10. 婚約するらしい
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「……っ!」
目が覚めてハッと飛び起きた。
キョロキョロと部屋の中を見回すとまだ薄暗い。
随分と早く目が覚めてしまったらしい。
「あ……そっか。今のは夢」
ジュリエッタを演じていた三ヶ月間の頃の夢を見ていたのだと気付く。
そしてそんな夢の内容を思い出して小さく笑う。
「……初めて外に殿下を連れ出した時の夢だったわ」
手を繋がれたり、顔にペタペタ触れられたり……
とにかく恥ずかしくてドキドキさせられた。
でも、あれが後々殿下が手術への前向きになるきっかけにはなれていたようで……
ちゃんと私のしたことに意味はあった。
「あれからは外への散歩も毎日の日課になったのよね」
窓に視線を向けるも外もまだ薄暗い。
「ふふ、最初は私の腕を掴んで怖々と歩いていたのに───」
気付いたら私たちは腕ではなく、自然と手を握って散歩するようになっていた。
そんなことを思い出して自分の両手をじっと見つめる。
「手……また、荒れてきたわね」
ジュリエッタの身代わりが終了し、専属侍女となる時に塗っていたクリームは取り上げられた。
それだけでなく、“私”が持っていた荷物は全て取り上げられた。
今はジュリエッタの元にある。
(古代語の本も……)
せっかくお借りしたけれど、もう私があの本を読むことはない。
ジュリエッタに言って殿下に返却してもらわなくては。
そこまで徹底しないと、目が見えていて私と接していたクリフさんや他の使用人たちに、ジュリエッタがおかしいと怪しまれてしまう。
「ま、この眼鏡じゃ顔もよく分からないし髪も染めてるし喋れないし……私がジュリエッタだったなんて気付けそうな要素は何もないんだけれど」
そう口にしていたら胸がキュッとなる。
(でも、寂しい。早く慣れないといけないのに)
せっかく、無事にジュリエッタから本当の自分、リネットに戻れたのに。
浮かぶのは寂しいという気持ちばかり。
この薄暗い部屋のように私の気分はいつまで経っても晴れなかった。
────
「……」
「あぁ、遅いわよリネット、さっさと朝の支度を整えなさい」
「……」
変な時間に目が覚めてしまったものの二度寝するわけにもいかず、ぼんやり過ごした。
その後、空が明るくなり少しだけ早めにジュリエッタの部屋に行くと、すでに彼女は起きていた。
慌てて朝の支度にとりかかる。
(ジュリエッタの朝は起きる時間が気まぐれなのよね)
早すぎても遅すぎても結局怒られる。
「今朝は殿下と朝食を共にするのだから、しっかり整えてちょうだい」
「……」
だから目覚めが早かったのかと理解した。
気合を入れるためなのだろう。
「そうね、ドレスはいきなり派手……にするとさすがに怪しまれちゃうから、髪だけ巻いてちょうだい」
「……」
私は承知しましたの意でジュリエッタに向かって静かに頭を下げる。
そんな私の姿を見てジュリエッタは満足そうに頷くとニタリと微笑んだ。
「あー、やだやだ。これ着るの? すっごい地味なドレスだわ」
着用するドレスを見たジュリエッタが思いっきり嫌そうに顔をしかめると同時に私のことを睨みつけてくる。
「どこかの誰かが地味な装いを三ヶ月もしちゃったせいで私も合わせないといけないなんて……! こんなの私の魅力が半減じゃないの!」
「……」
「試験の時の話は聞いたけど、採用された後はもう普段の私の格好でよかったじゃない! 全く……!」
ジュリエッタはお世話係の採用が決まってから、王宮に向かう時に着用するドレスの件で揉めた時のことまで持ち出して怒っていた。
あの時、もう普段のジュリエッタの服装でいいでしょ、というジュリエッタの要求を“お世話係なんだから”と言って私は突っぱねていた。
「せっかく目が見えるようになったのだから三ヶ月間、殿下のお世話をしてきた“ジュリエッタ”はこんなに美しいのよってアピールしたいのに!」
「……」
「チッ……あーあ」
何を言われても無言を貫く私を見てジュリエッタが舌打ちと大きなため息を吐く。
そしてその勢いで髪型にもダメだしをしてきた。
「相変らず無言でそのすました態度。本当に腹が立つわ───あぁぁ、もう、なによこれすっごい下手くそ! 髪一つまともに巻けないわけ?」
「……」
「無能! 本当に無能!」
ジュリエッタからの罵倒はその後も延々と続いた。
─────
最初にその話を聞いたのは、離宮に務める使用人たちによる噂話だった。
「ねぇ──聞いた? レジナルド殿下が婚約するって話」
(──え?)
私の胸がドクンッと鳴った。
ジュリエッタの朝の支度を終えた後、洗い場に洗濯物を取りに行ったら、中でそんな会話をしているのが聞こえて来たので思わず入口の前で立ち止まる。
(殿下が婚約……?)
