雪蛍
今日は、瑛蓮に渡す誕生日のプレゼントを買うため、ひとりでデパートに来ていた。
僕より一年早く上京していた瑛蓮は、春先まではよくメッセージを送ってくれた。けれど、最近は──SNSの既読がつかなくなっていた。理由を尋ねることもできないまま、胸の奥に溜まっていく沈黙だけが重かった。
デパートの階段を上がる途中、僕はふと足を止めた。磨かれた大理石の段に、渦のような影が埋まっていた
アンモナイトだ──螺旋を描くその化石は、白い地層の奥底に、ひっそりと眠っているようだった。何百万年も前の海の底が、この都市の階段に埋め込まれている。その不条理さに、胸の奥がざわめいた。
「……すごいね」
自分に問いかけたその瞬間、視界の端で黄色いものが揺れた。
小さな光が、ふわりと浮かんで消える。
「え、なんで?」
蛍だと思った。昔は、デパートでカブトムシとかを売っていたが、今でもそうなのだろうか? と、少し不思議に思った。
けれど、冬のデパートの三階で蛍を見るはずがない。
そういえば、最近は、虫型のドローンなんてのもあったはずだ。これだけ照明が明るいなかで、光が見えるのはおかしいから、そういう何かだったのだろうか?
視線で、その何かを追いかけようとしたが、すっと光が消えたら、そこに何もなかった。僕は、それほど視力がよくないので、何かの見間違えだろうか、とそのときは思った。
その後、アクセサリー売り場へ向かい、淡い緑色の石のついた小さなブレスレットを選んだ。瑛蓮が好きそうな、控えめで柔らかい色合いだった。
包装を待つ間も、先程の光の残像が頭に残っていた。
──あれは、確かに蛍だった、と思った。
包装された箱を受け取ると、僕は深呼吸をひとつしてデパートを出た。
薄い夕暮れの中で、風が一瞬だけ春の匂いを運んできた。
季節が、混ざってこんがらかっているんじゃないか、なんて不安が、胸の中で膨らんでいった。
瑛蓮の下宿先のアパートは、東京に住む叔父がオーナーをしているもので、初めて行く訳ではないのに、その夜に限って妙に遠く感じられた。
街灯が落とす光と影の境界が、どこか不安定で、僕の足元は、ずっとふらついていた。
風は冷たく、頬を刺すようだったが、それよりも胸の内のざわめきのほうが痛かった。
呼び鈴を押すと、少しして扉が開いた。
暖かい空気が、ふっと外へ漏れた。
その中に立った瑛蓮は、ほんの一瞬、僕を見て驚いたように目を見開いたが、すぐに険しい表情になった。
「……直人、どうしたの?」
名前を呼ばれたのに、そこに懐かしさはなかった。
声のどこかが、ちぐはぐに聞こえた。
「誕生日だから……プレゼントを持ってきたんだ。最近、連絡つかなかったから……」
僕は、言い訳じみた言葉を並べながら、ブレスレットの箱を差し出した。その箱は、やけに軽く感じられた。
瑛蓮は、箱を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
「直人……そういうの、もうやめてって言ったよね?」
「え?」
「君とは、先輩後輩だった。それ以上じゃなかったんだよ」
その言葉は、冷えた空気よりも鋭く胸に刺さった。
僕は、反射的に息を飲んだ。
「そんな……急に、どうして?」
瑛蓮は、視線をすっと逸らした。
彼女の目に映らなくなった僕は、急に世界から切り離されたみたいだった。
「直人、君は優しい人だよ。でも、離れて思ったのよ。その優しさが、重いときもあるの。SNS、既読つけなかったのも……正直言って、もう距離を置きたかったからよ」
真剣な表情で、しかし覚えている穏やかな口調で言うその声音の柔らかさが、逆に僕を追い詰めた。
あのデパートの階段に眠っていたアンモナイトのように、僕の中で、何かがゆっくりと固まっていった。
その沈黙を破るように、彼女のスマートフォンが震えた。
「……ちょっと、ごめん」
瑛蓮は、画面を見て、ほんの一瞬、表情を明るくした。
