繚乱のファンタズマゴリア 06
1.
助けて。
そんな言葉を聴いた気がして、目が覚めた。
もう太陽は高く、大通りの喧騒が少し離れたこの寮にまで聞こえてくる。
「もうお昼か……」
あくびをしながら、僕はベットから起き上がる。
昨日の夜警が終わって帰って来た後、一眠りしていたのだ。
よく寝たし、そろそろ出かけようか。
そう思った、その時。
―――助けて。
「え……?」
さっき聞いた助けを求める声が、また聞こえた。女の子の声。
「だ、誰?」
尋ねても、答える声はない。
寝不足による幻聴、そう考えたのと同時。
―――中央通りの方から、轟音と震動が。
まるで、なにか巨大なものが落ちてきたような。
「な、何!?」
部屋の窓から外を見る。
中央通り―――多分、噴水の辺り―――から、盛大に土煙が上がっていた。
それと同時に悲鳴が聞こえてくる。
『―――助けて』
まただ。
また、あの声が聞こえてきた。
それに何故かその声がどこから発せられているのかが分かる。
あの土煙の場所だ。
上着を羽織り、部屋を飛び出しその場所へと走る。
辺りは何があったのかと騒然となっていた。
ただでさえ人通りの多い路が、建物から何事かと出てきた人で更に溢れている。
そして目的の場所へ向かうその最中、ある言葉を聞いた。
―――竜。
竜が、墜ちてきたのだという。
竜。
その姿を、僕は一度見たことがある。
それが夢でなのか現実でなのかは分からないけれど。
それは、確か―――
『君が出来ることが、君がしなきゃいけない事だよ、ブルーサス』
お姉ちゃんの言葉が蘇る。
そして僕は噴水のあった場所へと着いた。
遠巻きにそれを見ている人ごみをかき分けて、僕はその光景を目にする。
そこには既に噴水は無くなっていた。
代わりに、血を流し横たわる緋い竜が、そこに。
死んではいない。荒い息を立てて、頸だけを動かし周囲を警戒するように見回している。
「何があったんですか?」
「どうやら、何かに襲われてたらしい。しかし、なんとお労しいことか……。なんとかできんのか」
竜が襲われた。
その言葉に、僕は愕然とする。
―――竜とは、あらゆる幻想存在の中でも至高の存在だ。
誰も彼もが敵わない。
誰も彼もがその強靭さを崇め、その精神を慕う。
その竜が襲われ、今目の前に横たわっている。
何人かが近づいて助けようとしているが、気が立っていると思われる竜に迂闊に近寄れないのが現状のようだ。
けれども。
けれども、僕には竜が本当は何に警戒しているかが分かった。
竜は僕たち人間を警戒してるんじゃない。
怯えているというのもあるけど、なにより自分を襲った存在が人間を襲わないように自分に近づけないようにしているのだ。
ふらりと、足を前へ踏み出す。
周りの人が驚いて静止の声を上げるけど、意にも介せず僕は竜へと歩み寄る。
―――竜がこちらに気付いて頸をこちらに向けた。
『いや。こないで。きちゃだめ』
ああ。この声は、あの助けを呼ぶ声だ。
すなわち、この緋の竜の“聲”だ。
僕にしか聞こえない、“聲”。
「大丈夫だよ。怯えなくていいよ」
僕は竜に諭すように、優しく語りかける。
何故だかこの大きな、人の5倍近い巨体の竜が、ひどく小さなものに感じられたから。
『わたしのこえが、きこえるの……? ……だめ。だめ。こっちにきちゃだめ。こわいあくまが、おそってくるから』
「どうして、君は反撃しないの?」
『だって、はんげきしたら、きっとあいてはしんじゃう。こうげきしたくない、きずつけたくない。わたしはしずかにねむっていたいだけなの。だれもきずつけたくないの』
そう僕に伝える竜の金色の瞳からは、血に交じりピンク色となった液体が流れ出る。
泣いて、いるの?
