5 にゃんにゃん口調を強制された魔人
「――――っ!」
ドクンッッッ、と首筋の紋章が脈動した。
光が生じた。次元魔法が発するような強烈な光線ではない。
満月の輝きのように妖艶で、羽毛のように柔らかな紅色の光。
光が俺の全身を包んでいた。漏れ出した光が周囲を明るく照らしている。
俺の隠されていた力が覚醒した……というわけではないだろう。
この魔術の質には見覚えがある。付与魔術の『肉体強化』だ。
身体の底から次々に力が沸き上がってくる。身体能力が向上した高揚感。
「やれやれ。やっとリンクしたでやんすか。世話の掛かる後輩でやんす」
俺の肩で偉ぶるスライム。そいつの身体も紅色に発光している。
ベッキーがこのスライムには魔力があるなどと言っていたが。
「……この付与魔術、貴様のものか?」
「いいや、アン様の魔術でやんす。おいらはここまでのアンテナになっただけでやんす」
「アンの魔術を貴様が届けているとでもいうのか?」
交信装置の代わりになるなら、その応用でそれも可能かもしれない。
「違うでやんす。物分りの悪い後輩でやんすねえ。物理的に離れていても、直接奴隷に魔術を届ける。それがアン様の奴隷紋なんでやんす。お前にはまだ、アン様の力を受け取る門が形成されていなかったでやんす」
「奴隷に直接だと……? 馬鹿な。そんな力、奴隷紋には……」
だが、アンの奴隷紋はあの人間界最強の魔術師が調整したものだ。そういった魔改造もあの変態ならお手の物だろう。ならば今は飲み込むしかない。
俺は滾る全身に意識を集中させる。油断すると身体が弾け飛びそうなエネルギーの奔流を感じる。普通の『肉体強化』よりも効果が強い気がする。
「これならば、行けるか」
拳を握り締めると、俺は両足に力を篭め、全力で大地を蹴り飛ばした。
気付くと、俺の肉体は風となっていた。
大地が遥か下に見え、大気が高速で後ろに流れていく。肩のスライムが振り飛ばされないように必死で俺の服にしがみ付いていた。
「む、いかん。飛びすぎたか」
俺は大樹のてっぺんに着地し、再び大跳躍をかました。
目の前にあるのは月と星空。見下ろした先に広がっている下界。すべての生命の頂点に立っているかのような万能感を、俺は久しぶりに味わう。
これこそが魔人の見ている光景だった。これが魔人ベルゼブブの見るべき景色だ。
淡い感傷に心を震わせていたのは刹那の間。
俺はさっきよりも鮮明にアンの声を聞いた。
(ベル君。こっちだよ。早く来て)
耳で聞いているわけではない。奴隷紋を通じて直接脳に語りかけられているのだ。
(今すぐ行く。待ってろ)
俺は声を返した。今の状態ならば、こっちの声も届く気がした。
山間部を飛び越え、平原に降り立つ。俺は着地の二歩目で低く跳んだ。地面に近い跳躍を何度も重ね、さっきよりも速い速度で疾走する。肩で何かの生命体が恐怖で叫んでいるような気がするが、その叫び声も置き去りにし、さらに加速。
平原に出たときから、夜闇で火を焚いているその場所は見えていた。
俺は目的地までの距離を目算し、足を振り下ろし、最後の大跳躍を放った。
「んんげろぼえええええええええええええええ!!!」
酔ったスライムが大空にゲロを撒き散らした。キラキラと輝いて、下から見たらきっと綺麗だろう。と思ったが、夜だから見えないかもしれない。どうでもいい。
落下していく。グングンと火の色が近づいていく。慌てふためくゴブリンどもが見える。
俺は集落地の中央に立った焚き火の中に突っ込んだ。
バッカーンッッッ! と大音が鳴った。
着地の衝撃で燃焼中の木材が吹っ飛び、周囲のゴブリンどもに降りかかる。
生贄を取り囲んでいた炎輪が崩れ、火の手が辺り一帯に振る舞われる。
焚き火の外で踊っていたゴブリンどもが慌てふためき、大混乱となった。