一瞬、僕の知らない誰かの名前が、画面に浮かんでいるのがわかった。
僕に背を向けたまま、瑛蓮は、通話ボタンをスワイプした。
「うん……今、出るところ。ううん、大丈夫。すぐ行くよ!」
その声は、僕に向けられたことがないほど柔らかかった。
胸の中で、何かがばらばらと崩れる音がした。
耐えきれずに、僕は玄関に向かった。
「直人……」
瑛蓮が、僕を呼び止める。
その声に縋りたいような衝動が胸を満たした。
「……最後に会えて良かったよ」
優しい声だった。
けれど、それは、僕に向けられたものではなく、過去の僕への別れのように感じられた。
扉を閉めると、外の空気はさらに冷たかった。
息が白く滲む。
僕はただ、自分がどこに立っているのかさえ分からなかった。
そのとき、雪の中で、小さな黄色い光がひらりと舞った。
蛍だった。
冬にはありえないはずの光が、僕の前へ、さらに前へと進んでいく。
まるで、僕に続きを見せようとするかのように。
「……なんなんだよ?」
呟きながらも、僕はその光を追っていた。
それ以外に、歩く理由がなかった。
蛍は、雪の降る夜道の先へと誘うように光った。
僕の足は、自然とその光を追いかけていた。
***
蛍を追いかけて歩き続けているうちに、僕は、自分がどこに向かっているのか分からなくなっていた。
ただ、あの光に置いていかれまいとする気持ちだけが、足を前へ進ませていた。
夜の街は雪に沈み、音が吸い込まれていくようだった。東京なのに変だな、と少し思った。
すると、足元の感触が、アスファルトのものではなくなった。
乾いた枝が折れる、細い音がした。
僕は、驚いて足を止めた。
「……森?」
そこに、都市の残り香はなかった――街灯も、車の音も、人の気配もない。雪に沈んだ木々の影が、静かに僕を囲んでいた。
信じられなかった。
ついさっきまで、僕は確かに、駅から少し離れているとはいえ、それなりに人通りがある住宅街の中を歩いていたはずだ。
蛍の残光を追いかけていただけで、こんな場所に迷い込むはずがない。
それでも、目の前にある景色は、ホンモノに思えた。
僕は、吐息を一つつき、歩き始めた。
森の奥へ進むにつれて、空気はさらに冷え、世界の輪郭が薄くなっていくように思えた。
木々は雪の重さに耐えかねてしなり、枝は静かに震えていた。まるで、地元の冬山のようだな、と思った。
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
そこには、青白い光を湛えた泉があった。
泉は、全面が完全に凍っていた。
氷は、薄い層を重ねながら、夜の月を映して輝いていた。
蛍が、その泉の中央でふっと明るくなり、僕の前から消えた。
その光が消えてもなお、僕の目は泉の中心に向いていた。
そこに、何かが沈んでいたと分かったのだ。
氷の下に、人影があった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
白いワンピースを着た女性が、仰向けに、氷の下の水に沈んでいた。
髪がゆらゆらと揺れ、衣服はまるで光を吸い込むように、淡くぼやけていた。
目は閉じているように見えたが、眠っているのか死んでいるのか、その境界がわからなかった。
僕は、息を呑んだ。
寒さとは違う震えが背中を走り、喉が凍りついた。
世界に置き去りにされたような不安が、急に押し寄せた。
僕は、思わず後ずさった。
そのとき、森の奥で枝がぱきりと折れる音がした。
誰かがいる──そう感じた。
いや、何かが、だろうか。
僕は、その場に立っていられなくなり、泉から逃げるように駆けだした。
雪の上を走るたび、足元から湿った音がした。
どれほど走ったのか分からない。息が切れ、胸の奥がきしむように痛んだ。
ふいに、空気が変わった。
冷えた冬の匂いが薄れ、代わりに湿った夏の香りが満ちた。
汗ばむほどの蒸し暑さが、肌にまとわりついてくる。
