百七話 増幅の幻
今朝は、早めに発つことができた。
後はどうにか、配分を守って進みたい。
暫くの間、隣を歩く女に注意を払っていたが、約束したとおり、問題を起こす気は治まったらしい。とぼとぼと歩いているだけだ。
それに何もしたくないときに見る、塩に触れた軟体動物のように、縮こまっている。首元に巻いてある頭部の覆いへと、頭を半分埋もれさせて、眠そうにしていた。
荷車を引く商人へと目を向ける。
俺の頼みを受けて早くも、効力を増幅する符の作成に、取り組んでくれているようだ。
ようだというのは、どこか遠い場所を見ているのだが、その口元は何事か呟かれているようだったからだ。
抑制の式を流用すると言っていたから、まずは魔術式を構築しているのだろう。
それは午前中ずっと続いていた。
そして昼の休憩になると、保存食を口に咥えながら、ものすごい勢いで書き物を始めた。
当然、髭面達の興味も引いている。
だが、短い休憩時間だ。その時は静観していた。
「荷車、代わろうか」
そう提案し、午後は俺が荷車を引いた。
隣を歩きながら、呪われたような呟きと共に、紙面に糸くずを量産する商人。
気味が悪いが、俺が頼んだことだ。
海風だろうか。強めの風が吹くお陰で、幾分か爽やかな気分になれたのが救いだった。
夜には、すでに試作品作りに励んでいた。
その作業光景を見慣れていない、女騎士、小僧、髭面の、食事中の話題となっている。
「あんなに細かい作業を、すらすらと。器用ですね」
「ふんッ、懐かしいな。元老院ではあれくらいの者は普通だ。自力で細工するのは珍しいがな」
「帝国の工房でも、なかなかお目にかかれない手際だ。一職人とは思えん」
女騎士は、何かを尋ねたいのか身を乗り出した。
それを遮るように、声をかけた。
「旅に影響がない範囲だ。夢中になっている時は、邪魔しないでやってくれ」
別に、俺の企みを滞らせたくないというのではない。
一応は、依頼だというのに、すっかり没頭している。
なんというか、楽しそうといっていいのかね。
ここまでなのは珍しいから、作業に専念させてやりたくなった。
「そうですね。私としたことが、野暮でした」
女騎士と小僧は、納得してくれた様子だ。
髭面だけは、訝しげだったが、納得した二人に倣って黙っていた。
こいつは、いつも黙って、場を観察している。
主目的がなんであれ、俺達の観察も任務の一つなんだろう。
忌々しいことだが、精神をすり減らしながらの会話なんてしたくない。距離を置いておきたいなら、それはそれでありがたい事だ。
今晩の見張りは俺から初める。
商人から、早めに起こせと言われたからだ。
ついでに女も起こし、見張りの間で、流れの感触を見てもらったということだった。
皆の前でどうかとも思ったが、別に隠す必要はない。
どのみち、試しでも精霊力を流せば、女騎士と小僧には知られる。
それなら初めから説明しておいたほうがいい。
実際に、職人だと目の前で見せられたのだから、符を試すのは何もおかしいことではない。
女も起きていることは、精霊力がないから補助のためと事実を伝える。
「そんな……符の職人が、精霊力を持たないなんて。悲しいですね」
と、女騎士は同情していた。
そういうところは、相変わらず癇に障って苦手だ。
「なんと、それでここまでの小細工が可能なのか」
意外にも、小僧は感心していた。
女騎士も見習えよ。
そして早々と就寝した。
突如、暗闇が振動した。
激しい揺れに、目を開ける。
商人がいた。
もう、朝か。
目を開けても、まだ俺を起こそうと肩を揺さぶる。
吐く。
「起きた。目覚めた。離せ」
すると、目の前に四角い紙切れを突きつけられた。
「できた」
符だ。
心なしか、目の下が翳っている。
無理をさせたな。
妙な充実感に、高揚しているさまは、女の喜び方と似ている。
不気味な光景から、符へと視線を移す。
今までのものよりも、過剰に原料が乗っている。
書かれている魔術式の線は、分厚かった。
「まさか、こんなに早く完成するとは」
「完成かは、まだ分からん」
それはそうだが、ざっとでも形に出来るってのは、すごいもんだ。
「本当に助かった」
「こちらこそ良い機会を貰った。お陰で、抑制の方でも行き詰まっていた部分が解決できそうなんだ。層間を繋ぐ式がどうにも不安定だったが……」
