肺炎
「親友だった八木くんは、僕がうつした肺炎で死にました。」
僕が殺したようなものです、と黒いカーテンの向こうに座っている男が付け加えた。彼の不安が滲む声をさらに夕方に差し掛かった仄暗い懺悔室が引き立てている。向かって座る司祭からも男からもアーチ状の木枠にかけられた分厚い布のせいで互いの顔は見えないが、息遣いは確かに感じ取っている。司祭は不謹慎にも、懺悔の時間がやって来る度に、刑務所の面会室を連想していた。二人を隔てるものが固い板でないだけだ、と。
二つ繋げられた狭い個室の司祭が居る部屋には橙色の光が差し込んでいるが、向かいの男がいる部屋は真っ暗だ。その暗闇の中、彼は親友に病をうつしてしまったことを告白したのだ。
「その罪悪感が、貴方を苦しめているのですね?」
男の言葉に対して、司祭は素直に感じたことを述べた。苦しみから男を解放してやりたいという純粋な善意からだ。ただ、返答は何だか要領を得ないものだった。
「いえ神父様、そうですが、そうではないのです。」
こうして布の向こうの輪郭も見えない男は話し始めた。司祭にできることは黙って耳を傾けることだけだった。
♦
小学三年生が終わる直前のことだった。僕は当時流行していたウイルス性の肺炎に罹り、自宅で療養していた。症状は重く、ひどい高熱と肺の痛みが何日も続くせいで、呪われてるんじゃないかとも思ったほどだった。
その日、ベッドに寝込んだままでドアの開く音が聞こえて、そっちを見たらマスク姿の八木くんがにっこり笑って立っていた。八木くんは、学校には中々顔を見せない僕を心配して溜まった授業のプリントを届けるついでにお見舞いに来てくれたみたいだった。
「体調はどう?」
「さっきくすりを飲んだからいまは平気だよ。」
「そっか。みんな心配してるよ。」
「うん。ずっと休んでるのに良くならないんだ。」
げほっ、げほっ、げっ、げっ、と咳き込んだら、八木くんは背中をさすってくれた。服越しでも分かるくらいに手が暖かかった。
落ち着いた後、僕の母に長居はしないように言われたのか、彼自身の気遣いなのか
「じゃあ、またね。」
とまた笑いながら言った。
「うん、またね。」
「これ、元気になったら食べてね。」
「あ、たべグミ。」
ポケットから差し出されたそれは八木くんの大好きなお菓子だった。きっと彼が彼のお母さんに買ってもらったものを僕の為に持ってきたのだと、子供ながら直感した。
彼とは同じ病院に、一週間違いで産まれた縁からずっと仲が良く、両親の次に長い時間を共有していた親友だった。お互いの為ならなんでもできると、僕も、きっと彼もそう思っていた。
「はやく学校で会おうね。」
お菓子の包装の裏にそんなことが書いてあるメモが貼ってあるのに気づいたのは彼が帰った後だった。ありがとうって言わなきゃ、なんて思っていた。
彼のお見舞いのおかげか、それからみるみるうちに体調が回復し、その日から数日ほどで元通りかそれ以上に元気になっていたと母も話していた。
八木くんが僕と同じ肺炎に罹ったと彼の母から聞いたのは、あの日のお礼を言いに行ったときだった。僕も彼を心配したが、八木くんが調子が悪いとの理由で直接会うことはできなかった。うつしたのは多分、彼がお見舞いに来てくれてときだろう。結局最期まで会うことはできず、八木くんはそれからすぐに亡くなった。肺の痛みを訴えながら、苦しみ悶えて死んだそうだ。
僕の、せいだ。
それは、初めての罪悪感だった。扉の向こうから、僕の母が八木くんの母に必死に謝る声を聞きながら、真っ黒な気持ちに沈む感覚を味わわされた。今度は病原菌とは違う、何か嫌なものが胸に広がっていったのを今でも忘れられない。
ただ、僕の胸に居座るものは罪悪感だけではなかった。恐怖だ。八木くんを殺した病と同じものに僕が罹っていたことに気が付くと、死んだのは僕だったかもしれないという恐怖が僕を埋め尽くし、いつの間にか彼への罪悪感すら食い潰していた。恐怖で頭が一杯で、死ぬ感覚、呼吸ができなくなっていく感覚、体が冷たくなっていく感覚、考えたくもないのに死ぬとはどういうことなのか考えずにはいられなかった。
それでも生まれて初めての死への恐怖は確かに僕の中に存在したまま、時折顔を出しながらも折り合いをつけながら生活していた。あの出来事を機に転校したこともそうすることができた理由の一つなのだろう。そして、母だ。母が親友を失くしたばかりの僕に寄り添ってくれたおかげだ。