「……え、夏?」
僕は、慌てて辺りを見渡した。
木々は、鬱蒼と生い茂り、地面は乾いた土の匂いを放っている。
夜空を舞うのは、蛍の群れだった。
「ゲンジボタルか? ……すごい数だなあ」
冬の森ではなく、真夏の川辺だった。
季節が、まるごと入れ替わっていた。
僕は、その場に立ち尽くした。
現実と夢の境目が曖昧になり、足元の感覚さえ定まらなかった。
──ここはあの泉の続きなのか。それとも、まったく別の時間に来てしまったのか。
蛍の光が、川のほうへと流れていく。
そこから、誰かの言い争う声が聞こえてきた。
僕は、吸い寄せられるようにその声の方へ歩き出した。
***
蛍の光を追うように歩くと、湿った夏の夜気が喉の奥にまとわりつき、冬服の下の下着が、サウナに入ったように暑くなってきた。
さっきまで冬の森を駆けていた身体が、別の季節に置き換えられて、混乱していた。
上着を脱ぎながら川に近づくと、人の声がはっきりと聞こえてきた。
「……もう、無理なのよ! これ以上は、絶対、無理!」
女の声だ。震えてはいたが、押し殺した怒りが混じっていた。
「勝手なこと言うな! いったい、誰のおかげで──」
男の声は荒く、酔っているようにも聞こえた。
声のする方へ近づくと、月光に照らされた川べりで、男女が向き合っていた。
蛍が二人の姿をぼんやりと照らし、そこだけ現実の中で切り取られた舞台のように浮かび上がっていた。
女は、浴衣姿で、髪が乱れていた。
男は、Tシャツ姿で、顔が紅潮していた。
「離してよ──痛い!」
女が腕を振り払おうとした瞬間、男はバランスを崩し、苛立った声をあげた。
「お前が悪いんだ……!」
男の手がポケットに滑り込む。
その仕草を見て、胸がざわめいた。
月光を受けて、きらりと何かが光った。
刃物だ。
「やめろ!」
気づけば、僕は叫んでいた。
頭で考えるよりも先に、体が動いた。
足元の土を蹴り、全身でぶつかるように男へ飛び込んだ。
衝突の衝撃で、男の手から刃物が飛んだ。
次の瞬間、僕たちは川へ落ちた。
冷たい水が肺にまで突き刺さるように入り込み、呼吸が乱れ、世界がぐるぐると回る。
水面に浮かび上がろうともがくと、男が怒号を上げ、僕を掴もうとしてきた。
必死に、岸へ向かって泳ぐ。
手足が言うことを聞かない。
どうにか岸に上がったときには、もう体中が震えていた。
「だ、大丈夫……ですか?」
女が駆け寄ってきた。
その顔には涙の跡があり、恐怖と安堵が入り混じっていた。
僕は必死に呼吸を整えながら、自分の心臓の音をたしかめた。
「うん……僕は、大丈夫。警察、呼ばないと……」
スマートフォンを取り出そうとしたその瞬間、視界がぐらりと揺れた。
蛍の光が輪になって、僕の周りを漂っているように見えた。
「──ありがとう。本当に……ありがとう」
女の声が遠くなる。
背中に当たる土の温度が、夏の夜だというのにやけに冷たかった。
僕の意識は、そこで闇に沈んだ。
***
誰かが僕の肩を揺らしていた。
もがくように息を吸い込んだ瞬間、胸の奥で何かが破れるように音を立てた。
「……大丈夫ですか?」
咳き込むと、聞き慣れない女性の声だった。
耳の奥で、川の流れの音がまだ残響のようにこびりついていたが、その声は不思議と鮮明に届いた。
目を開けると、そこは、新幹線の車内だった。
柔らかいシートの感触があった。
金属の振動が規則正しく響き、窓の外では暗い景色が高速で流れ去っていた。
「すごく……うなされてましたよ」
隣に座る女性が、少し心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
僕は、状況を理解できず、何度もまばたきを繰り返した。
体は、乾いていた。
濡れた衣服の感触も、冷たい土の温度もない。
手のひらを見ても、川で揉まれた痕跡はどこにもなかった。
(あれは夢だったのか?)