「優しいんだね、君は……」
更に竜へ近づいて、その鼻先を撫でる。
竜と会話なんてしたことなんてないから他の竜がどんな性格なのかは知らないけど、基本的には平和的で高潔だと聞いたことがある。
けれども、この竜はそういうものじゃないと、何となく理解した。
それはきっと人が偽善と呼ぶものなのだろうけど、僕にはそう思えない。
―――美しい、綺麗だ。
この竜の魂をそう思う。
それと同時に、怒りが込み上がってくる。
この竜を襲った存在。悪魔と呼ばれたもの。
それに対する、怒りが。
そして、それは訪れた。
竜を取り囲むように空から降り立つ、6体のまるで影を人型にして、蝙蝠の様な翼をつけたような幻想存在。
その姿を、僕は書物で知っていた。
ナイトゴーント。空舞う悪鬼。
幻想存在の中では脆弱な種だが、しかし好戦的な性格の為危険視される存在だ。
しかし竜を攻撃するほど愚かではないと思っていたが。
というより、竜を自発的に襲おうなどと考える生命はまずいない。
例外の代表格は人間だ。
ならば、こいつらは何者かに操られているのか。
ナイトゴーントの出現に、集まっていた人たちが散り散りに逃げ出した。
その中を、逆にこちらに向かって来る複数の姿があった。
その中の一人はよく見知った姿。
リョウ先輩だ。
リョウ先輩はこちらに駆け寄ろうとしたけど、角の生えた女の子を連れた黄金の瞳を持つ男に手で制された。
ナイトゴーントから竜を庇うように、僕は手を広げる。
《無能》である上戦う術を持たない僕に、幻想存在に抗う術はない。
けれども。僕は、この竜の“聲”を聞いた。
この竜の助けを呼ぶ声を聞いてしまった。
ならば。僕にできる事は―――
『君にできる事は、君がしなければいけないことだよ、ブルーサス』
再び姉の言葉が脳裏をよぎる。
そして僕は、竜に語りかける。
「僕は、君の“聲”を聞いた。助けて、って呼ぶ声を聞いた。けれど僕に戦う力はない。けれども、傷付けたくない、という君を護りたい。だから―――」
それは、悪魔の語る聖者の言葉。
傷つけたくないというこの竜に、なら僕が代わりに傷付けるとは、なんと矛盾を孕んだ言葉だろうか。
「僕に、君の牙を、爪を、貸してくれないかい? 僕に、君の力とならせてくれないかい?」
僕は《無能》だ。けれど。けれども。
今、僕の前には、僕と“聲”を交わした竜が。
僕を《有能》と、《契約者》とする存在が、今まさに。
「《契約》しよう、名前も知らない君。君は誰も傷付けなくていい。僕が、君に代わって戦うから。僕は君を傷付けるアレを許したくないんだ。だから」
君は何も気に病む必要はないから。
全て、牙となり、爪となる僕が引き受けるから。
君に美しいと思った魂を失くして欲しくないと、心から思ってしまったから。
「君の名前を、教えて欲しい。僕に君を護る力が欲しいんだ。僕はブルーサス。君は……?」
だから、契約を。
『わたし、は……。わたしの、なまえは……』
迷う竜に、ナイトゴーントの一体が飛び掛かった。
僕はそれを体当たりで阻止する。
『ブルーサス!』
悲痛な声を上げる竜に、大丈夫だよ、と笑いかける。
『わたし、の、なまえは………ジルニトラ』
「ジルニトラ……。僕が、このブルーサス・ホライゾンが、君の騎士になる! 今ここに、《契約》を!!」
僕の言葉と共に、僕とジルニトラの真下から強烈な光の柱が立ち上る。
―――契約の儀だ。
* * *
「まさか《契約》する気か、アイツ!!」
目の前の光景に、俺は叫ぶ。光の柱に包まれるブルーサスと緋の竜。
ナシュトとアイツが連れていた女の子、セレス姫を探す途中にあの竜が落下してくるのを目撃して見に来てみれば、この光景だ。