待った。起き抜けから、やめてくれ……。
とめどなく溢れる言葉を止める元気もなく、聞きながら体を起こした。
水筒から、手を洗い、口をすすぎ、顔を洗って目が冴える。
保存食を取り出す。
食べ終えて、皆が準備を整えた頃、ようやく商人を遮った。
「出る時間だ」
「顔料についても……ん、もう時間か。続きは歩きながら話そう」
すでに、一日の許容量を超えた気がする。
街道に出て歩き始めると、一人魔術式能書き博覧会を開催しそうな商人を押し止める。
「何枚ある」
「光五枚。時間がなくて氷は無理だった」
そこまで考えてくれたのか。
元老院で、小僧に感付かれたのは氷属性だった。
「十分だ」
次に見せた補助符も、前例のない怪しいものだったようだし。
今度は光属性がおかしくたって、この商人の作るものならこういうもんだと思うだろう。
商人は片手を取っ手から離し、懐から残りの出来たての符を取り出した。
受け取ろうとしたが、商人が取り落とした。
咄嗟に掴んだが、一枚が後ろに流れ、小僧が拾った。
「これだけのものを、一晩で何枚も作ったのか……見事なものだな」
また問い詰められたら、渡そうかと思っていた切り札だ。
別に今すぐ使いたいわけではない。
今誤魔化すのは、早すぎる気がする。
出来れば、町に入ってからの方がありがたい。せめて入る直前くらいがいい。
「拾ってくれて助かった」
そう言って取り返そうとした符を、今度は女騎士が手に取る。
「前の符とも違いますね」
「毎回、違うみたいだぞ。小細工しているらしいからな」
手を出しながら言ったが、今度は髭面が手にとって眺めた。
「顔料が多いな。今は入手制限している。これでは厳しいだろう」
それはお前らのせいだろうが。
「ただの試作品。趣味と言ってたろ。そういったものは一点ものだ。返してくれ」
髭面は、口の端を持ち上げた。
「数枚持っているな。この一枚は買おう」
何を言ってやがる。
「使ってみろ」
女騎士に渡された。
「勝手なこと――」
最後まで言葉にすることはできず、目を庇った。
爆発するような、精霊力の流れ。
鼓動が速まる。
似てる。
あまりにも、俺が使った時と、似すぎていた。
それだけに、衝撃を受けていた。
根本的な違いに、気が付いたからだ。
俺の精霊力を、自身では『堰を切ったように流れ込む』、そう言い表してしていた。
だが、違った。
まるで、突然、そこに出現する。
そう言った方が正しい。
膨大な量が忽然と現れる。そんなことは、ありえない。
庇った腕を、ゆっくりと下ろす。
他の奴らは、呆然と立ち尽くしていた。
特に女騎士。
印を通して、符を発動させていた。
その印があるだろう鎖骨辺りを、片手で押さえている。
自分の力が信じられない。そんな顔付きだ。
「た、確かに……その方の符は、通常のものとは、かけ離れている。よく分かりました」
俺とは違うが、それでも、誤魔化せはしたようだ。
成功だな。
そう意図を込めて、商人を振り向いた。
静かに瞳が輝き、しかも、嬉しさのあまりか、小さく拳を握っていた。
近くに来ていた女も、何故か誇らしげにしている。
元気になったようだな。
皆に歩くよう声をかけた。
「急ごう。また遅れるぞ」
すぐに、髭面に約束させる。
「高いぞ。古都での飯代はもてよ」
髭面は何か感付いたのか。
一瞬、睨み合う。
ふっと苦笑を漏らして、引いた。
幼稚な画策とでも笑っていればいい。
「滞在費か。了承した。ついでに、古都までは口を閉じておこう」
意図がみえみえだったとしても、結果的には望んだ形になった。
あと、もう一歩なんだ。
原因を突き止めるまで。
ここで邪魔されてたまるか。
それに、元老院と帝国の思惑の大元である、トルコロル王筋の生き残りの問題。それが回廊の広がる影響にも関連する。
今は、まともに相手が出来る、状況ではない。
とてもじゃないが、この旅の目的である、俺自身の問題が頭を占めている間、片手間に相手出来る用件ではない。
国相手ということもあるが、北へ戻ればどこに逃げようもない。
それからなら、正面から幾らでも戦ってやる。
だから今は……せめて、あと少し。
あと少しだけ、猶予をくれ。




