四十五話 二重の媒体
今度こそは、俺なりに準備をする。
この女のやることは、多分常に思い付きだ。信用ならん。
己の提案がまさに思い付きであることについては、言及を避ける。
ともかく、思いつきでも何でもいいが、準備を怠ると碌なことにならない。
受付嬢に、周辺の地図を確認したいと頼んだ。
来た日から色々と気が逸らされ、すっかり後回しになっていた。
今のところは、山の街道入口周辺や、見かけた川周りの地形など、目ぼしいところだけ書き留めていく。
地図を返すと、長椅子へ向かった。
荷物の確認をする。
水筒や非常食は、常に持ち歩いている。
後は、縄と荷車と……違う。
同様に荷物の確認をしている女へ向け、強く言い含めた。
「初めに言っておくが、獣と出くわしたら戦うな。退け」
女は、「えー」と口を開いたまま、打ちひしがれたように肩を落とした。
何をしに行くつもりなんだよ。
「破ったら、置いて逃げるぞ」
その様子を横目に、先程書き留めたものを確認する。
昨日俺達が進んだ辺り。見たところ、山の奥までは進んでいなかった。
本来主となる狩場よりも、あいつは入口に近いところまで出てきていたらしい。
ならば、恐らく今日は出会うこともないだろう。
長い時間をかけて削られたその真ん中に、細い川。飛び降りて着地できる程度の谷だ。
その渓流をやや見下ろす位置に、比較的平らな岩場があり、俺達はそこへ腰を落ち着けた。周りは木々に覆われている。
ここなら光も、そう漏れないだろう。
地中から大きく顔を出した木の根に座り込み、幹に体を預けて、いやに寛いでいる者が言った。
「さあ、全力でいってみよう」
なんで、期待に満ち輝いた目を向けてるんだ。
あの真剣な眼差しは、なんだったのか。
思わず項垂れる。
気になるって、本当にただの興味本位なのか?
こんなころまで来た理由を、危うく忘れかける。何度目だろうな。
とりあえずは、この女を納得させるか。
商人の符は、些か通りが良すぎる。
代わりに、質の悪い補助符を取り出した。
発動させたとしても、これなら危険はないだろうと思う。怪我もないから、何も起こらない筈だ。
曖昧なのは、今の俺が使うと、どうなるのか断言できないからだ。
なので、全力でという希望は無視して、集中する。
もちろん、力を抑える方向にだ。
女はつまらなそうに、口を結んだ。
こいつ。
それでも、十分に異常な精霊力の流れを見ることとなった。
以前、ふいに使った時、展開された魔術式の円は、倍程の大きさまで広がった。
今は、さらにその倍……。
「ほう」
気の抜けた感嘆の声が上がる。
急いで調整し、通常の大きさまで出力を下げる。
なるべく力を出さない方が難しいとは。
どうやったら、以前と変わらず普通の生活に戻れるのか。
なんとも気が滅入る。
女はまたつまらなそうにしていた。
見世物感覚かよ。
「これをな、初めから通常の大きさで展開し、維持できるようにしたいんだよ」
女は、膝を抱えて顎を乗せている。
真剣な面持ちで、目を細めている。何か考え事かと思いきや。
「うーん眠い」
この……いや、やめておこう。
「さすがに、昨日は疲れたね」
そうだな。
本当に、何しに来たんだ。
水筒を取り出し水を呷っている姿を、呆然と眺める。
女は、最後にげっぷまですると、立ち上がった。
「あなたの言うとおり、練習するしかないと思う」
真剣風な顔を向けているが、恐らく気分だろう。
「そう、か」
それなら、ここではどうにもならないな。
女も、助言をしてくれるために来た筈はないだろう。
もう一度確認したいと思ったはずだ。
俺ならそう思うが、こいつは、どうだろうか。
「水、汲んでくる」
女は川の側、砂利の上へと飛び降りた。
なんとも緊張感がない。
俺が、なんでも深刻に捉えすぎなんだろうか。
段々になった岩の合間を、細く、勢い良く流れ落ちるせせらぎ。
そこに膝で進み、うまく水が入るようにと、水筒を持つ手を伸ばしている女の背を見る。
ふとあの女の戦いを、見下ろしていたことを思い出す。
あの時は、咄嗟に出来る限りの力を流したつもりだ。
符の反応を見るに、確実に、あの時よりも力は増している。
まただ。おかしい。
また、違和感だ。
印に流れる精霊力の質や、この女に関することは、繋がっているはずなのに、時に食い違いを感じる。
あの女は、あれだけ離れていても、俺が近付いた気配が分かっていた。
俺は、印を通してあの場を見たんだ。
この女は、誰かが符を使おうとすれば分かる感知力がある。
実際、宿で氷の符へと精霊力を通した時、はっきり気がついていた。
それなのに、「気配」と言った。
ただの言い換えか。
それとも、印の魔術式は、感じ取れなかったのか?