舞い上がる燐火が俺の肌にも落ちるが、これくらいなら少し火傷になる程度だ。
「あ、あっちちちいい! でやんす! 燃えるでやんす燃えちゃうでやんす!」
俺の肩にしがみ付いているよく分からん半透明が叫んでいたが、知らん。
大騒ぎしていたゴブリンたちが、突如飛んできた俺の姿を見つけ、プギィプギイと鳴き声を上げて威嚇する。祭りの騒ぎは完全に消し飛んだ。
そして、俺の眼前には一本の柱が立っていて、
「あ、ベル君だ~。やっほー」
柱に括り付けられた阿呆がのん気に笑っていた。
危機感ゼロの主人の態度に、俺はドッと気負いが削がれる。
「いや、お前、焼かれるところだったんだぞ。何で笑ってんだ」
というか、いまも下からジリジリと焼かれている最中だ。
「え? だって、ゴブリンのみんなが楽しくしてるからさ。お祭りなのかなぁって」
「お祭りって……。どっちかっていうと血祭りだぞ、これは」
「生贄の儀式に似ているなあ、とは思ったけど」
「どっからどう見ても儀式だろ。お前が生贄だろ。百人中百人が生贄の儀式だと答える、正真正銘の生贄の儀式だろ」
ありえない天然さに、張り詰めていた緊張が完全に途絶えてしまった。
あの師匠にして、この弟子ありといったところか。
脱力と共に、俺に掛かっていた『肉体強化』の効果が消える。時間切れだ。
「それに、ベル君が来てくれるって、信じていたからね」
ニコリ、とアンは微笑んだ。
「…………」
背後で燃え盛っていなくて、外から豚の鳴き声が聞こえてこなくて、アンが磔になってさえいなかったら、最上の絵画のような光景だった。しかし、現実はクソだった。
「……ったく。信じて奇跡が起きるなんて、聖書の中だけだぞ」
「そう? 私の人生、けっこうミラクルばっかしだよ?」
俺はアンの拘束を解いた。アンはお礼に頭を撫でてきた。
「あっちちちちっ! は、早くしないと、おいら、蒸発しちゃうぅぅぅうう!」
耳元でうるさい声が響いたので、掴んで火の中に投げ入れようとしたが、青色半透明は俺の肩にしっかりと張り付いて離れなかった。……チッ、無駄な抵抗を。
「い、今お前、流れる動きでおいらを殺そうとしたでやんすか!」
「それはともかく」
「な、流すなでやんす! 人命に関わる問題でやんす! この人でなし!」
「それはともかく」
無理やり流した。スライムは沈黙した。そうだ、それでいい。
静かになったところで、俺はアンに尋ねた。
「っで、どうするアン? お前を殺そうとした虫けらどもがうじゃうじゃいるが、どう落とし前を付ける? バラバラに引き裂くか? 生きたまま燃やすか?」
「コラ。悪いこと言っちゃダメ。あの子たちだって、生きているんだよ」
「……よくそんなことが言えるな。まったく理解できん」
俺は周囲の火炎に向けて、指を鳴らした。
『水の壷』。
空気中や地面に含まれる水分を凝固させ、湧き水を起こす。
飲み水を用意するか、小火の消火くらいにしか使えない児戯である。
それを発動して、暑苦しい炎を消し去ろうとした。
だが、何も発動しなかった。
「……あん?」
おかしい。予定では大規模の水流を生み出し、炎を消し去ったついでに、喧しいゴブリンどもを一掃するつもりだったのに。実際は何も起こせない。
何度『水の壷』を使おうとしても、虚しい指の音が響くだけ。
試しに火を操る魔術や、土を変形させる魔術を使おうとしたが、それらも不発だった。自分の中に魔力は感じるし、魔術術式の構築も脳内で行えている。
なのに、発動できない。その結論に至り、俺は危機感を覚える。
原因は何だ。頭の角が折られたことか。知らぬ間に呪いを掛けられたか。子供の肉体になったことと関係があるのか。あるいはこれもベッキーの策略か。
己の力が衰弱していることは覚悟していた。だが、これはあんまりだ。
魔術師から魔術を奪ったら、何が残るというのか……!