ナイトゴーントから逃げずに竜を庇うようにして立つブルーサスの姿。
助けに行こうとしたら、見知らぬ男に制止された。
いや、見知らぬ、というのは間違いだ。
この男―――正式には、この男とこいつが連れる女の子―――の事は、知っていた。
アルト・オブレイエン。セレス姫の近衛隊長にして、竜と《契約》した男。
竜と会話するブルーサスの姿を見て、まさか、とは思った。
どんな会話がされていたのかは知らない。
竜の“聲”なぞ聞こえないから。
そして、光が晴れて―――。
* * *
その光景を、オレとセレスは遠くから見ていた。
逃げている途中、さっきまでいた噴水の辺りに何かが落ちて来るのが見えたから。
見つからないよう隠れてその場所へ行ってみたら、そこにいたのはブルーサス先輩と緋い竜。
遠くて何を話しているのかは分からないけれども、今何が起こっているのかは、分かった。
「《契約》―――!!」
セレスが驚いたような声を上げる。
「竜と《契約》をする人が、アルト以外にも」と。
《契約》。幻想存在と決して切れぬ共存の契りを交わす儀式。
加勢を考えたけれども、セレスを置いていく訳にもいかないし、何よりオレが本気で戦うには場所が悪い。
そして。立ち上った光の柱が、徐々に細くなって―――
* * *
「まさか―――さっきの竜が誰かと《契約》しようとしてるのか!?」
王都へ向かい駆け抜ける僕とラヴィーネは、ようやく見える王都から立ち上った二つの光の柱を見て驚愕した。
《契約》なんて、そう起こる事ではない。精々、100年に一度かそれ以下。
なのにここ50年で、既に2回も《契約》が行われている。
更に言えば、この10年ではこれで2回目。
どう考えても異常事態だ。
魔鎧馬に乗り並走するネロがほくそ笑む。
「成程。これは―――ハハ。確かに、おもしろそうだ」
不快感を押し殺し、僕は走る速度を更に上げた。
* * *
変わる。変わる。……変わる。
光の中で、僕という存在が組み変わっていく。
身体の内には炎熱の国の焔の如き灼熱が流れ込み、感覚が、魂が自分の肉体から溢れ出しそうなほど膨張していく。
そして、その“力”を受け入れる為に、身体が変化していく。
手が。脚が。四肢が鱗に包まれていく。
筋肉は細く、しかし凄まじいまでの密度となり。
爪は鋭く、空気さえ切り裂けそうなほど鋭く。
歯は全てを“喰らえ”そうなほど尖り。
これが、《契約》を交わすという事。
この魂の変化こそが竜の、ジルニトラから僕に流れ出したものであり、この変異した肉体こそが彼女が内に秘めていた『穢れ』に他ならない。
そして、光が晴れる。
そこにいたのは、もはや一匹の竜と一人の青年などではなかった。
そこにいるのは、“一人の竜”と“一匹の少女”。
そう、少女。裸で横たわる、緋い髪の5、6歳の子供。
先程まで竜だった子。僕と《契約》し、人間に近い肉体に変異したのだ。
もともと人化できる幻想存在もいるけれど、竜は違う。
至高の存在が、わざわざ人間の姿をとる必要などないから。
そういえば、妙に視界が歪む。
ああ、と気付いて、眼鏡を投げ捨てた。
今の僕には竜の視力がある。こんなもの、邪魔でしかない。
僕からは見えないけれど、きっと他の人から見れば僕の水色だった瞳は金色に変化しているだろう。
さあ、とナイトゴーントを睨み付ける。
闘争本能に従い、構える。
それは、まるで獲物に飛び掛からんとする獣の如き体勢。
噛み締めた歯の隙間からは熱風が漏れ、威嚇するように喉を鳴らす。
ナイトゴーントが一斉に動き出す。
いや、一斉に、というのは間違いだ。
