妹の友人が家にやって来た
「じゃあな」
「おう。また明日、な」
和宏と別れの挨拶を交わした俺が辿り着いたのは、学園から徒歩二十分の位置に立地している高級マンション……の近くに棟を並べている一軒家群の内の一つ。
築40年弱という老朽化がゆるゆると進行中であるその家に、俺はわけあって高校一年生にして学園の後輩でもある妹の朝霧美優と二人で暮らしている。
三年前くらいから始まったこの生活もすっかり慣れたもので、親が生活費だけはきちんと支給してくれるために、アルバイトに追われたりすることなく何不自由なしに学園ライフを満喫出来ている。よって不満は特になし。
ただ……年頃の高校生男女を小さな一軒家に放置して海外で新進気鋭にバリバリと働く両親に対して、尊敬に値するという思いと放任の度が過ぎてるんじゃないかというアンビバレンスな感情を抱いている今日この頃である。
年頃の兄妹での二人暮らし。
救いとしては、キャミソールとショートパンツ一枚という露出度強の服装で当たり前のように家中をうろうろする色気満載の美人な姉、朝霧美空がこの春から一人暮らしを始めたために家にいないということ。そして肝心の妹である美優が、色気もくそもない生意気なガキであるという事実が存在することか。
仮に美優が美空のように無自覚的に色気を放つおっぱいの大きな美少女だったら、俺は日々悶々とした生活を強いられることになり、軽く死んでいた可能性すらあっただろう。家事を協力してやっていると否応無しに顔を合わせなくちゃならないからな……。
そういうわけで、こちらは理性が脅かされる心配が全くないので本当に助かっている。はは、我が家には高スペックなお兄ちゃんとクソガキ一匹しかいないのだ。
「あ、そういや今日一年は五限で終わりだっけ。ってことは……美優はもう家に帰ってるのか」
ゴールデンウィークという最高の一週間が幕を閉じてから数日が経った今日。星天城学園の一年生は参観授業で五限終了というスペシャル校時のようだった。
高校生にもなって授業参観などその必要性に疑問を呈したくはなってしまうが……ともかくそういうわけで今日は美優の方が、自称帰宅部のエースである俺よりも先に家に着いていると予測される。
だから俺は、紺色の髪をひと掻きしてからうんざりとした心持ちでディンプルキーを扉に差し込み解錠すると、慣れた手つきでノブを引っ張り扉を開け、玄関へと足を踏み入れた。
一体今日はどんな扱きの使われ方をされるのだろうかなどと、ぐるぐる頭を悩ませながら……。
「ただい……ん、これは……?」
扉を開けた瞬間俺が真っ先に視界に捉えたのは、綺麗に揃えられている一足の茶色いブーツ。見慣れぬそれを前にして、俺は小首を傾げた。
誰のものだろうか。美優はこんな靴持ってなかったはず……だとすると美優の友達? それとも保険会社のお姉さん? いや、だとしたら多分茶色のブーツでは来ないよな。うーん……。
俺が頭に疑問符を浮かべていると居間の襖が徐に開き、美優の顰めっ面が顔を覗かせる。
かと思えば、やや急ぎ足で、白髪を揺らしながらこちらにスタスタと駆け寄って来た。
「……美優、ただいま」
「……」
心なしかムッとしている様子。
あの……俺を邪魔者扱いするような目で見るのやめてもらってもいいですかね。
「……おーい、美優さん?」
「あのさお兄ちゃん」
「ん?」
「今あたしの友達が来てるからぜったいぜったいぜーーーーっっっったいにっ、居間に入ってこないでよね。いい?」
「ぜったい、の溜めが長すぎるだろ」
思わず間髪入れずに突っ込んでしまった。
美優の、居間に入ってくるなという強い思いがめちゃくちゃに伝わって来たぜまったく……。
けどそこまで言われたら逆に入りたくなってしまう。カリギュラ効果ってやつだ。禁止されればされるほど、逆に興味が増幅してやりたくなってしまうというアレである。
「で、返事は?」
「いやあのな」
「返事は?」
「おい」
「へ・ん・じ・は?」
まさに有無を言わさぬといった態度の美優に対し、俺はわなわなと怒気の湧き上がる自分を宥めるように拳をぎゅっと握った。妹よ、ちょっとばかし横暴がすぎませんかね?
