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01.皇帝と皇后

 その夜、皇后の宮殿を皇帝が訪れた。

 宦官が担ぐ輿に乗った彼は、皇帝のみに許される五指の龍が刺繍された(ほう)を身にまとっている。

 夜訪れた、といっても、別に夫婦の営みがあるわけではない。

 婚儀の夜だって、二人ともさっさと床に入り、お互いの体温でぽかぽかしながらぐっすり眠っただけだった。

 婚儀でもない今日は、彼は皇后の部屋に泊まらずに自分の宮へ帰る。夕食を共に取るだけだ。

 皇后の居殿、凰麟殿は「後三殿(こうさんでん)」と呼ばれる後宮の中心的宮殿の一つである。

 後三殿は妃嬪たちの住まう東西の六宮の間にある。北から凰麟殿(おうりんでん)交誼殿(こうぎでん)鳳麒殿(ほうきでん)と並び、それぞれ皇后の居殿、儀式用の宮殿、皇帝の居殿となっている。この三殿を回廊――といっても吹き抜けではなくきちんとした建物で、衛兵や宦官の控えの間となっている――が取り囲んで一つの区画を成していた。

 一つの区画とはいえ、宮殿自体が大きいし、凰麟殿と鳳麒殿の前には宴も開けるほどの月台(げつだい)と、中庭と呼ぶにはいささか広すぎる広場があるので、皇帝はたいてい輿に乗って凰麟殿を訪れる。


「こんばんは、皇帝陛下」


 ひとしきり儀式めいた挨拶を交わした後、三娘はにっこりと親し気な微笑みを皇帝に向けた。


「こんばんは、三娘」


 皇帝・丹堅(たんけん)も、朝廷では見せない穏やかな表情で三娘に挨拶を返した。変声期の少年独特のかすれた声だ。呉三娘は、故郷に残してきた弟を思いだした。最後に会った時は、呉三娘の肩くらいの身長だったが、どのくらい背が伸びただろうか。

 二年前の冬、初めて呉三娘が皇帝に会った時、彼はまだ十一歳になったばかりで、急いで仕立てた大人用の袍がいたいけな顔とどこかちぐはぐだった。突然押し出された政治の表舞台におびえて、肩口に顔をうずめてきたときの彼の震えを、彼女はよく覚えている。


「今日の夕餉はなんと! チョロチョロ鶏の蒸し焼きですよ! 西方の商人が特別に提供してくれたのです!」


「チョロチョロ鶏……?」


「皇后陛下、チョロチョロ鶏は西方の郷土料理ですよう。皇帝陛下が知るわけないですう」


「そうなのか、どんな味だ?」


「珍味ですかね」


「ゲテモノともいう」


 もう双子侍女にも慣れたもので、普通なら無礼としか言えない会話への割り込みも大して気にしない。


「そっそんなことないですよ!? チョロチョロ鶏は見た目はアレだけど、おいしいからね!?」


「ええ~あれは戦場や飢饉で選択肢がないときに食べるものですよう」


「鶏っていうか虫ですからねえ」


「虫じゃないです!」


「それはあ、ひもじいときに自分に暗示をかけるために鶏肉って思うものであって。平時なら普通に虫ですよう」


「……虫の蒸し焼き?」





 皇帝はチョロチョロ鶏を食べなかった。そもそも、西方の人たちだって好き好んで食べているわけではないのだが、三娘だけは気づいていない。

 夕食後のお茶を、月台で取りつつ呉三娘は皇帝に今日の出来事を説明する。

 凰麟殿はじめ後三殿は白玉(はくぎょく)でできた基壇の上に建っており、周辺の他の宮殿より高い位置にある。月台に出ると、他の建物に邪魔されず、夜空がよく見えた。

 秋とはいってもまだまだ暑い夜、満月一歩手前の月は眩いほどで、わずかに重なった雲も神秘的にその淵を輝かせていた。


「そういうわけで、楊徳妃に送った髪飾りを作った工房を教えてほしいのです」


「手間をかけたね。手配しよう。あれは宮中の工匠が作ったもののはずだ」


「ありがとうございます。

 それでですね、そもそももうちょっと妃たちを構ってあげてください。寂しいんですよ。まだ子供なのに親から引き離されて、こんなところに閉じ込められて」


 皇族であっても、結婚するのは通常十五を超えてからだ。この皇帝は少々異常な状況で急遽即位したので、後宮も特殊な状況にあった。


「それでさっさと寵愛する相手を見つけて、次の皇后を決めてください。私はとっとと引退しますので」


 皇帝は茶杯に視線を落として、水面に映った月が形を変えるのをしばし眺めてから答えた。


「そうは言っても、誰を選んでも宮廷が荒れるだけだし、私の帝位も危うくなる。

 君は英雄で、この国最高の軍事力を後ろ盾に持つ。だというのに権力欲がない。今のこの国の宮廷で、これ以上の皇后は考えられない」


 香淑妃は皇帝の生母、香皇太后の姪で皇帝の従妹にあたり、正四品(しょうしほん)正議大夫(せいぎだいふ)の娘だ。父親の位は高級官僚ではあるが、姉が皇太后になったために授けられた地位であり、官職もなく、そう権力はない。香皇太后は息子が皇位に就いたことで皇太后となった人で、先帝の寵愛は深かったものの数多くいた新興貴族出身の妃の一人だった。

 楊徳妃は正三品(しょうさんほん)中書令(ちゅうしょれい)の末娘だ。中書令は人臣の望みうる官位では最も高い地位の一つで、宰相とも呼ばれる地位の一つでもある。元々が建国前から代々続く超名門貴族の出身の人で、現皇帝の朝廷での首魁の一人といえた。

 そして皇后は、最強の軍を持つ西の樨国公の娘だ。ただ、樨国は中原に色気を出したことはこれまでの歴史で一度たりともない。


「それなんですよねえ。早く権力を掌握してください。まどろっこしいから、もうばーんとやってしまえばいいのに」


「ばーん……?」


「皇帝陛下、この人脳筋なんで、武力で退治しちゃえっていう意味です」


 お茶菓子を渡しながら、寿珪が失礼なことを言った。

 今日のお菓子は栗餡を小麦粉で作った厚めの生地で包んだ焼き菓子だ。


「そうできたらいいんだけどねえ。現状そんなことしようとしたら、暗殺されてしまうからね。こんな会話ができるのも、ここだけだ」


 この宮殿内にいるのは、皇帝夫妻の他には双子侍女だけである。護衛の宦官も皇帝付きの女官も、全員追い出してある。こんなことができるのは、ここが樨国公の娘の宮殿で、ここの女性三人が武術の心得ががあるからだ。


「君には悪いが、当分このまま我慢してくれ。その代わり、君の希望はできるだけ聞くから」


「……まあ、私がおばさんからおばあさんになる前にはどうにかしてくださいよ」


「誰がそんな失礼なことを?」


 皇后はしらけた目で侍女二人を見た。視線の先を見て、皇帝も納得した顔で笑う。


「彼女らがいれば、子守だって楽なものだろ?」


「子守なんてしませんから。私はただ静かにやり過ごしたいだけなんです!」


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