四十六話 一縷の望み
空の帯は、世界中に繋がっている。
あまりにも広すぎる。
そこから何かを限定して手繰り寄せるのは、不可能だ。
そう思うが、何かないか。何か、少しでいいから、この現状から抜け出せるものが。
いつも不安はあったが、強がっていた。空元気も強がりも、旅には必要だった。
それらをかき集めたところで、もうどうにもならない。限界を知った。ここまでが俺に出来ることの限界。
空っぽの気分だ。
初めから、出来るところまでと決めたじゃないか。
それは、諦める時は、手掛かりも全て尽きた時だと思っていたからだ。
原因も何も分からないならば、完全に諦められる状況であって欲しかった。
ある意味、明確な答えだ。
世界中に空から降り続ける精霊力を駆使して、嫌がらせをする輩がいる。
そんなことが出来るのは限られた者、場所、道具だけだろうが、探し出すだけでどれだけの時間が必要なのか。
諦めなければ、もしかしたら辿りつけるかもしれないが、一生を費やすなら意味はない。
そんなことは考えたくもなかった。
大体、何故そんなことまでしなくてはならないのか。
痛み以外に理由はないのに。
女の近くに居さえすれば、普通に暮らすこともできる。
もちろん、女に事情を話したところで、困らせるだけだろう。
それに、あっちは本来の意味での旅人だ。
これからもずっと、あの女の後を付いてまわる人生なんか、考えるだけでぞっとする。
俺は、コルディリーに帰りたい。
帰ったら、もう二度と旅なんかしたくない。
あの町で、慎ましく暮らすんだ。
その生活を守るため、あえて、出てきただけだったはずだ。
他にも、問題はある。
精霊力の異常な増幅。
何かが、俺やあの女を媒体にしているというのが影響しているなら、今後も逸脱し続けるかもしれない。
例えコルディリーに戻ったとしても、もう、普通に生活できるとは思えなかった。
八方塞がりだ……。
意識の外から、低く小さな音が打ち鳴らされていた。
扉から聞こえている。
あの女だろう。
緩慢な動作で近付き、無造作に扉を開ける。
いつもなら、いきなり大きく開けるような真似はしないが、それもどうでもよかった。
戸を叩いたであろう人物と視線が合うや、胸元に紙袋が押し付けられ反射的にそれを掴む。
芳ばしい匂いが鼻先に広がる。
商人だった。
予期しなかったせいで固まり、瞬きを幾度か繰り返す。
その間に、商人は踵を返していた。
「いつぞやご馳走になったパンのお返しだよ」
そう残して、部屋へ戻っていった。
姿が視界から消えても、その場を漫然と眺めていた。
「そうだな、こもっていたって、外の世界が止まってくれたりはしない」
目の粗い紙袋から、焦げ目のついた黄色い固まりを取り出す。
そのパンを齧りつきながら、部屋の小さい窓を開け放ち、外を見る。
眼前に広がるのは隣の建物の壁だけだが、時間くらいは把握できる。
すっかり日は高い。
昨日戻ってから、一昼夜経っていた。
「一日中、ぐだぐだしてたのか」
気分をすっきりさせた方がいい。顔でも洗うか。
未だぼんやりとしたまま、水場へと向かった。
部屋の角に備え付けてある、人が一人立っていられるだけの個室へ入った。
胴体が隠れる程度の扉があるだけだが、ここで身体を洗えとのことだ。
頭から冷たい水を被り、汗も重い気分も綺麗さっぱり洗い流す。
ただ、日常的な振る舞いを忘れないようにと、無心でいた。
衣類を身に付け、水場の外に出る。
「階段が軋む音が聞こえたから。水音も」
とんだボロ宿だ。
女が立ち塞がる。
「二人で、話したいことがあるの」
促され後を続くと、宿の外へ向かっている。
「歩こう」
言われるまま、街路へ出た。
黙って歩く。
細い路地を抜け、通りへ出てもまだ黙って歩いた。
女はなかなか口を開かなかった。
話したいがどう切り出したらよいか、考えあぐねているようでもあった。
そんな事情など、どうでもいい。
「突拍子がなかろうと、今さら気にしない。さっさと言えよ」
女は顔を顰めたものの、諦めたように話し始めた。
「あなたの精霊力は嫌い」
そういや俺が精霊力を使うのを嫌がってたな。
「ううん、嫌いとは違う。良いこと嫌なこと、それに訳の分からないことを思い出すから、イラつくの」
初めは、警戒の邪魔になるからだと思ったが、違ったのか。
何が気に触るんだ。
「子供の頃から、触れずに符を使えると言ったでしょう。気がついたら出来るようになってた」
見ると、いつもの仏頂面はない。
「あなたの精霊力は、その時期から、体に纏いつくようになった感覚に似てる」
子供の頃から?
