4 ゴブリンに丸焼きにされそうな少女を助けるための手段が嘔吐するスライムだった件について
「ほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
怒りの咆哮は密林を抜け、山々の間を木霊した。世界最長で「ほおおおお」を言ったのはこの俺に違いない。山林に轟く俺の怒声に、木々に停まっていた鳥たちが飛び立つ。現状を確認しようと周囲を見渡した俺は、さっそく重大なことに気が付いた。
「アンがいない!?」
すっかりと夜も更けて、欠けた月が浮かぶ空。驚愕の事実に震えた俺は、自分の左肩の上に何かぬめっとしたものが貼り付いているのを知った。
「おえええええええええええええええ!」
「何だ貴様!?」
スライムだった。嘔吐しているスライムだった。絶賛嘔吐中だった。
反射的に右手で捕まえて引き離そうとするが、吸盤のように吸い付いて離れない。
嘔吐するスライムが叫んだ。
「や、やめるでやんす! おいらはアン様の奴隷一号。先輩に無礼でやんすよ? おっ、おえええええええええええええ!!」
「まずは吐くのをやめろクソ阿呆! 半透明の奴が嘔吐している絵図を間近で見せられるこちらの身にもなれ!」
「やっぱり、二歳のおいらにはあの酒、早かったでやんす」
「スライムごときが、魔界の酒が分解できるかああ!」
スライムにしては強い魔力を感じ取れるが、それでもあの酒に挑むのは無謀である。
「というか、何でスライムが喋ってんだ! 貴様ら喋れたのか! つうか、どこから声出してんだ水飴みたいな身体しやがって!」
「お? 魔獣差別でやんすか? 後輩奴隷のクセに生意気でやんす! おいらはアン様の奴隷になったときから喋れるようになったでやんす。アン様のお陰でやんす!」
「……アンの奴隷だと? 貴様、アンの奴隷と言ったのか? アンは奴隷を作るのは俺が初めてではなかったのか」
アンの魔力を注がれたお陰で、低俗な魔物のスライムに知性が宿り、喋れるように成長したのだろうか。とても信じられないが、証拠が目の前で意気揚々と喋っている。
「ふう、やっと落ち着いたでやんす。あれ、ここはどこ? おいらは何スライム?」
「何スライムでもないわ下等種め! いいから質問に答えろ」
「せっかちな後輩でやんすねえ。あ、交信でやんす」
「は?!」
突然スライムが変形し、薄い板状になった。透けた青い身体の表面に、うっすらと奴隷紋の模様が見える。どうやら、このスライムが言っていることは嘘ではないようだ。
『んー? ここに喋ればいいのか? もしもーし。聞こえてるか蝿っころー』
変形したスライムの表面に、美しい女の顔が映り出された。
紫水晶で作られた通信装置の現象によく似ている。
どうやらこのスライムが、交信水晶のモニター代わりになっているようだ。
「おい、糞魔術師。今すぐ八つ裂きにするからこちらに来い」
交信相手はベッキーだ。スライムのモニターの中の彼女がせせら笑った。
『あれー? 次元魔法は次元の魔女にしか使えないですよー? そんなことも知らないんでちゅかー? ベル君、物知らずでちゅねー』
もはや怒る気もしなくなってきた俺は、そっとモニター型のスライムを地面に置いて、片足を高く持ち上げる。
『嘘だ嘘だ砕くなベルゼブブ! 真面目にやるから』
「二度目はないからな」
『分かった分かった』
「このスライムはいったい何だ? アンの奴隷を名乗っているが」
ゆっくりしゃがんでモニタースライム(勝手にそう名付けた)に顔を近づけた。ベッキーは汗を掻いているようで、この魔術師にも人間らしいところがあるんだなと発見する。
『そいつ、よく吐くから気をつけろよ。ベッキー、一番の被害者だぜ?』
その忠告はもっと早く聞いておきたかった。
いや、聞いていても避けられなかった可能性が高いが。
ベッキーは続ける。
