三十五話 行き先は
女の顔色が悪く見えた。
「傷に障ったか。すまん、長居し過ぎた」
引き時だろうと、立ち上がる。
「希望に添えなくて申し訳ない」
商人もそう言って立ち上がる。符の在庫切れの件だろうな。
「また機会があれば買うよ」
前回と変わらず、さっさと廊下に出ると、背後で軋む扉の閉まる音が響いた。
階段を下り宿から出そうになって、引き返した。
そうだった。同じ宿を取ってたんだ。
俺にあてがわれたのは、最も安い部屋。窓もなく、暗く狭く黴臭い、一階の隅の部屋だった。
水場が近いのは便利だが、そのせいで酷い状態になっているようだった。
外はすっかり暗くなっていたが、それとは関係なく昼間でも暗いんだろう。
手燭に火を灯し、ベッドに腰を下ろした。
二人との話を整理する。結果はまずまずだと思う。
一貫して言葉は短いが、後半は随分とまともに会話ができた。
結局、今後の予定までは話及ばなかったが、さすがにそこまでやると踏み込みすぎだろうな。
もう一度、話す機会を探そう。
仕事の情報など、それなりに聞き出せた。というよりも、向こうから振ってくれて助かった。 何かおかしな趣味の持ち主だと、勘違いされたようなのが気に掛かるが……今は都合がいい。
符を扱うなら、組合との取引はある。
はぐれたとしても、いざとなれば、組合から依頼を出して探るという手も使えるだろう。
手元の符に視線を落とした。
なかなか手に馴染む。
符に手触りなどがあるなど、考えもしなかった。
ふと何の気なしに、精霊力を流した。
発動さえさせなければ、精霊力の通りを確認することくらいで、耐久を超えることはない。
光は一瞬で、狭い部屋を駆け巡った。
まずい。これはまずい。
慌てて流れを止め、符を取り落としていた。
どっと汗が吹き出し背を伝う。蒼白になっているだろう。
室内を見渡すが、変化はない。
発動してないから当たり前のはずだが、当然なことから段々と外れてきているのだ。自分が思う以上に、慎重に行動すべきだった。
狭い部屋だ。
外まで漏れてないだろうな。
高まる鼓動を聞きながら、床の符へと指を伸ばした。
消費されてはいないのを見て、ほっと息をつく。
端切れを取り出し、体を拭おうと水場へと向かうことにする。
外の様子が気になった。そっと当たりを窺いつつ、宿の裏手、この部屋のすぐ側へと出た。
井戸の側に立てかけてある桶を取り、水を汲む。
冷たい水で顔を洗い、気を落ち着けた。
驚いた。
冗談だろ。
迂闊だったとはいえ、効果の現れ方が凄まじい。
俺自身の変化のせいか、符の品質か。
人の気配に、剣に手を伸ばし振り返った。
「やっぱりあんたか」
商人が口を開いた。水瓶を抱えている。
やっぱり?
符作り職人なら、気が付いてもおかしくはないと思ったが。
「ピログラメッジが、符を使おうとしてる馬、奴がいると言うから見に来た」
馬鹿、と言ったってことは、俺だって気が付いたわけだな。……あの女。
「早速、試したくなってな。脅かしたならすまない」
商人は、水を汲み始めた。
「気をつけた方がいい。誰が居て、難癖をつけられるか分からんぞ」
忠告に頷く。
重々承知だ。そのはずだったが、急な変化に感覚が追いついていない。
もう少し、練習を続けるしかないだろう。
懐具合の問題で、それどころではないが。
そして、場所もない。
さっきのことで、それがよく分かった。
町の外に出てからでないと、感覚を試すことすら難しい。
それも、帝都に近付くにつれ、人通りも多くなる。今後は、街道沿いですら気を抜けないだろう。
「ところで、なぜここにいる」
商人が、考え事を遮った。
やっぱ気になるよな。話しておけば良かったかな。
先程のことの後で、心証が悪くなってないかと心配になる。
「組合で一番安い宿を聞いたら、ここをお勧めされたんだよ。俺も金はないからな」
「確かに安いな」
うむと頷いている。
警戒心が強いのかと思えば、人が良すぎるきらいもあり。
この男もよく分からんな。
「少しも、精霊力の通りを確認したかっただけなんだ。驚いたよ。何か顔料が違うように見えたが、それのせいなのかね」
ひとまず、言い訳がましく説明しておく。
商人は、心なし表情を明るくした。
「詳細は伏せるが、従来のものより通りが良くなるよう、顔料の種類の配分を整えてある」
さも話せない風を装いつつ、話したそうである。
さすがに、聞くのはまずいだろう……いや、正直に言う。うんざりしそうだから、そこで止めた。
「あーこほん、外で重要な話はまずいんじゃないか」
はっとした商人は、気まずそうに口を閉じた。
「とにかく、品質は確かだとよく分かった。手に入るなら他のも買ってみたいが、いつ手に入る」
在庫切れとか言ってたが、その間どうするつもりだろうな。
他のは売り物というにはあまりにも難点がある。
「それは……俺も、売りたいのは山々なんだが……うーん」
どうも言いづらそうにしている。
まさか、あれきりとか言わないよな。ほんと、今後どうするつもりなんだろう。
「実は、その原料を入手する道中だ。手持ちを売り繋いで来たが、ここの組合で買ってもらえたからな。次は帝都までないよ」
いきなり提示された情報に、照準が定まる。
「帝都、か」
ここから出るなら次は帝都しかないと、当たり前のことだが、それでも予測が当たるのは嬉しいものだ。
「遠いだろう。残念だよ」
出来れば、慎重に事を進めるべきだと思う。思うのだが。
まどろっこしいのはやめだ。
なんというか、変わってはいるが、どう見てもただの商人と旅人の護衛としか思えない。
どこかから手を回されているようには思えないし、そう考えるのも無理がある。
そんな何でも見通せる、魔法みたいな魔術式具がないとは言えないが、極端な例を考えてもしょうがない。
だったら、普段の俺の行動をすればいい。
単刀直入で。駄目なら駄目で次の手でいく。
「残念か。売ってくれる気はあるんだな。俺も帝都へ向かっている。同行させてくれないか」
商人は、呆気に取られたような表情を作り、次に眉を顰めた。
「この町から帝都行きは、普通のことだろ。ま、護衛の傷のこともあるだろうし、いつ出るかにもよるが」
疲れたように頭を振り、商人は水瓶を手に取る。
「ピログラメッジに話してみよう」
まだ決まったわけではないが、その言葉に心に余裕が出来たようだった。
話下手な割に、言いづれえ名前を、舌も噛まずにすらすらと口にする男に感心していた。