愕然としている間に、火が燃え広がり、落下の衝撃でこじ開けた隙間を塞ごうとする。アンが俺の手を引き、炎の外に連れ出した。ゴブリンたちがプギィ、プギイと遠ざかる。
「ふぅー、暑かったね、ベル君」
「ああ……」
「ところで、さっきのすごかったね。急に空からドーン! って感じで」
「全力で走ってきたからな。空から飛び込めば、撹乱にもなると思った」
「私の付与がベル君に届いてよかったよ。ヤンス君が目印になったお陰もあるけど」
「ヤンス君?」
「…………い、生きている! おいら、まだ生きているでやんす!」
すっかりカピカピに乾いて泥汚れみたいになっていたスライムが息を吹き返した。こいつまだ生きていたのか。案外しぶといな。死ねばいいのに。
「あ、悪意! おいらへの悪意を受信したっす! この野郎! 悪魔野郎!」
魔人は悪魔の子孫とも言われているので、その罵倒は正しいし無意味だ。
「ヤンス君も駆けつけてくれて、ありがとね」
アンがスライムの表面を撫でてやる。スライムはデロンと液体感を増した。
「えへへへ、お安い御用でやんすよ! おいらはアン様の奴隷なんでやんすから」
「うんうん。ヤンス君が奴隷でいてくれてよかったよ」
「えへへ、えへへえ」
スライムがだらしなく鼻の下を伸ばす。実際は鼻どころか顔もない種族だが、こいつが鼻の下を伸ばしていることがありありと伝わった。
「というか待て。おいコラ貴様ら。周りの状況を見ろ、と言いたいところだが、その前に一つ聞かせろ。こいつ、ヤンスって名前なのか!」
二人(?)は顔を見合わせてから、頷いた。
「そうだよ」
「そうでやんす! ヤンスはヤンスという名前でやんす!」
「何だその頭の悪い名前は! 語尾がやんすだから、ヤンスだと……?」
「むきぃ! アン様の付けてくれた大事なヤンスの名前を馬鹿にするでやんすか!」
「やんすやんすうるせえよ。一人称もヤンスになっているじゃねえか」
「やんす? ヤンスは最初から、自分をヤンスと言っていたでやんすよ」
「ベル君も語尾をベルにしてみたら? 可愛いと思うよ」
「可愛いが万象の理由になると思うなよド天然。今このときをもって完全に確信したが、アンお前馬鹿だろう! 馬鹿丸出し発言をするな! 奴隷の俺が恥を掻く!」
「うえ~ん! ベル君が苛めるベル~。私、悲しいベル~」
「……っとに、悪いところばかり似ているな、貴様ら師弟は……」
俺は拳を握り締め、込み上がる怒りを必死に堪えた。
「しかーしっ! ベル君、私に逆らっていいのかな?」
下手な泣き真似を止め、アンが急に元気になった。
「ご主人様には逆らえないってこと、忘れたのかな? この奴隷紋がある限り、無理やり強制的に言うことを効かせられるってことをねえ!」
「お前、絶対テンションの上げるタイミング間違っているぞ!」
「今も着ているその可愛い制服を着せたときみたいに、命令しちゃうぞ?」
「…………はッ!」
完全に忘れていた。俺は今自分がしている格好を思い出す。『BOB』でベッキーの話を聞いてから直接次元魔法で飛ばされたから、着替えている暇がなかった。俺はいまだにフリル沢山のメイド服に身を包んでいるのだった。
メイド服を着せられたときも俺は必死に抵抗した。当然だ。こんな格好をするくらいなら、誰だって潔く死を選ぶ。だが、外道なるアンは俺に命令したのだ。奴隷紋を掛けた主人の命令に奴隷は逆らうことを許されない。普段、俺がアンと対等に話し、ときには怒鳴ったりできるのは、アンが奴隷紋の力を使っていないからだ。
しかし、アンが本気で奴隷紋の力を酷使すれば、俺はどう足掻いても逆らえない。
あのとき、アンは片手の奴隷紋を俺に見せつけ、優しく言った。
「可愛く、なろっか」
「クソがあああああああああああああああ!」
かくして俺は自分の手で、あの淫猥なメイド服に腕を通す羽目になったのだ。
あな恐ろしや、奴隷紋。こんな鬼畜外道な魔術を作り出したのはどこのどいつだ。
どいつも何も、鬼畜も外道も、俺のことなのだった。間々ならねえ……。
「あのときとー、同じことしちゃうぞ?」
と無邪気な声で、アンは下種な脅しを掛けてくる。
「いや、ま、待て。俺は逆らったわけじゃない。それにそんな阿呆なことに奴隷紋の力を使うな! 奴隷紋の契約とはもっと崇高なもので、お互いの信頼関係に成り立つ、絆を結晶化したような美しい魔術であって、相手を思いやり……」
「そんな綺麗ごと、ベル君ちっとも思ってないでしょ」
「ああ、微塵も思ってない」
「ってことで」
ずずいとアンが接近してくる。
「……ま、待て! 話し合おう!」
「私はぁ、可愛いベル君が見たいんだ! 間抜けに『ベル』って言って、悔しがって恥ずかしがっているベル君をこの目に焼き付けるんだぁ!」
「欲望に率直過ぎる! 何だその執念は! 今の内に教えておくがな、力に溺れる者はいつか力に取り殺されるぞ! 俺は正しい力の使い方を知ってほしいんだ! 真に強いということがいったいどういうものなのか。それは、決して欲望に流されることのない……」
「でもベル君、昔は外道だったでしょ」
「うんまあ、外道だったけど」
「問答無用!」
アンは戦慄している俺を見て、うんと優しく微笑み、
「契約紋をもって命じる」
「待て! 周りを見ろ! ゴブリン! 敵だらけ! な!」
「我が第二の従者、ベルゼブブよ。汝、これよりしばらくの発言……」
「もっとまともな命令があるだろ! 敵を蹴散らせとか! 考え直せ! 冷静になれ!」
「語尾に……」
「ま、待て。本気か……、正気か貴様?」
「語尾に『にゃん』と付けて喋ること!」
「嘘だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! にゃん」
俺の語尾はにゃんになった。にゃん。