ぎっくり腰の女性を助けちゃったら自分もぎっくり腰になっちゃった件
レシートの長さと人生の先行きには、たぶん何の関係もない。
もやし \10
もやし \10
もやし \10
もやし \10
もやし \10
…
わたしは袋詰め台の前でレシートを見つめた。
努力というものは必ずしも報われない。買った分だけ金が減る。
たとえ、もやしであろうと。
わたしは袋にもやしを入れた。もやしは偉大だ。安い。量がある。レンチンで食べられる。大学生の味方だ。
スマホを取り出し、電子マネーのアプリを開く。
誰か大金を送金してくれないかな。
あるいは、どこかの企業が謎の懸賞金を振り込んだり、国家規模の支援金が突如始まったりしないだろうか。
残高を確認して、閉じて、また開いた。
……そんな奇跡は起きなかった。残高は昨日の続きでしかない。最後まで協力的ではなかった。わたしは諦めてスマホをしまった。
買い物袋は、ずしりと重かった。
でも、とにかく帰ろう。どうせまた明日が来る。
「はぁ、明日からどうしようかな……」
誰にも聞こえない、本当に小さな独り言だった。
直後だった。誰かの悲鳴が響いた。
「痛たたたたたたたたたたたたた!」
その悲鳴に、わたしは反射的に振り返った。
声の主はリュックを背負った女性だった。三十代前後だろうか。短めの髪。動きやすそうな服装。大きなリュック。その場でしゃがみ込んでいた。
「大丈夫ですか!意識ありますか!」
最初に駆け寄ったのは中年男性だった。
「あります」
女性は顔を上げた。即答だった。
「呼吸は?」
「してます」
「脈拍!」
「あります」
「AED!」
「要らないです」
「救急車!」
「そこまでではないです」
「動画撮っていいですか?」
わたしは思わずその人を見た。
二十代くらいの男性だった。女性は少し考え、
「顔は映さないでください」
「ありがとうございます!」
何に対するお礼なのか、わたしには分からなかった。
「これ絶対バズりますよね」
「どうでしょう」
「サムネどうします?」
「サムネ?」
「泣き顔とか」
「痛いのは腰なので顔は元気です」
女性は淡々と答えた。
「ああ~、撮れ高が…」
「宗教は?」
別の人物が口を挟む。
「入ってません」
「だからかもしれません」
「そうなんですか」
「たぶん」
わたしは聞き間違いかと思った。
「うちは毎朝感謝の祈りをしてまして」
「なるほど」
「腰痛になったことありません」
「健康で何よりです」
会話が成立していた。
「星座は何座ですか?」
「さそり座です」
「あ~、今日のラッキーアクシデントですね」
「そうですか」
「腰は心の問題です!気持ちが弱ると腰に来ます!」
「なるほど」
「もっとポジティブに!」
「今の状況でですか」
「ポジティブに!」
店員も到着した。
「これ、保険とか効くんですかね」
第一声がそれだった。
「どうでしょう」
「労災とかじゃないですよね」
「違います」
「そうですよね」
店員は少し安心した顔をした。
「うぅっ!」
女性から初めて少し辛そうな声が出た。
「大丈夫ですか?」
わたしは改めて聞いてみる。
「大丈夫ではない」
女性は言った。周囲が静かになる。
「けど問題なくもない」
わたしは一瞬考えた。意味がよく分からない。
「たぶんぎっくり腰」
ああ、と何人かが同時に言った。意外にも共感者は多かった。
「あー、それは辛い」
「私もなったことある」
「動けないやつだ」
女性は顔をしかめながらスマホを取り出した。
「何してるんですか」
「報告」
「誰にですか」
「世界」
女性は画面をこちらへ向けた。
『ぎっくり腰、なう #ぎっくり腰さんとつながりたい』
「え、つながりたい?」
「あ、いいねしました!」
「フォローしました!」
「お大事にってリプ送っときました!」
「がんばってください!」
気付けばファン交流会になっていた。宗教勢も占い勢も、なぜかSNSで交流
している。