俺よりもずっと前から、変化が始まっていた。
「なあ、それって、痛んだりしないか」
女は表情なく答える。
「ないよ。それどころか、傷の治りは早くなるし……正直、自分が気味悪かった」
俺と同様に、体に変化はあったのか。
「精霊力が増えたりは」
「それもない。さっきから、やけに限定された質問だよね」
同じなのは、体質に変化が現れたということだけか。
いや、女が言うには、俺達の精霊力の質は似ている。
この女が持つ感知力の高さは、変化したことに拠るものなのか。あの北の空へと集まる、微妙な光に気付いていたのも、そのせいだったのだろうと思う。
恐らく、俺達二人に届いているのは同じものだ。互いに共通点はある。
原因は、同じ『者』だろう。もう、特別な魔術式具などであるとは思わない。
今把握している限り二人。だが、意図的であると判断するには十分だ。
なら、そいつを見つけ出せばいい。
それがどこに居るか、分からなくてもか。
例えこの世界の果てかもしれなくとも、見つけ出して文句を言いたい気分になっていた。
俺にとっては、到底許せることではなかった。
他人の人生に踏み込んで、奪いにくるような真似は、相手が誰であろうと、受容れることはできない。
「ちょっと。何か言うことないの」
いつもの仏頂面が、隣で文句をつけていた。
話は終わりか。
「お前、商人に何か吹き込んだのか」
頬をふくらまし、その目は釣りあがる。
「お前……商人……いい加減に、名前を」
「そうだ、お前の言う体に纏いつくもの、見えたぞ」
話が逸れるのを遮った。
女が二重に見えていた姿を思い出していた。
きっと同質だからこそ、印を通せば見えるんだ。
初めに見たときは、別のことに必死で気が付きもしなかった。
それとも、精霊力の増幅のせいで、ようやく見えるようになっただけなのだろうか。
「え、それ、どういうこと」
うまいこと食いついてきた。
「正しくは、はっきりと何が見えたというもんではないが」
「なんなのよ。もったいぶらないで!」
だから、聞きたいなら話を遮るなって。
心で溜息をつきつつ、その時の光景を思い返す。
「姿が、二重に見えた――違う、寝ぼけてたんじゃない。重なっていた姿は、精霊力が形を作っているようだった。断言しないのは、今まで知ってるものと質が違うからだ。ただ、」
女は食い入るように見上げている。
前見てないと、看板に頭ぶつけるぞ。
「そうだな、まるで防御や補助符を使ったときのようだ。魔術式か怪しげな精霊力かという違いはあるが、身体を覆って効果を持続させているのは同じようだ。効果切れがないってのは、異常だがな」
女は、前を向くと、遠い目をしている。
そして何かに首を傾げたかと思えば、頷いたりしていた。
俺の言ったことと、今までの体験を噛みあわせているんだろう。
「うーん、確かにあなたの言うとおりかもしれない。変だけど、補助符を使った時みたいに、痛みを和らげるような感じで傷が治るし」
女は、他にはないかと詰め寄る。
「後は、そうだな。話してくれて助かった」
女は驚いたように口を開け、同時に気味悪そうな眼で俺を見た。
器用な顔だな。
前進は、したはずだ。
何もないよりは、ましだった。
虚ろで真っ暗な中にいるよりは。
洞穴の先に、微かだが光が見えたような気分でいた。