だけどまあ、せっかくの友達との大切な時間を割くような真似はしたくないし、こいつも当然されたくないよな。
それに、美優が友人を家に連れて来たのなんて初めてだし。
非常にムカつくがここは居間に入るなとうるさい、年甲斐なく生意気な妹に従っておくとしよう。
「はぁ……分かったよ。部屋で大人しくしておくから」
俺は諦めのため息を一つ吐き出して承諾の意を示す。
それにしても……生意気な美優の友達ってどんな子なんだろう、めちゃくちゃ気になる。
やっぱり同じく生意気? それとも天使みたいだったりする? 後者なら上手く中和されていい感じだよなうん。後者でありますように……。
邪魔しないように二階へ行こうと心に決めたくせして、せめてお顔くらいは拝見させてもらっても……なんて下卑た好奇心がどんどん湧き出てくる。
そんな俺を他所に、美優はこちらの背後に回ると急かすように背中をぐいぐいと押して来た。
「それが賢明だよ、お兄ちゃん。それじゃ早速二階へレッツゴー」
「ちょっ、待て待て押すな。まずは手を洗ってから」
「あたしがいいって言うまで絶対降りてこないでよねー。ほらぁっはやくっ!」
「てめおい、話聞けよ」
なんでそんな頑なに俺とその友達を合わせたくないんだよ。
こっちはただでさえ女性経験皆無なもんで、色々と気になってしょうがないってのに。
「まじ顔合わせたらヤバいんだから。お兄ちゃんなんか一瞬で……」
「は? 何がヤバいんだよ」
「っ……そ、それはお兄ちゃんが知る必要のないこと! いいから早く上行ってよ。今すぐよ今すぐ! なうなうなう!」
「あっ、おいこら制服引っ張んじゃねぇ」
「さっき分かったって言ったくせにお兄ちゃんがさっさと二階に行かないからじゃん!」
「行くけどとりあえず先に手を洗わせろ」
「そうやってついでに襖の隙間を覗こうって魂胆でしょ? 分かりきってるっての!」
「別に、そんなものはない」
思いっきりバレてんじゃねぇかおい。
ついでどころかそっちが本命だわちくしょう。
「手なんて三時間後にでも洗えばいいじゃん!」
「三時間? バカ言うな、外から帰ってきた時の手にはたくさんの菌が付いてんだ。そのままの手でハンドグリップなんて握ってみろよ。たちまち菌だらけだぜ?」
「はぁ? そんなの握らなきゃいいだけじゃん! キモいんですけど!」
「無茶言うなよ」
「何が無茶なわけ? ああもうっお兄ちゃんのバカ! アホ! 間抜け! 筋肉!」
「なっ……お前筋肉を罵倒用語みたいに使ってんじゃ……あ……」
「……え?」
ぎゃーぎゃーと、くんずほぐれつしながらまるで痴話喧嘩のように言い合いをしていた俺たち。
耳障りなその声が居間の方にも届いてしまっていたのか、美優の友達……白いリボンで結ばれた黒髪ツインテールが特徴的なあどけなさの残る顔立ちの美少女が、開いた襖の隙間からその可愛らしい顔をひょこっと覗かせ、大きな瞳でまじまじとこちらを見つめていた。
何も、言葉が出てこない。
え……美優のお友達さんめちゃくちゃ可愛いんですけど? 見た目だけなら結構お兄さんの心臓狙い撃ちされちゃうくらい好みなんですけど?
……っといけない。落ち着けよ俺。無礼を働くな、まずは挨拶からだろうが。
どうも初めまして、俺の名前は朝霧遠利。いつも妹と仲良くしてくれてありがとう。これからもよろしくしてやってくれよな。あ、そうだ。ついでにお兄さんと連絡先効果しとく? え、いいの? よし、じゃあまずは友達からお願いします。
なんて脳内で一人暴走していたが、少女の不思議な魔力を宿したような紫に光る美しい瞳、そこから真っ直ぐに放たれた好奇の視線がこちらの心も視線も何もかも奪ってゆく。
先程まで頭を支配していた煩悩は瞬く間に弾け飛んだ。
心臓の鼓動はびっくりするくらい急速にペースを上げていき、気づけば俺は吸い寄せられるように彼女の目を凝視していた。
「……」
時間が停止したかのように、俺も美優も微動だにせず。ちくたくと秒針が刻を刻む音だけが森閑とした玄関に鳴り響く。
そんな静寂を打ち破るように、視線の先でほんのりと頬を赤く染めている美少女がゆっくりと口を開いた。
左右対称で重力に従って垂れている髪をふわりと揺らして……。
「こんにちは。あ、あのっ……お邪魔してます」
「ど、どうも。えっと……はは、ごゆっくり」
「この……っ、バカお兄ちゃんしねえええっっ!!」
俺が柔らかな笑みを浮かべながら美少女へ丁寧に言葉を返すと同時に、妹の強烈なローキックが俺の右脚を叩いた。