わたしは周囲を見回した。動画を撮る人。宗教を勧める人。占いを語る人。保険を心配する人。そして、ぎっくり腰になりながら冷静にハッシュタグを付けている女性。
この場で一番まともなのは誰なのだろう。消去法の結果が最悪だった。
女性はスマホをしまった。
「さて問題は……、」
ぎっくり腰の女性は周囲を見回した。その視線には焦りがなかった。実際にはかなり痛いのだろう。額には汗が浮かんでいるし、姿勢を変えるたび顔も歪む。しかし、それでも何かの会議を進行する司会者のような落ち着きがあった。
「家まで帰れるかどうかなんだよね」
この人、本当に冷静だな。わたしはそう思った。そしてその瞬間、なんとなく理解した。この人はたぶん、ぎっくり腰の初心者ではない。
問題は腰ではないのか。家なのか。わたしは一瞬戸惑ったが、女性の中では優先順位が決まっているらしかった。
「家、近いんですか?」
「歩いて五分くらい」
「救急車じゃなくて?」
「ぎっくり腰で救急車呼ぶほどではないかな」
その言い方が慣れていた。
「誰か一緒に来てくれると助かる」
すると群衆は一斉にうなずいた。
「それがいい」
「そうしたほうがいいね」
「確かに帰れればね」
「うんうん」
全員賛成したが、誰も前へ出なかった。
数秒、沈黙が流れた。
「時給一万円」
場が静まった。聞き間違い?
「誰でもいい。家まで付き添ってくれたら時給一万円」
女性は淡々と言う。
「電子マネー払いでもいい?」
わたしの脳が一瞬停止した。
一万円。
五分。
電子マネー。
情報量としては少ない。しかし破壊力があった。
先ほどまで撮影していた男が口を開く。
「え、マジですか」
「マジ」
「一万円?」
「一万円」
男は少し悩んだ。
「俺、このあと用事が……」
ないよね?わたしにはそう見える。
あ、みんな視線を逸らしている。
たぶん、忙しかったのだろう。急に。そう、とても急に。
わたしだけがその場に残ってしまった。わたしは嫌な予感がした。
「あなた」
「あ、はいっ!」
「さっきため息ついてた子」
「え、見てたんですか?」
「聞こえてた、財布事情厳しそうだったし」
「そんな分かります?」
「結構分かる。どう?」
「どう、と言われても……、あ、あの、そんなにもらうのはちょっと……」
「じゃあ五千円」
「そういう値下げ交渉じゃないんです」
「七千円?」
「だからそうじゃなくて」
「一万円に戻す?」
「いや、あの……人助けですよね、だったら」
「労働でもある。私は家に帰れないし、あなたはお金が欲しい。一致してる。タイパもコスパも良い」
「うっ……確かに」
「じゃあまずリュック取って」
いつの間にか話が進んでいた。わたしは混乱したままリュックへ手を伸ばした。
「うっ!お、重っっ!」
人間一人くらい入っているのではないかと思った。
「何入ってるんですか」
「仕事道具」
「具体的には」
「色々」
絶対に色々ではない。
「前ポケット開けて。湿布があるから」
出てきた。しかも複数枚。
「冷感と温感どっちがいいと思う?」
「え?」
「参考意見」
わたしは人生で初めて、ぎっくり腰患者から商品比較を求められた。
「冷感で」
「私もそう思う」
なぜか、わたしは湿布を貼ることになった。
周囲の群衆は感心した顔で見ている。まるでボランティア育成番組だった。
「次、黒いの。そう、それ。腰痛ベルト」
「常備してるんですか?」
二本ある。
「一本だけで良い。そっちは予備」
予備が必要な人生なのだろうか。
「巻いて」
「私が?」
「私は今ぎっくり腰だから」
それはそうだった。
「こうですか?」
「もう少し上」
「この辺」
「そこ」
気づけば完全に介助スタッフである。
「次、痛み止め」
「まだあるんですか」
「もちろん」
ポーチから薬が出てくる。
「ぎっくり腰初心者?」
「たぶん」
「私はベテラン」
少し誇らしげだった。誇ることではない気がした。
「水なしで飲めるタイプだから大丈夫」
この人、ぎっくり腰歴上位ではないだろうか。
