7 魔女の忠告、選択の末路
夜が明けた。俺たちは洞窟を出て、草原を見渡した。
「んー、いい天気でやんす」
ヤンスが機嫌よく、身体を伸び縮みさせる。
「ここからどうするんだ? アン。ここがどこだかも分からんぞ」
「マスターが、朝に連絡するって言ってたけど」
アンがそう言ったとき、ヤンスがピカピカと点滅し、四角いモニターに変形した。半透明の表面に、厚化粧の女の顔が映った。
『やっほーい。聞こえてるかー?』
「おはようございます、マスター」
ベッキーだ。相変わらず緊張感のない緩い顔をしている。返答するアンも同様だ。この師あってこの弟子ありという感じである。
『もうおれはお前のマスターじゃねえんだけどな』
「貴女はいつまでたっても、私のマスターです。奴隷紋がなくなっても、それは変わりません」
アンはかつて自分の奴隷紋があった首筋を撫でる。
『お堅いこって。ベルゼブブ、おれの演出はどうだった?』
あっけらかんと言うベッキーに俺は呆れ果てた。
「まったくもって、ふざけた催しだった。貴様は奴隷紋を通じた付与魔法の発動を確かめたかったのだろうが、死ぬところだったぞ」
『お前たちの戦いはヤンスを通じて見させてもらった。正直、失望したぜ』
そう言ったベッキーの唇はわなわなと震えている。相当怒っているようだ。
「私がゴブリンを奴隷にしなかった件ですね?」
『それ以外にあると思うか?』
アンに向けられたのは恐ろしい眼光だった。
『旅の目的が何なのか。おれは伝えたつもりで、お前を送り出したんだがな。ベルゼブブ、お前はどうだ? 彼女の選択を、お前はどう受け取った?』
「反吐が出たな。偽善だからというのもあるが、アンの行いは、この旅の目的を否定した。奴隷化したゴブリンを一匹でも、手元に置いておけば、あらゆることに活用できただろう。近辺に生息しているゴブリンや他の魔獣の状勢、現在地の地理。それらの情報収集は当然、他のゴブリンの群れと接触するときにも役に立っただろう」
『その通りだ。アン、お前は奇襲したゴブリンは奴隷にしないで、正々堂々と戦ったゴブリンは奴隷にするのか? そこに何の違いがある』
「全然違います。マスターがなぜ世界の融和に失敗したのか、分かりました」
『皮肉か? 珍しいな』
「魔物を人間扱いしてないのは、貴女です。貴女は賢明かもしれない。実際、力尽くで魔物を支配しようとしなかった。だけど、魔物と心を通じようともしなかった」
アンの語気が荒くなっていく。ベッキーも不機嫌をあらわにする。
『おれが失敗したのは、奴隷紋を魔物に使える術者がいなかったからだ。そして、おれは魔物と対話してきた』
「正確には、数種類の魔物と対話をしただけです」
『じゃあ、お前はこれから遭遇するすべての魔物と対話していくのか?』
「そのつもりです」
アンの言葉に意を突かれ、ベッキーが目を見開いた。
「俺は、アンに一理ないわけでもないと思っている」
昨夜のアンとの会話を思い出す。アンは魔物とお友達になりたいと言った。その心意がすべて分かったわけではない。それは単なる絵空事なのかもしれない。だが、奇襲したゴブリンを無理やり奴隷にしなかった行為を肯定できる理由も存在する。
『あん? 蝿っころ。お前までお花畑脳になったのか?』
「いいから聞け。幾千もの魔族を奴隷にしてきた俺には経験的に分かる。無理やり奴隷にした魔物は力を最大限に発揮しない。主人に忠誠を誓った奴隷だけが、時に俺をも驚かすほどの真価を発揮することができる。アン、お前はそれを感じているんだな?」
「理屈は知らない。私は、魔物とお友達になりたいんです」
お花畑は相変わらずか。だが、多くの魔族を奴隷にしてきた俺も、仲間を手に掛けてまで世界の融和を目指した天才魔術師も、己の野望を果たすことはできなかった。アンがベッキーの思い通りに動いたとしても、また同じ歴史を繰り返すだけかもしれない。
支配では何も変えられないのだと、アンは宣言したのだ。
それは魔人の俺には受け入れがたい思考。世界中を回り、世界の真理の一端に触れたベッキーにも、相容れないものだろう。
『……ったく、ほんっとうに頑固もんだな。ベッキー、呆れちゃうぜ?』
「間違って死ぬのだとしても、私は世界を愛しながら死にたいんです。貴女に愛を教えてもらったから」
まっすぐなアンの瞳から、ベッキーはそっと目を逸らす。
『……これ以上は平行線だな。だが、冒険者に強制させても仕方ねえ。冒険の矜持が損なわれちまう』
「貴様が心配せずとも、こいつは存外しっかりとしているぞ」
ベッキーを見ていると、まるで子を心配する母親を見ているようだ。
『フリフリドレスの着せ替え人形に言われても説得力ねえよ。アン、これを見ろ。お前の選択が生んだものだ』
モニタースライムの画面が切り替わった。
街だ。
轟々と燃え上がる炎が、大きな街を襲っている。
空中からいくつも降り注ぐ火魔法。松明を持って暴れ回る小型の魔獣。
『お前らが逃したゴブリンの群れが、怒り狂って街を襲った』
アンが顔色を変えて叫んだ。
「ここはどこなんですか! マスター、この街の場所を今すぐ教えて下さい!」
早朝のせいで街の防衛機能は役目を果たしていない。前日に宿泊したのだろう冒険者たちが住民と共に迎撃に加わっている。武装したゴブリンとの激しい鍔迫り合い。
『甘えたこと言ってんじゃねえよ。この街を救いたいなら、てめえで探せ。散々知っていると思うが、ベッキー、けっこうスパルタだぜ?』
「知っていたんですね。知っていて、ずっと黙っていたんですね」
『罵りたければ罵れ。だが、この悲劇を生んだのは、アン、お前なんだぜ? あの時二十匹のゴブリンを奴隷にしていれば、この街は襲撃されなかった。一匹でも奴隷にしていれば、襲撃される前に手が打てたかもしれない。お前の甘さがこの光景を生んだ』
「それでも、私は、自分が間違っていると思いません」
『死人を目の前にしても、まだそう言えるかな? アンネローゼ。未熟なおれの弟子よ。おれに何か意見したいなら、それだけの功績を果たすんだな。口だけ娘は嫌いだぜ」
ベッキーは『ばいならびー』と取ってつけたように告げ、通信を切った。
「ふう、疲れたでやんす」
ヤンスが元のボール形状に戻る。
モニターに変身するのは特に魔力を消費するのか、ヤンスの声に疲れが見えた。
「アン、どうする?」
端的に今後の方針を確かめる。アンは即答した。
「もちろん、今すぐこの街に向かいます!」
「だが、現在地も分からん俺たちには、さっきの街の方向さえ分からんぞ。虱潰しに周囲を散策していたら、時間を浪費するだけだ」
「……ッ! 何か、何かないの……!」アンが頭を抱えてしまう。
そのときだった。
草むらの陰から、あのメイジゴブリンが現れたのは。
それを必然と呼ぶか、それとも偶然と呼ぶか。
しかし、どんな選択にも後悔は付きまとう。それならば自分の道を通そうと、強く決意した少女へのささやかな運命の女神の祝福なのかもしれない。
それは偶然か、あるいは必然か。
いいやどちらでも構わない、と。
清き乙女は躊躇なく、小さな隣人に手を差し伸べた。