9 焼ける町、現れるゴブリン
「ゴブ。こっち。燃えてる街。こっちゴブ」
人語を介する一匹のゴブリンが俺たちに先行して走っていく。付与魔法を掛けられたゴブリンの足は馬車ほどの速度に向上している。同じく『肉体強化』で身体能力が強化された俺は両腕にアンを抱え、左肩にヤンスを付けて追走していた。
「おい、ゴブリン。本当にこの方角で当たっているのか」
「おれ。あの街知ってる。仲間も知ってる。だから正しいゴブ」
片言であるが、ゴブリンはしっかりとこちらと言葉を交わす。
「ゴブ君、もっと急いで! 街を救わなきゃ」
「ゴブ。アン様。了解したゴブ」
ベッキーとの通話のあと。
目の前に現れたのは、ゴブリンの集落地で戦った『束縛』の魔術を使うゴブリンメイジだった。緑色の胴体の真ん中に、大きな傷跡が残っていた。洞窟と集落地は大きく離れている。このゴブリンは、俺たちのあとをこっそり付いてきたとしか思えない。
普通だったら仕返しに来たのだと勘繰るところだろう。だが、アンは躊躇わなかった。
「ゴブリン君! 力を貸して」
アンはゴブリンに腕を伸ばし、呼びかけた。ゴブリンはおどおどとしながらも(チラチラと俺の方を気にしていた)、その手を握った。お友達の握手のつもりだろうが、恐らくゴブリンにはそれの意味が分かっていなかったと思われる。
握手の手を通じて、アンの魔力がゴブリンに流れ込み、ゴブリンの背中にうっすらと奴隷紋の紋章が刻まれた。ゴブリンはきょとんとしてから、ゆっくりと喋った。
「……お、おれ。話してるゴブ。何で?」
「ゴブリン君。さっきの街、どこか分かる?」
ゴブリンは頷いた。
「案内して。私、そこに行かなきゃなの」
「??? 分かった。案内。おれする。おれ負けた。みんなに捨てられた。あんた助けた。だから、おれ、助ける。でも、みんな助けたい」
「ならば今すぐ駆け出せ。のんびりしている暇はない」
俺は威圧的に言った。案の定、ゴブリンは逃げるように走り出した。『灰の手』で刻みつけた恐怖はいまだ健全のようだ。
「こっちゴブ」
アンが慌ててあとを付いていく。俺とヤンスもそれに従った。
途中でアンがゴブリンと俺に付与魔法を掛け、移動速度が格段に上がった。
俺の首にしがみ付くアンの顔には余裕がない。俺はそこに一抹の不安を感じるが、今は余計なことは言わないでおいた。議論している時間も惜しいだろう。
半時間走ると、遠巻きに赤い光と陽炎が見えた。
燃える街。中心部への街道にたむろする何十匹のゴブリン。
「見えたわ!」
もどかしそうにアンが俺の腕から降りて、自分の足で駆け出す。
術者の動揺が影響に出て、俺に掛かった『肉体強化』の効果が解けた。
俺は襲われた街の様子を見る。
街の奥まで侵入されたのだろうか? 街道を占拠したゴブリンどもが邪魔で窺えない。火の手はあちこちに見えるが、大規模な火災にはなっていないようだ。人間とゴブリンの怒号と、戦闘音が聞こえてくる。両者の死体もちらほら見える。
衝突しているところに真正面から突進しようとするアンを、俺は呼び止めた。
「待て。今あそこに行ったら、ボロボロにされるぞ」
「じゃあどうするの! 今すぐ止めなきゃ」
「落ち着け。お前以外、冷静だぞ。お前が慌ててどうする」
はっ、とアンが目を開き、俺とゴブリンを見た。
「……ごめんなさい。我を失っていたわ」
「いいから落ち着け。闇雲に挑んでも、犬死にが関の山だ。街に入らないことには、状況が掴めない。回り込んで、ゴブリンの攻撃が薄いところを探そう」
しかし、予想以上のゴブリンの量だった。
ベッキーに見せられた映像では、街の全体像が見えなかったから分からなかったが、今この街に押し寄せている数は百匹以上いるのではないか。
てっきり俺たちが取り逃がしたゴブリンだけが、襲撃しているのかと思ったが、どこからこれだけの数のゴブリンが沸いてきたのだろうか。
「あいつら、他の群れゴブ。逃げたみんなが、集めたゴブ」
奴隷となったゴブリンが疑問に答えてくれた。
ちょうど群れが空いた隙間を発見した。あそこから街の中に進入できる。
「そもそも、どうしてあいつら街を襲っているんでやんす?」
「ゴブ。おれたち。あの街。奴ら。よく襲われていた。みんな。あんた。あの街の奴ら。思った。ずっとあった。怒り。我慢できなくなった。みんな。みんな集めた」
「ゴブ君の喋り方分かりにくいでやんす!」