「ありがとう、だいぶ動けそう」
わたしは重たいリュックを持ち直した。肩にずしりと重量がかかる。何が入っているのか知らないが、この重さは腰に来るだろう。
「じゃあ行こうか」
女性は立ち上がろうとしたが、
「やっぱ支えて」
「ですよね」
わたしは肩を貸した。気づけば完全に逃げ道は消えていた。
わたしたちはスーパーの出口へ向かった。重たいリュックと、重たい人生と、重たい腰を抱えながら。
スーパーを出た瞬間、外の空気が少し冷たく感じられた。
季節の変わり目だった。
昼間はまだ暖かいのに、日が傾くと急に風が冷たくなる。体調を崩しやすい季節である。そのことをわたしは理解していた。理解はしていたが、まさか数分前に知り合ったばかりの人間を支えながら歩くことになるとは想像していなかった。
人生は説明書なしでイベントを発生させる。だから困る。
「右足から行きます」
女性が言った。
「はい」
「次、左」
「はい」
「右」
「はい」
リハビリみたいだった。
わたしは右肩で女性を支え、左肩で異常に重いリュックを支えていた。さらに買い物袋もある。
手が足りない。もう一本くらい腕が生えていてもよかったのではないだろうか。
「重い?」
女性が聞いた。
「かなり」
「正直でよろしい」
「何が入ってるんですか、本当に」
「パソコンとか」
「それだけじゃないですよね」
「カメラとか」
「まだある」
「資料とか」
「まだある」
「サンプル品とか」
「まだある」
聞くだけ無駄な気がしてきた。リュックの中身は物理法則を無視して増殖している可能性がある。
「仕事、大変そうですね」
会話でもしなければ、重さに意識を持っていかれる。
「そう?」
「だってこれ、仕事道具全部入ってるんですよね」
「全部ではない」
「全部じゃないんですか」
「今日は軽装」
軽装という単語の定義について話し合う必要があると思う。
「何の仕事なんですか」
「ああ」
女性は少し考えた。
「説明が面倒なやつ」
「面倒なんですか」
「面倒」
その時点で、わたしは少し興味を持った。
普通の仕事なら、会社員なら会社員、アルバイトならアルバイトで済む。説明が面倒な仕事には、何かしら事情がある。
「フリーランス」
「へえ」
「が近い」
「近い」
「完全に合ってるわけでもない」
難易度が上がった。
「パソコン仕事もするし、現地調査もする。取材もするし、輸出入もする」
「何者なんですか」
「自営業者」
急に分かりやすくなった。そして同時に何も分からなくなった。
「町歩きみたいなこともするんですか」
「する」
「何のために」
「情報集め」
「何の情報ですか」
「色々」
また色々だった。この人は色々という言葉を便利に使いすぎている。
「面白い店とか、地域の文化とか、イベントとか。海外向けに発信したりする」
「海外向け?」
「日本面白いよって」
「へえ」
「意外と需要ある」
わたしは知らなかった。
自分が当たり前だと思っているものを、誰かは面白がるのかもしれない。スーパーの商品棚だって、弁当コーナーだって、外国人が見れば興味深いものなのかもしれない。世界は見る人によって変わるらしい。
「輸出入っていうのは?」
「物を売ったり買ったり」
「雑」
「細かく説明すると長い」
それはそうだろう。わたしだって大学の専攻を説明しろと言われたら困る。四年間学ぶ内容を三十秒で説明できるなら、大学はもっと短い。
「でも面白そうですね」
「面白いよ。大変だけど」
「どっちなんですか」
「両方」
それは妙に納得できた。世の中の仕事は大体そうなのだろう。面白い。大変。どちらか一方だけではない。
わたしたちはゆっくり交差点を渡った。女性は時々表情を歪める。やはり痛いのだろう。しかし会話が止まることはなかった。
「それにしても、急でしたね」
「何が?」
「ぎっくり腰」
「ああ」
女性は苦笑した。
「昨日の自分に言ってやりたい」
「何をですか」
「座るな」
「そんなにですか」
「そんなに」
即答だった。
