青井若葉はなびかない②
「トラウマだ……」
青ざめた表情で、久仁彦は誰に宛てるでもない言葉を呟いた。
あれからほどなくして、首根っこを掴まれたまま奥の座席まで運ばれた後、久仁彦は目を覚ました。
経緯としては、どうやら俺と同じように突然現れたゴリラに困惑し、店長のことを口走ってしまったらしい。
女好きがたたり、店長への下心を隠しきれなかったのだろう。
その結果が今の姿である。
「平手一発で済んだみたいで良かったじゃないか。その醜い顔が少しはマシになるかもしれん」
「友人を少しは労ってやろうとは思わないんですか?!」
「……え? 俺が、お前を、労る? ……ははは、なんでそんな必要があるんだ」
「人でなしか!」
久仁彦は顔をしかめて、腫れ上がった頬を抑えている。
「あの暴力店員め……覚えてろよ……この借りはいつか返してやる……!」
「やめておけ、まだ眠らされたりないのか」
残念だが、久仁彦があの筋肉ゴリラに勝てるビジョンがまったく見えない。
久仁彦は一般男性と比べて、体つきが大きい方ではない。あの大男に戦いを挑んだところで、キングコングにゴキブリが立ち向かうようなものだ。
何故ゴキブリかと言うと、久仁彦は夏だというのに長袖の黒い襟付きシャツを着用していて、ジーパンも同じく黒。
さらにティアドロップ型のド派手なサングラスを掛けている。
この前大学のキャンパスを歩いている時、近くの女子学生が久仁彦の話をしているのが耳に入った。
会話の中で久仁彦は、『漫研のゴキブリくん、気持ち悪くなーい? 猛スピードで近づいてくるし!』と気持ち悪がられていた。
その時の呼び名を気に入ったので、今回の例えに流用させていただいた。あの見知らぬ女子学生のワードセンスに感謝を。
「お前、なんでいつもそんな格好をしてるんだ? 見てるだけで暑苦しいぞ」
「分かってないねー、爽太くん。女子はこういうシンプルな服装をクールと感じるものなのさ!」
大袈裟に髪をかきあげながら、久仁彦は鼻で笑う。
「……ふーん、そういうものなのか?」
「あぁ。それに見てくれよ、このサングラス。スロット代を我慢して買ったんだぜ。大人っぽく見えるだろ?」
発想は中学生並みだ。
「どちらかと言えば、近寄り難く見えるんじゃないか? ひとつ間違えば輩にしか思えんぞ」
「なーに言ってんだよ! 今はチョイ悪の時代だぜ? これぐらいの方が女の子は惹かれるんだよ!」
チョイ悪という言葉のチョイスがそもそも古いのだが。
……あの女子学生たちの会話は、久仁彦には伝えないでおこう。それぐらいの優しさは俺にもある。
「まぁ、この店では大人しくしておくんだな。あのゴリラに睨まれると厄介だろ?」
「……いや、ここで引くわけにはいかないね。俺は男だぜ? さっきのは不意を突かれただけで何かの間違いさ。次近寄って来たら後ろからギッタンギッタンのボッコボコに——」
「おっ待ちーーー! ドォリンクお持ちしやしたーーーーッ!」
「ヒィッ!? ごめんなさい何も言ってません僕が悪かったんですすみませんでした!!!」
完全に調教されてしまっているぞ。
久仁彦は話に熱中していて気付けなかったようだが、側面から筋肉ゴリラが近付いてきていた。
手のひらに乗せているトレンチが、その体格のために不自然なほど小さく感じられる。
「さっきはすまんかったな、坊主たちよ! お詫びと言っては何だが、サービスしておいたぞ!」
トレンチの上にはロンググラスが4つ並んでいた。2つは注文していたアイスコーヒー。残りがサービスという事だろう。
「……なんだよ、ちょっとは気が効くじゃん」
久仁彦はほんの少しだけ牙を抜かれたようだった。
グラスが机に置かれる。アイスコーヒーの氷がガラスに触れて、カランと綺麗な音を立てた。
もう一つのグラスの中は茶色の液体で、少し粉末の固体感が見て取れる。この特徴はたぶんココアだろう。何故か氷が入っていないのが気になるが。
「まあ、これに免じて今回は許してやるよ! 俺は懐の深い男だからな!」
久仁彦は声を弾ませて、ココアを口に運ぶ。
ドリンクで懐柔される浅い男の間違いではないのか。
「ああ、是非飲んでくれ、私の作った特製プロテインだ! ココア味の粉末に全卵を2個、さらにミキサーにかけた鶏胸肉100グラムを加えている!」
ぶーっ! 久仁彦が吐き出した液体を、俺は済んでの所でかわすことができた。危ねえ!