僕は、思わず自分の胸を押さえた。心臓は、川辺で走ったときのように早く打っていた。
「……あの、どこまで行かれるんですか?」
女性の問いかけに、僕は反射的に口を開いた。
「あ……東京、です」
その答えは、自分でも驚くほど自然に出てきた。
けれど次の瞬間、胸の奥で違和感が弾けたように広がった。
僕は、慌ててスマートフォンを取り出した。
時間と日付を確かめた瞬間、手が震えた。
──昨日だ。
デパートへ行く前の日付だった。
蛍を見て、冬の森へ迷い込み、夏の川で争いに巻き込まれ……そんな出来事が起きる前の日付だった。
息が止まりそうになった。
さっきまで確かに触れていた冷たい水も、走ったときの土の感触も、全部消え去っている。
けれど、記憶だけは鮮やかに残っていた。
「……大丈夫ですか? 本当に苦しそうでしたよ」
女性が、優しく声をかけてきた。
僕は、小さく頷いた。
「あ……すみません。変な夢を見てて」
「夢……? そうなんですね。何か声をあげようとしていましたよ。よく分からなかったのですが」
僕は、曖昧に笑うしかできなかった。
夢ではない、と言い切れる何かの確信があった。けど、説明できるはずがない。
お礼を言って、また携帯を見たら、新幹線が速度を落とし、アナウンスが流れた。
もうすぐ駅に、着くらしい。
僕は、席を立ち、ぎこちない足取りでホームへ降りた。
外の空気は冷たく、昨日と同じ冬の匂いがした。
(やっぱり、夢のはずがない)
僕の直感は、あの夜を『確かに経験した』と告げていた。
そして、もう一つ──あの川で見た女の人の顔が、頭から離れなかった。
泣きながら「ありがとう」と僕に言ったあの声が、耳の奥でリフレインした。
あれは、現実だったのだろうか。
それとも――まるでSFのようだが――僕の知らない別の時間線の出来事だったのだろうか。
僕は、深く息を吸った。
こんな経験は初めてだった。しかし、まるで何もなかったかのように、今が再び始まりつつあるのだ、と思った。
瑛蓮との関係は、その後、静かに終わった。
再び訪れた誕生日の日、夢?とは違って、彼女は驚くほど明るく僕を迎えたが、その笑顔の奥には、やはり僕の知らない影が潜んでいるいように思った。
その後、SNSに既読はつくようになったが……影は次第に輪郭を持ち始めて、やがて、彼女の心の中には僕の居場所は既になくなったことを、嫌でも理解するしかなかった。
別れは、思っていたよりも早く、そして短い会話で済んでしまった。
その場を離れたあと、僕の胸の中には、悲しみよりもむしろ奇妙な空虚さが広がっていた。
あの夜、川べりで目を覚ました女の涙の方が、瑛蓮との最後の言葉よりも鮮明に思い出された。
(……あれは本当に夢だったのだろうか)
その疑問は、季節が進むにつれて、僕の中で重さを増していった。
夏が来て、湿った空気が街に満ちた頃、ふと川のことを思いだした。
蛍で有名な川を検索すると、名所として紹介されている場所が見つかった。
写真に映る川面の光景は、あの夜の記憶と重なり、忘れられない胸の痛みがよみがえった。
僕は、迷わず電車に乗り、その川へ向かった。
駅を降り、人気の少ない道を歩き続けると、湿気を含んだ風が肌を撫で、遠くから水の流れる音が聞こえてきた。
やがて木々の間から、無数の光が見えてきた。
蛍が、飛んでいた。
あの日と同じように、夏の闇に溶け込むように漂っていた。
僕は、その光景に立ち尽くした。
蛍は、時間の隔たりを越えて僕を呼び戻したように思った。
強い既視感を覚えて、息を整えるまでしばらくその場から動けなかった。
「……あれ?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、浴衣姿の女性が立っていた。
薄い黄色の浴衣に、小さな花柄が散っている。
その顔を見た瞬間、僕は呼吸を忘れた。
あの女の人だった。
川の中で泣きながら、僕に「ありがとう」と言った人だ。
「やっぱり……直人さんですよね?」
彼女は、ためらうように微笑んだ。
戸惑っているようだが、同時に懐かしさを覚えている、といった表情をしていた。
なぜ、彼女が僕の名前を覚えているのか、それすら分からなかった。
けれど、言葉を発さなくても分かる気がした。
彼女も、あの夜を忘れていなかった。
「久しぶり、なんですよね……本当は」
彼女がそう言うと、胸の奥で何かが柔らかく解けたように感じた。
僕は、ゆっくりと頷いた。
「僕も……来れば会える気がしてました」
本当のところ、それは答えになっていなかった。
この場所に来た理由は、彼女に会うためというより、あの夜の記憶を確かめたかったからだ。
それでも、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「ここ、毎年来ているんです。落ち込んだ時とか、迷った時とか……」
そう言って、彼女は川のほうを見つめた。
夜風が吹き、蝉の声が遠くで薄く響いた。
川の上には、無数の蛍が淡い光を散らしながら流れていた。