「最近ずっと歩いてたんだよ」
「フィールドワークで?」
「そう」
「健康的じゃないですか」
「昨日全部台無し」
女性は空を見上げた。
「締切があってね。気付いたら十時間くらい座ってた」
「十時間?!」
「途中で立ったと思う。けど、記憶がない」
「そういうのって関係あるんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「専門家じゃないから」
その答えは誠実だった。自信満々に嘘を言う人より信用できる。
「でも私は関係あると思ってる。最近歩いてたから油断した」
わたしは少し黙った。自分も油断している。いつか痛い目を見るのかもしれない。
すると女性が急に笑った。
「まあ、その時は誰かを雇えばいい」
「簡単に言いますね」
「今回みたいに」
わたしも少し笑った。そして、その瞬間だった。ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問が口から出た。
「本当に一万円もらっていいんですか」
女性はきょとんとした顔をした。
「まだ気にしてるの?」
「なんか申し訳なくて」
「なんで?」
「だって人助けですし」
女性は少し黙った。考えているようだった。
「私は助かる。あなたはお金をもらう。それでいいじゃない」
「でも、なんというか……」
「人助けだから、お金をもらっちゃいけない?」
「そういうわけじゃないですけど」
「困りごとを解決して、対価をもらう。そういう仕事もあるでしょ」
わたしは黙った。
「人助けも経済活動の一つ。ウィン・ウィンじゃない?」
女性はごく自然に言った。説教をしているつもりはなさそうだった。ただ、そういうものだと思っているらしい。
「その言い方、好きですね」
「便利だから」
そう答える声は、本当に便利な言葉を紹介している人の声だった。
わたしはまだ完全には納得していなかった。だが、少しだけ分かった気もしていた。この人は変わっている。かなり変わっている。しかし、自分なりの筋は通っている。そして、そういう人種は案外嫌いではなかった。
家の並ぶ住宅街が見えてきた。女性の家は本当に近いらしい。だが、わたしにとってはずいぶん遠く感じられた。距離の問題ではない。重さの問題である。
「見えた」
女性が前方を見ながら言った。わたしも顔を上げた。住宅街の向こうにマンションが見える。ようやく終わる。その瞬間、わたしは安心した。そして、その安心がまずかった。
女性の身体がぐらりと揺れた。
「わっ」
わたしは反射的に身体を支えた。反対側ではリュックも引っ張っている。二つの重量が同時にかかった。
「ごめんね」
女性が、珍しく申し訳なさそうだった。
「大丈夫です」
本当は少し大丈夫じゃなかったが、今ここで言うことでもない。少なくとも自分は歩ける。歩ける人間が歩けない人間に弱音を吐くのは、何となく気が引けた。
「あと少しだから」
「それ、三回くらい聞きました」
「言霊」
「便利ですね」
女性が少し笑う。わたしもつられて笑った。その直後に女性の顔が歪む。笑うだけでも腰に響くらしい。
「やっぱり笑うの禁止」
「禁止ですね」
わたしたちはゆっくり進んだ。
マンションはすぐそこなのに、最後の数十メートルが妙に長い。登山の山頂付近みたいだった。見えているのに着かない。むしろ見えているから余計につらい。
あと少し。
今度こそ、本当にあと少しだった。
ようやく、マンションの入口へ着いた。風が当たらなくなっただけでも少し楽だった。
だが女性はほぼわたしへ体重を預け始めていた。限界が近いのだろう。
「大丈夫ですか」
「いや。大丈夫、ではない」
「そうでした」
「けど家が近い」
「そうですね」
エレベーターが来る。
乗る。
沈黙が流れる。
女性は壁にもたれた。わたしも壁にもたれたかったのだが、手が塞がっていた。
エレベーターが上がっていく。
数字が変わるのが、やけに遅い。
日常では数秒なのに、疲れていると永遠みたいだった。