それからしばらく後のこと。大学生になった僕は家を離れ、一人暮らしを始めることになった。良い意味で落ち着かない生活もつかの間、どこから貰ってきたのも分からないが、僕は季節外れのインフルエンザに罹ってしまった。八木くんの一件以来、僕は病気にならないよう手洗いも小まめな消毒も心掛けていたので、病床に臥すのは久しぶりのことだった。まだ友人と呼べる知り合いはできておらず、意識は朦朧としているのに孤独感だけははっきりとしてるのだった。
そしてすぐ、心配したマスク姿の母がやって来た。実家はかなり遠方だったのにも関わらず来てくれた母を見て、安心するようなほっと暖かい気持ちになったのを覚えている。
「当たり前じゃない。あなたのお母さんなんだから。」
その気持ちを伝えたら、明るい調子で返されたのだった。
母は手つかずだった身の回りの家事を全部済ませると、手料理を作ってくれた上に作り置きまでしてくれた。
「傷まないうちに食べてね。」
帰る瞬間まで僕を心配していた母だった。一日も無い滞在だったが寂しさに包まれていた僕の心はずいぶんと救われた。そのおかげか、次の日から僕の病状は異常なほどあっという間に良くなり、体は以前よりも軽い気すらしていた。そして、冷蔵庫の母が作ってくれた手料理を食べきる前に母の訃報を聞いた。インフルエンザが重症化して心筋炎を引き起こしたらしい。苦しんで、亡くなったそうだ。
それを聞いた瞬間長い間忘れていたあの気持ちがまた顔を覗かせた。罪悪感と恐怖だ。八木くんのときみたいに大切な人がまたいなくなった。僕の、せいで。僕がうつしたせいで。同じだ。
でも、同じじゃなかった。あのときあった冷たい泥に肩まで浸かるような罪悪感は一瞬でどこかへ消え、すぐに以前よりもずっとずっと強くなった死への恐怖に襲われた。母が僕にしてくれたことは覚えているのに、母が死んだように自分も死んでいたのかもしれないと考えたら、そんなことどうでも良かった。
死んだのが僕じゃなくて良かった。八木くんと母で本当に良かった。
二人が死んでくれたおかげで、僕は生きていられるような気がしていた。
「ありがとう。」
八木くんに言いそびれていた言葉が頭を掠めた。
それから僕は、熱っぽければ父に会い、咳が続けば大学で出会った気の合う友人に会い、大切な人にそれを押し付けようと必死になるようになった。時には飼っていたダックスフンドにうつそうとしたこともある。初めはおまじないのつもりだった。でも、不思議なことにうつした病のどれもが重症化し合併症を引き起こし大切な人を奪って、逆に僕は健康な体に戻ることができた。不思議、の一言では片づけることのできない出来事の筈なのに、気づいたら僕はそれをただの偶然として受け入れる勇気も失くしてしまっていた。そして、おまじないをしない、という勇気すら。
仕方なかった。八木くんも母も苦しんで消えてしまった。二人とも、僕が生きて喜んでいるに違いないって、必死に言い聞かせることしか僕にはできなかった。仕方ないから、僕はきっと悪くない。
体調を少しでも崩す度にその儀式を繰り返していたせいで、社会人としての生活に慣れる頃には僕はほとんど独りぼっちだった。けれど、孤独じゃなかった。
妻がいたからだ。
妻と出会ったのは職場だった。人事の都合で異動になり、その新しい部署の上司が彼女だった。彼女は部署に馴染めない僕を気にかけ、何かと食事に誘ってくれた。彼女の明るくて話しているだけでも元気を分けて貰えるような雰囲気が心地良く、普段は他人には話さないようなことも彼女には喋ってしまっていた。おまじないのことは伏せたが、僕の家族が全員亡くなってしまっていることを知った彼女は、泣いていた。
「私と同じだね。」
「え?」
「私もね、昔、私がまだ小学生のときに、お父さんとお母さんが車の事故で死んじゃったんだ。」
「…それは大変でしたね…。」
「うん。私もそのとき同じ車に乗ってたんだけど、お母さんがね、私をこう…抱きかかえるみたいにしてたんだって。だから、私はお母さんのおかげで今生きていられるの。二人の分まで生きなきゃっ、て思うんだ。こういう気持ち、分かるよね?」
それから彼女は僕に弁当を作ったり、映画を見に誘ってくれるようになった。僕も、独りの時間が彼女に埋め尽くされるのが嫌じゃなかった。次第に、僕からも話しかけることが増えていった。初めての心が通じる体験で、僕もそんな彼女を愛していた。孤独を抱える僕らが結婚するまでそう時間はかからなかった。