もし感知していたら、知らない種類のもんだと言及しそうなもんだ。
それどころではなかった状況だったが、それでも忘れるだろうか。
符を使った前後のことすら気にしていた。
完全に忘れるとも思えない。
単に、俺の印が異質なだけなら。
符のように誰かに書かれたものではないから、読み取れないのかもしれない。
実際、どうなのか。
試そうと意識するまでもなく、体は反応した。
辺りから精霊力が白い霧へと姿を変え、体を通り抜ける。
魔術式という血管に流れ込み、印を巡り、また外へと流れていく。
それは、瞬きほどの時間だった。
手足同様、すでに、動かそうと意識を向ける必要がないまでになっていた。
冷たい汗が流れる。
衝撃を受けたのは、人間離れした精霊力のせいではなかった。
見開いた目に、映る、目の前の事実に。
女が、水筒を取り落とし、顔を上げた。
その顔は、単純に驚きを表している。
互いに固まる。
目に映る女の姿は、僅かに――揺れた。
「……おかしい」
何か変だ。おかしい。いや、おかしくはない、これが事実だ。
確かに、この女の精霊力を感知してきた。
追っていた対象としても、間違いない。事実痛みもなくなったろう!
だが、本当に、探していたそのものか?
微妙な違和感だと思いたかったが、こうしてみると確実な差異だった。
印を通して確認した女は、二重に見える。
ふとした瞬間、寝起きの視界がぼやけたように、女に宿る精霊力がぶれる。
同じ性質のはずなのだが。
同じ場所にあって、違うものが重なっているような。
「嘘だろ、勘弁してくれ」
対象を確認し、それが人と分かって、徐々に知り合い、少しは調べが進んだかという時に。
実は、この女を通した、また何か別のものの可能性。
眩暈がした。
また振り出しに、戻るのか。
混乱している。
振り出しのはずはない。ここから、何かへと繋がるはずだ。
それでも、気が動転していた。頭のなか、考えはバラバラになり、まとまらない。
「帰ろう」
気がつくと、女はすぐ側にいた。
「お前が言った気配は、これか」
頷く。
「それだけか」
一瞬の戸惑いの後、答える。
「よく、分からないけど、精霊力がたくさん流れてるのは分かる。符じゃ、ないよね……」
不安そうに答える。
聞いたって、正直に答えているかは確かめようがない。
「分かった。戻ろう」
後ろも見ずに歩き出した。
「それ、止めて」
そうだ。まだ流したままだった。それすらも気がつかない。
確かに流れが止まったのを確認する。
普通は、逆だ。流すのを意識するのが、普通なんだ。
ただの媒体。
その可能性に、固く握り締めた手が震える。
いつからこうしていたのか。
ずっと宿にこもっていた。
暗く狭い宿の中。
同じような環境でも、ずっと暮らしていた屋根裏部屋のように快適ではない。
自分の居場所ではない。何故俺は、苦労して、命の危険まで冒して、こんな場所にいるんだ。
机の上に手を伸ばす。
「酒は、どこだ」
あまりのことに、何も考えられなかった。
ひどい結果だ。
目標の女は、原因ではなかったのだろうか。
媒介する力。
重く、うまく働かない頭に、それでも見えたことや、関連する言葉は浮かぶ。
「何かに似ているな」
転話具だ。
符の場合、精霊力の流れが途絶えれば、効果は消える。
転話具や魔術灯にしろ、発動させれば、一定時間の継続効果を持つ。
効果が切れれば再び発動させる。
しかし触れたままではない。
発動時の精霊力の込め方で、継続時間を調節できるが、込めた分を溜めて稼動する。
途中で効果を終えたければ、その溜めた分を放流する。
その一般的な使い方だけは、知っている。
あれは、どうやって離れた場所の音を拾ってるんだ?
道具と符で使い方は違えど、精霊力自体を、魔術式と切り離すことはできないはずだ。
理論から開発まで、世に送り出したのは、元老院の研究機関だ。
俺が知ることはないだろう。
何かを媒介しているはずなんだ。
俺が、あの女を捜していたとき、精霊力の糸を伸ばしたように。
ただ、確実を期すために、精霊力の塊でもなければ難しいはずだ。
そんなものがどこに――。
――どこまでも、続いている、精霊力の帯!
ベッドの上で、弾かれたように上半身を起こした。
「……探すなんて、不可能だ」