ようやく到着音が鳴り、ゆっくりと扉が開く。
廊下をのろのろと進む。
女性は完全にわたしへ寄りかかる形になっていた。
あと数メートル。本当にあと数メートル。
その時だった。女性の足がもつれた。
「っっ!」
身体が沈む。わたしは反射的に抱き止めた。全体重がかかる。肩。腕。腰。一瞬だけだが、全てが密集した。
「ごめん、たぶん電池切れ」
「スマホじゃないんだから」
「残り二パーセント」
「それは危険ですね」
「かなり」
ようやく部屋の前へたどり着く。
「インターホン押してもらえる?」
「あ、はい」
わたしはボタンを押した。
一度。二度。三度目を押そうとした時だった。向こうから声が聞こえた。
「はいはーい」
「帰った」
女性が言う。
「待って、すぐ開けるから!」
声が返ってくる。数秒後、ドアが開いた。
「帰ったじゃないわよ。SNS見たよ。またやったの?」
「やった」
「でしょうね」
会話の内容だけ聞くと犯罪者だった。しかし実際にはぎっくり腰だった。
わたしが最初に思ったのは、この人たちは普段からこういう会話をしているんだろうな、ということだった。
「あら」
出てきた女性はわたしを見て、少しだけ目を丸くした。
「かわいい子拾ってきちゃって」
わたしは固まった。ぎっくり腰女性は即座に答えた。
「拾ってない」
「保護?」
「助けてもらった」
「家では飼えないわよ」
「飼う予定もない」
ずいぶん慣れたやり取りだった。
わたしには理解できなかったが、理解できないままでも成立している種類の会話である。おそらく長年の積み重ねがあるのだろう。そういう空気だけは分かった。
「ありがとうね」
「あ、いえ」
「途中で腰痛ベルト巻いてもらったりしてたから、だいぶ助かった」
ぎっくり腰女性は真顔でうなずいたが、次の瞬間、ぎっくり腰女性の表情が歪む。
「あ、無理」
「立ってないで入って。また悪化する」
「それもそう」
わたしはリュックを渡し、帰ることにする。
「あの、じゃあ私は」
「あ、待って」
ぎっくり腰女性がスマホを取り出す。
「送金」
忘れてた。
「読み取って」
表示されたコードをスマホで読む。友達追加。送金。通知。
一連の動作は一分もかからなかった。
一万円が入っていた。
「言ったでしょ」
「本当に払うんですね」
「払わない理由ある?」
「確かにないです」
わたしは何度か頭を下げ、静かに玄関を後にした。さっきまでの騒がしさが嘘みたいだった。
空はすっかり夕方だった。
歩きながらスマホを見た。
一万円はまだそこにある。幻ではないらしい。
何となく残高画面を閉じた。今日は何度も残高を見た。
だが今は少し違う気分だった。朝より金持ちになった訳ではない。将来が保証された訳でもない。悩みが消えた訳でもない。それでも何かが少し変わった気がした。
少しだけ前を向いてもいいのかもしれない。
そんな気持ちになった。人助けなんて人生でそう何回もしたことはない。しかも今日は、助けた上にお金までもらった。理屈として正しいのかは分からない。でも悪い気分ではなかった。
明日から頑張ろう。少なくとも少しだけ……。
わたしはそう思った。そして大きく息を吸って、ぐっと背筋を伸ばした。
その瞬間、腰に鋭い痛みが走った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
痛みが遅れてやってくる。
息が止まり、身体が固まる。
嫌な予感しかしない。
数分前に見た光景が脳裏によみがえる。
スーパー。叫び声。ぎっくり腰。ベルト。湿布。痛み止め。時給一万円。
全部が一本の線で繋がった。
「え、もしかして、これがぎっくり腰ってやつ?」
ちょうどその時、通行人らしい男性が足を止めた。
「あの、大丈夫ですか?」
似たようなやり取りを見た気がする。
わたしは数秒考えた。
「……あの、腰やっちゃったみたいなんで、一万円で助けてもらえませんか? あ! 電子マネーで!」




