プロローグ
『チャンスの神様は前髪しかない』という言葉を初めて聞いた時、俺が思ったのは「はてさて、どのぐらい強く引っ張ったらその神様はハゲるのかな?」ということだった。
この神も仏もありゃしない凶悪な発想に至ったのは、なにも俺が映画になるとやけに頼り甲斐のある傍若無人なガキ大将だったからというわけではなく、さらにいえば愛と勇気だけが友達と主張しながら全てを拳で片付ける暴力パンマンだったからというわけでもない。
1人の男子小学生による、純粋無垢な疑問だった。
「チャンスの神様は一瞬で通り過ぎてしまうの。だから、見つけたら早く前髪を捕まえなきゃいけないのよ!」
叫ぶようにそう言い放った担任の花子先生は当時33歳の独身だった。だからこそ、その言葉は鋭い刃のように説得力を持ち、俺の心に深く突き刺さる。
その必死さが、魂に響いたからかもしれない。
言葉からイメージしたチャンスの神様は、超高速で校庭を走り回るブリーフ一丁のおじさんだった。
そしてもちろん、後頭部はしっかりと禿げ上がっていた。
どうしてチャンスの神様はそんなあられもない姿にされてしまったのか。その偏見の出所は何処なのか。大学生となって幾分かは語彙力を手に入れた今でも、言葉にすることは難しい。
けれど、少なくとも当時の俺にとっては、「①前髪しか生えていない」「②一瞬で通り過ぎる」という2つの情報だけで、変質者認定を下すには十分だったのだ。
そんな可愛げさの欠片もない小学生だった俺だけれど、花子先生による鬼気迫ったアラサー女子の主張を全く理解していない訳ではなかった。幸いにも、それぐらいの賢明さは持ち合わせていた。
夢を叶えるためには、自分の努力だけではどうにもならないことだってある。
それでも、その夢を現実にしたいなら、運とか縁とか、そういった類のものを必死になって掻き集めることが必要だ。
たとえ、泥だらけになっても。
そんな風に、俺らしくもなく真剣に考えたりしてみたこともあったけれど、それでもチャンスと聞いて思い浮かべるのは、やはりブリーフ姿で駆け回る変態紳士の姿であるのは変わらなかった。
ーーあの女の子に出会うまでは。
光沢のある黒髪をたなびかせ、慌てた様子で未来から現れた少女。
彼女から漂う芳しい香りに、俺は「未来のシャンプーは随分と進化を遂げているんだな」とついつい思ってしまったものだった。
けれども、全てが終わった今となっては、その匂いの正体に嫌でも気付かされている。
ーー『トイレのサ○デー・ラベンダーの香り』。
チャンスの神様は、レストルームから現れた。