「聞いた、聞いた! 殿下が目の手術を受けると口にした辺りから、クリフ様がこっそり婚約に向けて動いていたらしいわよ」
「あー、つまりお相手は……」
「それはそうでしょう? だって仲睦まじい様子で過ごしていたじゃない」
(───!)
彼女たちのその発言で“お相手”が誰なのか分かる。
「そもそも殿下のお世話係ってようするに花嫁候補と同じだもの」
「ジュリエッタさん……あ、ジュリエッタ様? 上手くやったわよねぇ」
「でも、悔しいけど殿下が手術を受ける気になったのが彼女のおかげなのは本当だしね」
(……そっかぁ)
そういう話が正式に出ているのなら私はちゃんとお役目を果たせたのね、と思った。
殿下のお世話係として働き、元気付けて手術を受けさせて……
叔父に言われた誘惑? は、結局よく分からなかったけれど、花嫁候補となれるように気に入られるというお役目。
(大丈夫……大丈夫)
だってこうなることは最初から分かっていたこと───
まだ、少し胸が痛むけれど時間が経てばきっと忘れられる。
私は胸を押さえて必死に自分にそう言い聞かせた。
✣
───その頃
レジナルド殿下と朝食を共にすることになった私、ジュリエッタはいそいそと食堂へと向かった。
「おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう」
笑顔で挨拶をすると殿下が優しく微笑み返してくれた。
私は内心でよしっとほくそ笑む。
(入れ替わりを疑われている様子は感じない、そして私に向けるこの笑顔……バッチリね!)
ピアノを弾いて欲しいと言われた時はびっくりした。
でも、ピアノで良かったと思った。
他の楽器はてんでダメだけどピアノだけは唯一習い続けていたので自信がある。
殿下が当たり前の様子でピアノを弾いて欲しいと口にしたから、まさかあの無能なリネットが? と思って本人に確認するとお世話係の期間中、かなりの頻度で弾いていたらしい。
(伯母の作った曲? そんなのよく知らないわ)
また弾いて欲しいと言われる前に、面倒だけどリネットに確認しておかなくちゃいけない。
(チッ、あの無能、なんで誰でも知ってる曲にしておかないのよ……!)
そんなことを考え、内心で舌打ちしながら席に着く。
そうして朝食の時間がスタートした。
「……」
「……」
けれど、食事が始まっても殿下はずっと無言。
挨拶の返事以降は全く喋ってくれない。
「…………何だか変な感じだな」
なんで? と思っていたらようやく喋りだしてくれた。
ホッと安堵しながら訊ねる。
「変? とは?」
「うん。君とこうして向かい合って食事をすることが、だよ」
「あ、そう……ですわね」
ふふ、と笑いながら理解した。
あー、そういうことね?
目が見えていない殿下と、たかが世話係のリネットがこうして向かい合って食事をとることはなかったはずだものね。
(な~んだ!)
つまり、殿下は私を前にして緊張して無口になっていただけなのね?
やっぱりこれはいい感じだわ、と再び内心でほくそ笑む。
(これは、プロポーズされる時も近いんじゃないかしら?)
「……うーん、見えていない時は美味しいと思えたが、いざ見えるようになると躊躇いを覚えるのは何故だろう……」
殿下はご自分の皿に乗っている人参のグラッセを見ながらそう唸った。
よく分からないけど、そんなに嫌いなら無理して食べなくてもいいじゃない?
こんなのたかが人参の一欠片程度だし。
苦手なものを出してくる料理人が悪いでしょ?
そう思った私は笑顔で口を開く。
「殿下! そんなにお嫌いなら無理して食べなくてもいいと思いますわ」
「……え?」
「え?」
何故か殿下が不思議そうな顔で私の顔を見て来たので、私も不思議そうに見つめ返す。
何? 何か変なこと言ったかしら?
別に普通のこと……よね?
そう思ったのだけど、せっかく口を開いてくれたのにその後の殿下はまた無口になってしまった。
(……なんだったの?)
でも、食事の後にまたピアノを弾いて欲しいと所望されたので喜んで弾くことにした。
リネットが弾いていたという伯母の曲が今は分からないので、今日は私の得意な超絶技巧を含んだ曲を披露する。
~~♪
(ふふ、凄いでしょう? 無能なリネットにはこんな曲を弾きこなすのは無理なはずよ!)
ミスもなく完璧に弾き終えた私に向かって殿下は感心したように言った。
「これまで弾いてくれていたのは、優しい曲ばかりだったから分からなかったよ。君はそんなに上手かったんだな」
(───!)
やった! 褒められた……! さすが私!
内心の喜びが止まらない。
「ふふ……ありがとうございます。こちらに来てから以前よりもかなり上達出来ましたの」
(やっぱり! リネットの実力程度じゃ易しい難易度の曲が、精一杯だったようね!)
「……そうか、それはよかった」
私が微笑みながらそう口にすると、殿下も微笑み返してくれた。