繚乱のファンタズマゴリア 01
1.
雲の一切ない抜けるような青空を、緋き竜が翔ける。
しかしその姿に竜種の持つ絶対的なまでの勇壮さはなく、まるで逃げ惑う幼子の様。
そして、その周りには無数の翼ある黒い人型。
ナイトゴーントと呼ばれる悪鬼の一種だ。そのナイトゴーント達が、緋き竜に襲い掛かっている。
気高さと聡明さ、そして勇壮さを兼ね備える竜種に集団で襲い掛かるなど、いくら当の竜が弱々しくとも決して自然では見られぬ光景。
ならば、悪鬼は何故緋き竜を襲うのか。竜自身には、その理由が分からなかった。
ただひとつ理解していることは彼らが正気ではない事、そして、己の命も顧みず竜の命を狙うという事のみ。
弱々しいとはいえ一羽撃きで暴風を生み出す竜の翼にも、威嚇とはいえ並の生物なら逃げ出すか失神するであろうその咆哮にすらも、彼らは恐れを抱かない。
―――竜種は、基本的に争いを好まない種族だ。特に、この個体はその傾向が強いらしい。
攻撃することは出来ず、さりとて逃げ切る事も出来ない。
ただひとつ出来る事は。
存在するのかすら知れぬ、己の声が届く何者かへと助けを求めることのみだった。
2.
未だ、幻想と寄り添い生きる世界。
異能と魔法は人と世界に宿り、幻想存在は陸を駆け、空を翔び、海を渡る。
幻想存在達はヒトと相容れず、しかしそれ故に共存し生きていた。
時は双国歴674年、セフィリエ共和国王都アラザニア。
その外れにある王都唯一の学院王立ロードレシア学院の教室のひとつ。
その窓辺で、一人の青年が空を見上げていた。
長めの金髪を三つ編みにした線の細い小柄なその青年は、昼休みの喧騒がまるで耳に届いていないかの様に、ただ空を見上げている。
青年の名はブルーサス・ホライゾン。
この学院の2年次生であり、《無能》、すなわち先天的な異能を持たないという異能を有する。
別段《無能》であることが蔑まれる世ではなく、むしろ『あらゆる物事に通じ、修得する可能性を持つ』と畏敬の念を抱かれているが、彼からしてみればそれはあくまで有能な《無能》に限定される話だった。
そして自分は有能な無能ではない。彼はその事に若干のコンプレックスを抱いていた。
しかし《無能》が後天的に習得し得る異能は2種類しかない。
すなわち極々専門的な魔術を体得するか、《契約者》となるか、だ
前者はこの大陸に存在するアドネス帝国の有する大陸最大の湖シェラクールに空から投げ込んだ一粒の砂を探すようなもの。
ありとあらゆる理・概念から自分に適合するひとつを自力で見つけなければならない。
それを習得するためには『人としての生』を捨てることが必要であり、さらに極めるのならば人の数倍を生きる必要がある。
たかがコンプレックスの克服の為だけに選べる道ではない。
もっとも、魔術を修得したうえ人の数倍も生きているくせにその人生を謳歌している人物を、ブルーサスどころかこの学院に通う生徒は誰もが知るところにあるが。
そして、後者になり得る可能性はそれよりも低い。それこそ、この星から一粒の砂を見つけ出すようなものだ。
《契約者》。それは幻想存在と決して切れぬ契りを結び、その『穢れ』を引き受ける代償にその強大な力を借り受ける者を指す。
幻想存在達はこの世界に存在するだけでその身に『穢れ』を溜め込み、そしてその蓄積によって徐々に力を失っていく。
そして完全に力を失った時、幻想存在は死を迎える。幻想存在は『穢れ』を自力でどうにかすることは出来ず、ただそれを寿命として受け入れている。
しかし、稀に幻想存在の声ならぬ“聲”を聴く事が出来る者がいる。
“聲”を聴く事が出来るのは、一体の幻想存在につき一人。しかも、それが同じ時間に生きているとは限らない。
確かに幻想存在には寿命はあるが、しかしそれでも人の倍は余裕で生きるからだ。
同時に、幻想存在から《契約者》が引き受ける『穢れ』こそが、《契約者》自身にもたらされる力である。
『穢れ』は《契約者》の肉体に変異をもたらし、その身を幻想存在に近付けるのだ。幻想存在を滅ぼす『穢れ』を引き受けた《契約者》が何故逆に幻想存在と化するのかは明らかではないが、ともかくもたらされる力は大きい。
別段『穢れ』による変異を行わないにしても、その力により不老長寿を得ると言われている。
実際に、現在《契約者》として名を知られている人物は二人しかいない。《ソウル・テイカ―》―――いわば死神の一種―――のヴァルキリー族の気高き剣士の一人、ロタと契約した流浪の旅人ギュスターヴ。
