第105話_ケイトラント
油断していたわけではないと、女性は血を滴らせながら思う。
左目はもう見えない。左半身も深く傷付き、何とか両足で踏ん張っているものの重心は明らかに右へと傾き、左腕も上げられそうになかった。右腕一本だけで、大きな槍を握り直す。彼女はこの槍を、片手でも軽く振り回してしまえる。だが満足に動かせない身体で、目の前の竜種を仕留める威力でもって扱えるかと言えば、「否」である自覚が彼女にはあった。片目も使えない。いつも通りには距離感も掴めない。
「クソ、が」
悪態を吐く声すらも掠れ、それが自らの弱った状態を表すようで、彼女は苛立ちを募らせる。
見たことも無いくらい多くの竜種が攻めてきた。通常種だけならば何とかなった。しかし今、彼女を見下ろしている種はそうではない。通常種と比べ、一回り以上も大きな体躯。その癖、どうやらこいつは通常種よりも速いという特性を持つらしい。他の竜種とは違う特性を備えた亜種だ。通常種と紛れる形で襲ってきた為、女性は判断が遅れた。結果、この様だった。
「刺し違えて、でも」
いつの間にか、上空で此方を窺っていた通常種が消え失せている。それらはアキラが遠くから一掃したのだが、視界も狭まり、目の前の難敵に集中していた女性は気付いていなかった。目の前の敵さえ、命と引き換えにでも倒せれば、守れるはずだと。朦朧とした意識の中、槍だけはしっかりと竜種へと向ける。
竜種は今度こそ止めをと思うのか、前足で二度、土を叩いた。来る――そう感じ、構えを低くする女性。竜種がカッと目を見開き、土を蹴った。
「回復!!」
「あ……?」
突然、竜種の遥か後方から誰かの声が聞こえ、温かい光が全身を包む。同時に力の入らなかった左半身が蘇った。左目も見える。彼女の変化に気付きもしない竜種はそのままの勢いで迫り、女性へと太い前足を振り下ろしているが、両目が戻った彼女には止まって見えるほどの愚鈍な動きだった。
「何だか知らんが、残念だったなクソ雑魚! オラァッ!」
両手で握り締めた槍。左半身の負傷のせいで右に偏っていた姿勢も今はしっかりと両足で地面を捉え、前へと踏み出す。竜種の攻撃は彼女の身体に掠りもしないまま、槍がその喉元を正確に貫いた。
「……お見事。これはびっくりしたな、一人で此処を守ったの?」
竜種の身体が霧状になって消えた先。ローブを纏い、顔を仮面で隠した怪しげな女が拍手をしている。
「さっきのはお前か? 何者だ」
彼女から助けを得たのかもしれない、という予想があっても、槍を構えたままで女性は警戒を解かない。アキラの風貌が明らかに不審者であることも一因だろうが、本当の理由は別にあった。
「ケイトさん!」
二人の間に漂う緊張を切り裂くように、アキラが連れていた女性が彼女を呼んで、駆け寄る。ケイトと呼ばれた女性は目を見張っていた。
「ロマさん、無事だったのか! あなただけが居なくて、心配していた」
「はい、その方に助けて頂きました。他のみんなは?」
「大丈夫だ。魔物の急襲があってからは三人以上で部屋に籠ってもらっている」
「良かった……」
二人のやり取りを横目に、アキラは集落内を観察するように彼方此方を見回している。そのような動作もあってか、ケイトと呼ばれた女性はまだ、アキラへの警戒心を緩めていない。
「ロマさんを助けてくれたこと、そして私の傷を治してくれたことは礼を言おう。私はケイトラントだ。名は?」
「んー、ごめん。今はちょっと名乗れない。仕事中で、顔も出せないんだ。契約の問題でね」
名や顔を隠すのはあくまでもアキラの事情であって何ら仕事上の理由ではない。つまり全くの嘘なのだが、最初から用意していたかのようにアキラは躊躇い無く言い放つ。ケイトラントは、微かに眉を顰めた。名乗らない、顔も見せない相手に対して警戒を解けるはずがなかった。むしろアキラが続けた言葉にそれは最高潮へと達する。
「私はウェンカイン王国に雇われた魔術師。この地域で竜種が活発化したって話があったから、麓の街の防衛支援に来ていて」
「国の――」
息を呑むと同時に、ケイトラントはアキラに向かって明らかな敵意と共に槍を構えた。
「なら尚更、お前をこのまま帰すわけにはいかない!」
「ケイトさん!」
驚いた様子を見せたのはロマで、アキラは睨み付けてくる彼女を腕組みした状態でのんびりと見つめていた。止めようと一歩前に出たロマを、ケイトラントが片腕で制するようにして後ろに下がらせる。
「ロマさん、下がってくれ。恩があるのは理解している。しかし此処が見付かるわけにはいかないんだ」
「ですがその方は、内密にして下さると――」
「そんな口約束のリスクは負えない!」
隠れて住んでいる彼女らにとっては誰に見付かってもリスクはあるが、この場所を領土としているウェンカイン王国そのものと繋がっている相手なんて以ての外だった。まして、目の前に居る相手は顔も名も明かそうとしない。信頼に足る要素が何も無い。アキラもその程度のことが理解できないわけではないだろう。だが彼女は、信頼そのものを、全く求めていなかった。
「ふーん」
まるで他人事のように呑気にそう呟く。未だにアキラの視線は、ケイトラントではなく集落全体に向けられていた。
「私が回復魔法を使えることは結構な機密情報だから、君らに使ったのはめちゃくちゃまずいんだよね。此処が隠れ里で、外との繋がりが無いっていうのはむしろメリットなんだけど」
「……それを信じろと?」
「別に、無理にとは言わないよ。信じてくれなくて、帰らせてくれないって言うなら、私が取る手段は一つだけだ」
アキラの足元から、小さな電気が主張を始める。パリパリと空気を割くような音が、アキラの身体の周り、そしてケイトラントの近くまで、微かな光と共に膨らんでいく。
「証人が残らないように、今すぐこの集落を消し飛ばす」
口元に笑みを浮かべながらアキラは爽やかに宣言する。顔の認識が出来なくとも、彼女が『笑っている』ことだけは、対峙するケイトラントにも伝わっていた。