「なるほど。大体のことは分かった」
物分りの悪いスライムのことは放っておき、俺はアンに話した。
「アン。あの街に行くのに異論はない。お前の好きにするといい。だがその前に一つだけ、確認させてくれ。お前はどっちの味方をするつもりだ?」
「え?」
予想外の質問だったのか、アンが目を丸くする。
「あの戦闘の中に突っ込んで、お前は誰を助けるんだ。俺はどっちを殺せばいい?」
「え……? あ……」
アンは己の過ちに気付いたかのように、顔を俯かせた。
俺は言う。滑稽な道化はどちらだろうか、と嘲笑いながら。
「ああ、そうだ。察しが良くて助かる。お前は街を助けようとした。それを責める気はない。お前がどんな大虐殺を命じようが、俺はそれを賞賛し、唯々諾々と従おう。お前は俺の主だ。お前の選択に異を唱えることはない」
「嘘つくなでやんす。いつも口出しばっかりのくせに」
うるさい面白生命体にチョップを叩き込んでから、俺は続けた。
「だが街を救うには、あのゴブリンどもを蹴散らさなきゃいけない。殺していいんだな」
殺さないことはできない。昨日の戦闘でも無理だった。手加減して戦えるほど、今の俺は強くない。ましてやあの量だ。逆に嬲り殺しにされかねない。
「ベル君、何を言っているの?」
アンは眉尻を細め、両手を腰に当てて俺と向かい合う。
「ベル君はどうしてそうやってすぐ、誰かを殺そうとするの? みんな一生懸命に生きていることが分からないのかな」
「お前は呼吸するだけでダニを何十匹も殺す。歩くだけで虫けらや草花を踏み潰す。お前はそれにいちいち同情するのか?」
「屁理屈言わないで。人も魔物もダニとは違うわ」
「同じさ。同じなんだよ、アンネローゼ」
人間も魔人も魔物をゴミみたいに思っている。
いい加減イラついて来た。現実を突きつけられても意地を貫き続ける彼女に。
「そうだ。このメイジゴブリンに仲間を不意打ちさせるのはどうだ? 俺たちは隠れて、半殺しにしたゴブリンを奴隷にしていこう。勿論、人間どもも縛り上げてこの街を俺たちの支配下に置くのも悪くない。どうだ、煮え滾るプランだろう?」
「いい加減にして。現実的に不可能でしょ。それに私は人間を従えるつもりはない」
「どちらにせよ、お前はここで選択するわけだ。昨日のゴブリンどもと同じだよ。生かすものを選び、殺すものを選ぶ。今度は逃げられないぞ。ああ、それとも、このまま奴らが殺し合うのを見学するか? それも悪くな……、」
俺は最後まで言い終えることができなかった。
バシンッ、と強い音が鳴った。
頬を張られたのだと気付くには少しの時間が必要だった。
この俺が、魔界にて数千の魔人を引き連れ、数万の魔物を支配し、悪魔のごとき覇道を生きてきた俺が、たかが人間の小娘に叩かれたのだ。
「………?」
いつの間にか『肉体強化』の付与魔法が俺を包んでいた。嫌な予感がする。
アンがまっすぐ俺を見つめていた。
「奴隷紋をもって命じる。我が第二の従者、ベルゼブブよ。汝、これから私の命が尽きるときまで、あらゆるすべての戦闘において如何様な殺傷も禁止します」
首筋の奴隷紋が脈打ち、主人の命令が魂に刻まれた。
俺は失意のどん底に突き落とされた。
馬鹿な。殺生を禁ずる? 何を馬鹿げたことをのたまっているんだ。
それで、どうやって魔物を従えていくというのだ。
「……貴様、自分が何を命じたか、分かっているのか。お前は剣だけではなく、盾までも投げ捨てたのだぞ!」
「言われなくても、分かってるわ」
「はっ、そうか。お前が殺されそうなとき、俺は悠長に手加減して敵を倒したあと、お前を助けに行くわけか? はっはははは! そんなに死にたかったのか、貴様」
「死んでも構わない。少なくとも、今のベル君に助けられるよりはいいわ」
話し合いにすらならない。意地を張るために自分の命をも天秤に掛けている。
だが、こんな愚か者でも奴隷の絶対的な主人であるのだ。
「もちろん、今後ずっと命を奪わない選択ができるとは思わない。私も馬鹿じゃない。でも、今のベル君には誰も殺して欲しくないの」
「ヤンス。主はこう言っているが、貴様は納得できるのか?」
ずっと黙っていたヤンスは、はっきりと宣言した。
「ヤンスはご主人様の命令を守るでヤンス! たとえそれでヤンスが危険になっても、構わないでヤンス!」
ヤンスは相変わらず筋金入りのアホだった。そのご主人様が危険に晒された場合の話をしているというのに。