そしてアドネス帝国の第二王女親衛隊の若き隊長アルト・オブライエンは、幻想存在の中でも至高の魂を持つと名高い荘厳なる竜種の乙女フィオーネと契約していることはこの国でもよく知られている。
魔術と《契約》。どちらも運と才能、そして人間をやめるという選択の上に成り立っているものだ。
そこまでして異能が欲しいとも思わない。それに、無能には関係のない話だ。
だが、それでもブルーサスはこの何かが欠落しているという感覚に非常に嫌悪感を抱いていた。
それは幼い頃に両親を亡くし、唯一残った肉親である姉すらも自分を置いて何処かへ行ってしまったという経験によるものなのかは彼も定かではないが、とにかく彼が欠落ということに対してある種憎悪と言っても良い感情を抱いているのは確かだ。
その点空は良い、と彼は思う。
空はたとえ移り変わろうが空そのものは常に頭上にあり、そしてこの世界を覆っている。
故に不変であり完全。形がない概念であるがゆえに壊すことは出来ず、欠落もない。全てを抱いているのだから。
彼が空を見上げるのはそういう理由だ。欠落を感じるが故の完全なる空への羨望。
それが彼の意識を上へと向けていた。
だがその漫然とした思考は、背後からかけられた声によって遮られた。
「よう、ブルーサス。また黄昏てんのか?」
「リョウ先輩。こんにちは」
声の主は、この学園の3年次生のリョウ・アズマという青年だった。
歳はブルーサスよりひとつ上の19。
東方の出身であり、学生の身でありながら王都の自警団に所属するこの男は、そのなかでもかなりの実力者として巷でも名が知られている。
(リョウ先輩がわざわざ2年次生の教室まで来たってことは……)
ブルーサスはにこやかに挨拶を交わしながらも、内心この気さくな先輩が自分に話しかけた理由を考え溜息をつく。
「早速だがブルーサス。今晩暇か?」
その言葉に、ブルーサスはやっぱりかと僅かに肩を落とす。
「夜警の助っ人ですか?」
「そうそう。ほら、最近世間を騒がしてる吸血鬼事件もあるだろ? 人手がいるんだよ」
「だからって、なんで《無能》の僕に頼むんですか……」
吸血鬼事件。それは、ここ最近王都で頻発している怪事件の事だ。
吸血鬼事件と呼ばれるのは、被害者が総じてその首筋を鋭い牙の様なもので刺されていることに由来している。
幸か不幸か死者は出ておらず、また被害者になにか後遺症が残るような事も今の所確認されていないらしいが、しかしこのひと月の間に数十件も同様の事件が起きていることもあり、騎士団と自警団が協力して事態の解決のため動いていることはブルーサスの耳にも入ってきている。
しかしブルーサスが分からないのは、この男が何故この非常時の夜警に《無能》である自分を誘うのか、だ。
事実、彼の交友関係には自分よりも有能かつ《有能》など幾らでもいる。そう、例えばだ。
「リョウさん。有事の助っ人なら私の方が適任なのでは?」
教室の片隅でたむろしていた数人の女子の内の一人が、ブルーサス達の元へ向かって来る。
少女の名はオルフェ・アルメテウス。
その異能たる焔を体現するかの如き鮮やかな真紅の髪を後ろで結んだ彼女は、ブルーサスの同級生であり、同時にこの王都有数の名門貴族の一人娘でもある。
若干華美なこの学院の制服を見事に着こなすその姿を見た者は、王立たるこの学院の華やかさの象徴と感じるだろう。
もっとも、その両手を見なければの話だが。
その両手には、その出自と身なりには似つかわしくない無骨な手袋が。
いや、手袋ではないのだろう。ただの手袋に鋼鉄のプレートなど装備されているはずがない。
すなわち、彼女はその両手に手甲を纏っているのだ。
だが制服を着用している上でそのような手甲を身に着けているという不釣り合いさとは裏腹に、異様に様になっている。
「おお、オルフェ。聞こえてたか。いや、実はブルーサスだけじゃなくてお前も誘おうと思ってたんだ」
「あれ、普段夜警って二人一組でしたよね?」
リョウの言葉に、ブルーサスが疑問を呈する。
これまでにも何度か夜警の手伝いを行ったことはあるが、それは普段リョウが組んでいる男ガルスが休暇を取っている場合か、その逆でリョウが休暇を取っている時にその代役として行った場合だ。
というのも、そのガルスという3つ年上の男はブルーサスとも些かの交友があり、緊急時に連携を取りやすいとリョウに判断されたからだ。