なぜなら。
『―――!!』
僕の正面にいたナイトゴーントが、動き出せずに絶命したから。
僕にその首を喰い千切られて。
すなわち、竜の脚力で疾風のごとく跳躍した僕が、そのナイトゴーントの首に食らい付き、そのまま首の大半を“喰らった”のだ。
喰らう力。竜のその真の能力。
あらゆる存在そのものを喰らい己が力とする能力。
喰った部分は魂の領域で分解され、こちらの魂に吸収される。
もっとも、ナイトゴーントごときでは、腹の足しにもなりはしないけれど。
絶命したナイトゴーントが、黒い煙となって消える。
まだ生きているナイトゴーント達は何が起こったのか理解できないかのように遅れてこちらを見る。
そののっぺらな顔を、再びナイトゴーントの一体に飛び掛かり握り潰す。
残り4体。
数瞬の内に2体も数を減らしたナイトゴーントは、分散するのは危険だと判断したのか一か所に固まる。
おかげで、余計にやりやすくなった。
ナイトゴーントの群れの中に飛び込む。
2体の頭を当時に掴み、叩きつけ潰す。更にもう1体の首に喰らいつき、引き千切る。
残った1体は、敵わないと見るやすぐさま羽ばたいて逃げ出そうとした。
「逃がさない」
その腹に手刀を突き入れ、体内を掴む。
内臓はない。そもそも、幻想存在とは『生命として本来あるべき器官を持たず、しかし生きている存在』を指す。
だから、突き入れた僕の手が掴むのは固いとも柔らかいともいえないただの肉。
そしてナイトゴーントを引き寄せ、僕は口を大きく開き―――
ばちん。
そんな音がして、ナイトゴーントの頭がまるごと消失した。
全てのナイトゴーントを殺し、僕は変異を解く。
そして上着を横たわるジルニトラに掛けて、抱きかかえた。
傷はすべて《契約》の際に治癒されたようだけれど、疲労は消えなかったようで疲労と安堵のせいかすやすやと眠っている。
(さて、どうしようかな……)
ジルニトラをゆっくり休ませてあげたいのだけど、男子寮は基本的に女子禁制だし……。
「ブルーサス!」
僕達の所へ、リョウ先輩が駆け寄ってくる。
「リョウ先輩。この子を休ませてあげたいんですけど、何処かいい場所ありませんか? 寮は女の子入れませんし……」
僕の言葉に、リョウ先輩が呆れたように嘆息する。
「ったく、心配して損したぜ……。とりあえず今は緊急事態ってことで連れ込んでもどうにかなるだろ。俺が学院長に状況説明に行ってやるから、とにかくその竜を連れて帰りな」
「すいません、お願いします」
先輩の提案に同意し、ジルニトラを背負う。
すやすやと寝息を立てるその感覚に温かな感情を抱きながら、寮への道を歩き出した。
その途中、先輩を制止していた男と擦れ違う。
(この人―――!)
その男が自分と同じ竜との《契約》を行った者だと、僕の竜としての感覚が瞬時に理解した。
そして、それに伴って男の名も分かった。
「アルト・オブライエン……」
アドネス帝国第二王女近衛隊長。そんな人が、どうしてここに?
「おい」
擦れ違って少ししてから、アルトさんが僕を呼び止めた。
「……なんでしょう」
振り向き、用件を尋ねる。
アルトさんはこちらを見ることなく告げた。
「貴様が《契約》したその幼竜。今はまだ幼く弱いが、なにか得体の知れんものを感じる。貴様は力を手に入れたのだ。この先その力をどう使っていくのかは知らんが……使い道を誤れば己が世界の敵になることを、理解しておけ」
「………十分承知しています」
力には責任が伴う、なんてことは、重々理解している。
―――けれども。
この子の為なら、世界を敵に回したっていい。
そんな風に、僕は本気で思っていた。