼吸待つ。
「ああ、終わったよ」
商人は、忙しなく何かを紙に書き付けている。
その手元に視線を落とすが、ほつれた糸屑のような筆跡が見て取れるだけだ。
魔術式の構造か何かだろう。多分。
しかし、そうか、無事に申請が通ったってことだろうな。
なら帝都を出るのも近いかもしれん。
そろそろ旅支度を整えておこう。
その前に、また付いて行く理由を考える。
いや、もうこうなったら押し通してみるか。
なんで、こんなことに頭を捻らにゃならんのだ。
どうせ会話にならない状態だ。商人の邪魔にならないよう、そっと退出した。
礼は、また晩飯でも買ってくるとしよう。