「喫茶店でどうしてプロテインが出てくるんだよ!」
顔を真っ赤にしながら、久仁彦が憤慨する。
こちらがびっくりするほど、彼らしからぬ真っ当な意見である。
「今日からの新メニューだ。安心しろ、とにかく体にいい。私は1日3回必ずこれを飲んでいる」
「胸焼けするわ!」
「店長の許可もちゃんと取っているぞ。彼女も『これで新たな客層も取り込めますね〜』と喜んでいた」
どうやら店長もバカらしい。
久仁彦が飲むまで待ってて良かった。「爽太ちゃん、見知らぬ人から簡単にものを貰っちゃいけんよ〜」と教育してくれた母にも今度礼を述べておこう。
俺が胸を撫で下ろしていると、
「ちょっと、あんたたちうるさいよ! こっちは仕事中なんだ、静かにしてちょうだい!」
少し離れた席に陣取って、スマートフォンを弄っていた30代後半ぐらいのおばさんから注意が飛んだ。
おっと、こちらも極めて正当な意見だ。
俺は3人を代表して、「あ、すいません」と軽く会釈をする。
マダムは苦々しい表情で「まったく……」と呟き、また視線をスマートフォンに戻した。
どうやら、しばらくは声のトーンを気にしておいた方が良さそうだ。
俺は話題を変えるべく、言い争いを続ける2人の方へ向き直る。
「で、その店長さんはどこへ行ったんだ? ……一応言っとくが、他意はないぞ」
一瞬、不穏な空気が流れたのを感じ取ることができた。俺は過ちを繰り返さない。
「あぁ、今は買い出し中だ。そろそろ戻ってくると思うんだが——」
「ただ今戻りました〜。……あら?」
キッチンの裏手にある勝手口から、穏やかそうな女性が戻ってきていた。
落ち着いた大人の女性という雰囲気は出ているが、その小柄な体型を見る人が見れば、大学生と思っても仕方ないような容姿をしている。
これまで何度も見かけているから、この女性が誰かは知っている。この店、「CAFE 夢追い虫」の店長だ。
「あらあらあら? トッキー、もうお客さんと仲良くなったの?」
重そうなスーパーの袋をカウンターに置いて、店長はコロコロと笑いながらこちらに寄ってきた。
「そうなんだ店長。ちょうど今、彼らと盃を交わそうとしていたところだ」
なんだその厨二病患者もびっくりな読み方は。
「それは良かった! 早速トッキー考案新メニューが役に立ちましたね!」
嬉しそうに飛び跳ねながら、店長とゴリラはハイタッチを交わす。
テンションおかしいだろ。
「店長さん、この店員は何なんですか? 今まで見たことないですけど」
『誰なのか』ではなく『何なのか』と訊ねたところに、俺としては若干の棘を込めたつもりだったのだが、店長はほのぼのとした笑みを崩さない。
「彼は狭間刻男くん。3日前からうちのお店で働いてもらうことにしたんです」
なるほど。刻男だからトッキーなのか。
「おう、貴様たちも気軽にトッキーと呼んでくれていいぞ!」
狭間はバシバシと遠慮なく久仁彦の肩を叩く。久仁彦はそれに対し、「痛い痛いやめろ」と苦しい声を漏らしていた。この男と気軽に接していたら、油断してるうちに命を取られてそうだ。
「あと、私が店長の巫女沢みどりです。お客さん、たまにこのお店来てくれてますよね。店員2人揃って、よろしくお願いしますね?」
小動物のような愛らしさで、みどりさんは頭を下げた。
「あ、はい。よろしくお願いします」
俺は反射的に返事をする。
「やっぱり可愛い……」
久仁彦も無意識のうちに唸っている。
おい、死にたいのか。
「貴様、今なんて言った?」
「ヒィッ!? ちょ、ちょ、ちょっと俺トイレ行ってくる!」
慌てて逃げ出していく久仁彦。
このバカは今日、無事にこの店から出ていけるのだろうか。
俺は半ば呆れながら、久仁彦の行く末を案じていた。
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