それから、身寄りのない僕を案じ大切にしてくれる人に触れたことで、今まで家族も親友も犠牲にしてきたことが急に後ろめたくなり、彼女だけは絶対におまじないをしないと僕は心に決めていた。でも、いや、だから、食事にも睡眠にも気を払い、絶対に病気にならないようにしていた。いつか、自分が恐怖心に負けてしまうのが怖かったのだ。
結局、僕は彼女には病気はうつさなかった。些細な風邪を引くことはあったがおまじないには頼らず自力で治すように努めた。もしかしたら僕は病気のせいで死んでしまうかも、そういう気持ちは少なからずあったが、彼女の顔を見て踏みとどまっていた。
そんな生活がニ、三年続いていたときのことだ。当時、世界中で流行していた新型のウイルスによる肺炎が職場で爆発的に広がり、感染対策は徹底していたのに僕もその病人の一人になってしまった。あの、社会の形を変えるほど蔓延した感染症にかかってしまったのだ。幸い妻は休職中で無事だったが、僕は自宅での療養を余儀なくされた。
恐れていたことが起きてしまったのだ。妻には絶対にうつさないよう細心の注意を払い、ほとんどの時間は自室に籠っていた。本当に、妻にはいなくなってほしくなかったからだ。
新聞やテレビに流れる感染者数と死亡者数は連日増えていった。僕の症状も中々治らず、むしろ重くなる一方だった。どんどん呼吸が難しくなる。体が熱いのに冷たくなっていく。芽生えた死への恐怖に気が付いて、それを押し殺すように抗生物質と解熱剤を一気に飲み込んだら体に力が入らなくなって僕は眠った。
熱に魘されながら見た夢の中で、僕は八木くんの通夜に出席していた。冷たい喪服を着たまま俯いて椅子に座り、低い声のお経がずっと聞こえている。
「ねえねえ。」
不意に声がした。八木くんの声だ。でも僕は顔は上げない、俯いたままだ。
「ねえねえ。」
遺影のほうからするその声はどんどん大きくなる。怒っているのか、悲しんでいるのか分からないけれど温度の無い声。顔を上げないように必死に堪えて、耳も塞いだのにまだ聞こえる。嫌だ。
「ねえねえ。」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「お前が死ねば良かったのに。」
僕は八木くんを見るのが怖かった。でも、見ないほうがもっと怖かった。
視線を上げるとそこに八木くんはおらず、代わりに僕の遺影と目が合った。
夢と現実の区別もつかないまま真夜中に飛び起きた。僕は全身の毛穴から溢れた汗もそのまま、別室で寝ている妻の元へ行き彼女の前で数えきれない程咳き込んだ。あとは、いつも通りだった。妻は消えてしまった。
でも、いつもと違うのは、押し付けた病が連れて行ったのは妻だけではなかったことだった。
妻は、妊娠していた。
少し膨らんだお腹を僕は知っていた。知っていて差し出してしまった。
やってしまった、心に決めたのに、って後悔すべきなのに僕はまだ怖かった。まだ死ぬのが怖かった。胸に広がるその気持ちは前よりずっとはっきりしている。
♦
「長くなってしまいすみません。これが僕の懺悔です。とても、信じられないですよね。でも、最後まで聞いていただき、有難うございます。」
司祭には俄かには信じられなかったが、男の語りから漏れる不安のせいでどこか真実味を感じ取っていた。
ただ、男が欲しがる言葉を見つけられず、有体なことしか言えなかった。
「…私にはとても信じられません。ただ、貴方の身に起きたことは全て偶然の一致なのかもしれませんが、あなたの罪悪感に向き合いたいという気持ちは尊敬します。貴方は貴方が思う罪に向き合っている。ここに来たことが何よりの証左ではありませんか。」
「有難うございます神父様。なんてお優しいのでしょう。こんな僕なんかに。」
「…しかし、貴方はまだ怖いと仰っていた。貴方は恐怖の感情から解放され楽になりたいのですか?」
「はい、ですがもう大丈夫です。少し、楽になりました。」
辺りはすっかり陽が落ちている。司祭はそのことにようやく気が付いた。だんだんと男の口調が明るくなっているのにも。
「今もう大丈夫、と言いましたか?」
「その通りです。この話は誰かにするのが初めてなのです。やっと抱えるのが楽になりました。僕一人ではとても背負えるものではなかったのかもしれません。とても晴れやかな気分です。人生で一番と言って良いほど。」
司祭は何も言わない。
「神父様には感謝してもしきれません。僕の恩人です。恩人で大切な人です。」
男はカーテンを開けて続ける。
「実は僕、いま熱っぽいんです。」