「……あの夜、本当に助けてくれましたよね」
彼女の声は、あの時の震えをわずかに残していた。
僕は、口を開きかけ、言葉を選べないまま沈黙してしまった。
あの夜、季節が変わり、時間が捩れて、世界が僕を連れ回した。
その説明を、どう彼女に伝えるべきなのか分からなかった。
「覚えていてくれて、嬉しいです」
彼女はそう言い、静かに笑った。
その笑顔は、あの夜の涙からほど遠く、柔らかい光に満ちていた。
蛍の光が、まるで彼女自身から零れているかのように見えた。
僕は、ふと、自分がいまどこに立っているのかを意識した。
過去の影と未来の光が交わる場所に、僕は立っているのだ。
季節を越えて導かれた場所で、僕は、ようやく自分の存在の意味を確認したように思えた。
「来てよかったです。会えて……本当に良かった」
その言葉は、胸の奥から自然に湧き出たものだった。
嘘や建前ではなく、僕自身の本当の気持ちだった。
**※
川辺を歩きながら、僕は、自分の歩幅がいつもより少しゆっくりしていることに気づいた。
隣を歩く彼女は、時折蛍の群れを見上げ、その明るさに微笑んでいた。
蛍の光は、風の流れに押されるように揺れ、川の上を漂いながら淡い軌跡を描いていた。
「この川……落ち着きますよね」
彼女の言葉は、蛍の光と同じくらい柔らかかった。
僕は頷き、川面に視線を落とした。
あの夜と同じ場所なのに、空気は穏やかで、争いの影はどこにも見えなかった。ただ、夜風が時折、頬を撫でていった。
「僕、ずっと考えてたんです。あの時のこと」
「……あの時?」
彼女は歩みを止め、僕の顔をそっと見つめた。
蛍の光が瞳の奥に映り込んで、揺れていた。
「僕は、あの夜のことを夢だとは思っていないんです。あなたが泣いていた顔が……どうしても、現実の記憶にしか思えなくて」
僕が、言うと、彼女は息を飲んだ。
その表情を見ただけで、言葉はもう十分だった。
「……私も、現実だと思っています」
声が震えていた。
あの夜の恐怖を思い出したのかもしれなかった。
けれど、その震えには、あの夜を越えてきた人の確かさが宿っていた。
「あなたが消えた時、どうしていなくなったのか分からなくて……でも、ありがとうって伝えられたのは本当に奇跡でした」
彼女は、川の方へ視線を向けた。
蛍が、川面に淡い光をばらまくように飛んでいた。
「ここに来たら、また会える気がしたんです。だから、今年も来てみたんです」
その言葉に、胸が熱くなった。
川面に映る蛍の光が静かに揺れ、僕たちの影を淡く照らしていた。
夜は深まり、川は過去の記憶を抱えながら穏やかに流れていた。
あの夜の不可思議な出来事は、いま、この再会へとつながっていた。
現実はひどく脆いけれど、再び交わった縁は、確かに僕のなかで輝きを増していた。
「直人さんは……あの夜、何を見たんですか?」
彼女の問いは、とても静かだった。
僕は少し考え、泉のことを話すべきか迷った。
冬の森、凍った泉、氷の下に沈んだ女──言葉にした途端、その記憶が嘘になりそうな恐れがあった。
でも、彼女はあの夜を覚えている。ならば、僕の嘘も真実も受け止めてくれる気がした。
「言葉にするのが難しいんですが……季節が入れ替わる瞬間みたいなものを見ました。自分がどこにいるのか分からなくなるくらい突然で、不思議で……でも、それがなければ、あなたを助けられなかった気がします」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「そういうこと、あるのかもしれませんね。信じられない話ですけど……でも、あの夜は本当に助かりました。あり得ないようなことが続いた結果でも、こうして生きていられますから」
彼女は、笑った。
その笑顔は、あの夜とは違う。
泣き腫らした顔ではなく、いま、ここで生きている人の表情だった。
僕は、蛍が川沿いに描く光の帯を見ながら、自分の胸に手を当てた。
あの夜の冷たい水の感触も、折れそうだった心の痛みも、すべてがいまへつながっていた。
「また……来ていいですか?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
彼女は、少し驚いたように目を見開いたあと、微笑んで頷いた。
「はい。私も、また会いたいです」
僕と彼女は、そのまま並んで川沿いを歩いた。風は柔らかく、空には星がいくつも瞬いていた。
蛍の光がしばらく空中に漂い、それから草むらの奥へ吸い込まれるように消えた。
僕はその光の行方を、最後まで目で追った。
蛍が夏の夜に描いた軌跡は、現実と記憶を結ぶ細い糸のように見えた。
その糸は、おそらくこれから先も、僕たちのどこかにそっと繋がり続けるのだと感じていた。
(了)
こちらも、ン年前に、今はなき、ゆきのまち幻想文学賞に投稿(ようと思って書きかけでストップ)したモノを、AIで書き切ったものです。雪と蛍という言葉が思いついて、でも、季節が逆じゃん、それって夏への扉?とか思ってストーリーを創った感じですね~。