「ああ、普段はそうなんだけどよ。吸血鬼事件で未だに犯人の手掛かりも掴めてない以上、騎士団から『現行犯を見つけ次第直ちに確保せよ』って通達が来てんだ。『生死を問わず』でね。だから発見時に即時確保できる可能性を少しでも上げる為に、解決までは四人一組で行動しろって団長の命令があるんだ」
「なら、尚更ブルーサスを連れていく理由がわかりませんが……あっ」
言ってすぐ、オルフェがしまったという顔でブルーサスを見る。ブルーサスも、オルフェが言わんとしたことを理解していた。
要は戦闘能力のない自分をどうして戦力が必要とされる現在の夜警に連れて行くのか、ということだ。
「ご、ごめんなさい」
オルフェがすまなそうに謝ってくる。ブルーサスの《無能》コンプレックスは、彼女も知るところだった。
だが別段ブルーサス自身は彼女の言葉を気にしてもいない。
彼女と同じ疑問は自分も持っているし、自分の無力さもひどく痛感しているからだ。
「おいおいオルフェ。確かに四人一組で行動だけど、その全員を確保に回す訳にはいかないんだぜ? 相手が何者であるかもわかんねえ段階で全員で挑みかかって万が一返り討ちにでもあってみろ。折角分かった犯人がまた闇の中だ。そうならないように誰かが状況を正確に伝えて、増援を呼ばなきゃなんねえ。その点、こいつ程安心してその役割を頼める奴なんてそうそういないぜ? なんせ、他のチームの巡回ルートやら進行速度やら、殆ど頭ん中に入れてくれるからな」
「別に、それくらいしないと役に立てないからそうしてるだけですし……。それに言ってはなんですけど、先輩がたが自分の巡回ルートすら覚えてるか怪しいから僕がそれ以上の事を覚えておかないとフォローできないじゃないですか」
リョウ達が巡回ルートを記憶しているか怪しい、とブルーサスは言ったが、それは年上に対する遠慮から控えめに言ったものだ。
実際は、少なくとも自分が手伝いに行った時は毎回彼らが違うルートを行こうとするのを正している。
「それを言われちゃ耳が痛いんだがな。まあ、今回は万が一犯人と遭遇しても、お前が応援を呼びに行くのにガルスを護衛につけられるから、いつもよりも安全だろうよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
リョウの言葉に制止を掛けたのは、ブルーサスではなく先程までは乗り気だったオルフェだった。
「さっきの話だと犯人と遭遇した時は、先輩とガルスさんと私で確保、せめて足止めするって話だったじゃないですか! 今の話だと、先輩と私で対処することになりますよ!?」
「俺は確保を3人でするとは言ってねぇぞ? それに、あの人に鍛えられてるお前なら下手打つとも思えねぇし」
「そうじゃなくて! そうなると先輩と……ああ、もう!」
「……?」
リョウは顔を赤くして怒るオルフェに戸惑っているが、ブルーサスは何となくその理由を察していた。
とはいえ事情を知る都合、その事を言ってしまうのも無粋なので、話題を逸らすことにした。
「ま、まあ、その辺で……。ところで、もしかして犯人が捕まるまで手伝いも続けることになりますよね?」
「あ、ああ。そうなるかも知れないな。だから今回はいつもよりも駄賃が高くなってるぜ」
(給料が高い、か。それなら……)
ブルーサスは今までの手伝いの報酬を思い出し、思案する。
これまでの報酬は学生にとっては割合いい額が支給されていた。
今現在アルバイトをしているわけでもないので、この機に少し稼いで余裕を持って暮らすのも悪くはない。
そもそもこの学院は一部の生徒―――例えばオルフェのような貴族―――を除いて、寮生活が義務付けられている。
その為、普通に生活するだけならばほぼ生活費が掛からず、そういう余剰な資金は娯楽に回すのが常だ。
確かに危険を伴うが、ブルーサスが知る限りのリョウやオルフェ、ガルスの実力ならばそうそう危惧するような事態に陥る可能性も低い。
「分かりました。その手伝い、引き受けます」
「よし来た! オルフェもそれでいいな?」
「え、ええ……」
まだ顔の赤いオルフェが、渋々と頷く。
「決まりだ! とりあえず、放課後にロシェで集合な!」
待ち合わせ場所に行きつけの喫茶店の名を上げ、リョウは教室を去っていった。
「まったく、あの人はもう……」
呆れたような表情でオルフェが呟くが、その声音は表情とは裏腹に嬉しそうなものにブルーサスは聞こえた。