『スライムって、実は魔術師にとって便利な代物なんだよ。知らなかっただろ? 特殊な魔術を使用するには触媒が必要なんだが、スライムはほぼすべての触媒の代わりになる。しかもそのスライムは魔力を持っているだろう? ベッキー、探すの大変だったんだぜ?』
「貴様の奴隷ではないのか」
『言ってなかったっけ? 魔物を奴隷にできるのは魔人を除いてアンだけだ。あの次元の魔女でも、それは叶わない』
何とけなしにベッキーは言った。だが、それは驚異的な事実だった。
「貴様にも不可能なのか?」
『そーだよ。そんなことができるんなら、おれ自身がどんどん魔物を奴隷にしていくっての。あの娘は天才なんだよ。何てったって、ベッキーの愛弟子だぜ?』
本人に弟子の自覚はなかったがな。
「なるほど。このスライムの他にもアンの奴隷はいるのか?」
『いんや。練習台にあと何匹か試させようと思ったんだが、その前に必要はなかった。お前さんを奴隷にできたんだ。すでに使いこなしているようなもんだ』
「天才というのは間違いないようだな」
主人であるアンが魔術の才能に富んでいるのは喜ばしいことだ。特に、奴隷のコンディションは主人の能力に左右される。主人の精神状態や健康状態がいいほど、奴隷は己の力を最大限に発揮することができる。
『つうかよ、そんなにのんびりしていていいのか? 丸焼きが完成しちまうぜ?』
「ん?」
スライムの画面が切り替わった。めらめらと燃える焚火の周りを何十匹ものゴブリンが舞っている。奴らの表情は嬉しそうで、距離を置いて屯しているゴブリンどもも、やんちゃに手を打ち鳴らしていた。
ゴブリンの集団の中央には、大木に縛り付けられた一人の少女。
「アン!?」
一瞬目を話した隙に、なに生贄にされ掛けているんだ、あいつは!
『だから言ったろ? ご主人様の声に耳を傾けないからこうなる』
モニターから憎たらしい声だけが聞こえる。
「何だと? そもそも、俺とアンを別々に飛ばしたのは貴様だろう!」
俺は激高するが、抗議している場合ではない。すぐにでもこのモニターに映ったこの場所へ向かわなければならない。
ベッキーは変わらず、のほほんと言う。
『もっと正確に言ってやるよ。おれはゴブリンの集落地にアンを、そこから十キロ離れた山奥にお前を飛ばすよう、次元の魔女に頼んだのさ』
「だったら速く俺をここに飛ばせ!」
『だから、おれにできるわけがないだろ? ベッキー、わがままは嫌いだぜ?』
話にならない。俺はモニターのスライムを抱えて走り出した。
だが、
「……~~遅い!」
悲しいほどに俺の足は遅かった。子供の身体は、絶望的なまでに遅すぎた。これでは、アンを食べ終わったゴブリンどもと対面してしまう。
こんなことで、アンと俺の旅は終わってしまうのか。
ゲスブルーが放った魔犬に追われて、惨めに逃走していたときよりも、遥かに大きな絶望が心の内に湧き上がった。クソッ、奴隷紋がきっちり働いていやがる。あんな出会ったばかりの小娘の安否が気になってしまうのは、奴隷紋に精神を支配されているからだ。そうでなければ魔人の俺が、他者を心配するはずがない……!
焦りで頭をいっぱいにしていた俺の耳に、冷えた声が差し込まれた。
『止まれ。間に合わねえよ。今のお前がどんなに走っても絶対に間に合わない位置に送ったんだからよ』
俺は立ち止まり、交信先にいる畜生に向かって叫んだ。
「貴様、何がしたい! アンを死なせる気か!」
『死なねえよ。ひとまず落ち着け』
「これが落ち着いてられるか!」
『うっせえ。ったく、洗脳が利き過ぎてんなあ。いいから俺の言うとおりにしろ。目を瞑って耳を傾けるんだ。そうすりゃ、あの子の声が聞こえるはずだ』
「何……?」
乱れた呼吸に肩を上下させながら、俺は言われた通り、目を瞑った。俺の死を偽装し、魔界から呼び寄せたのはベッキーだ。ここでも何かの思惑があるはずだ。
すると、
(………ベル、君。ベル君。ベル君)
聞こえた。近くて遠いどこかから、アンの声が流れてきた。
「アン! 大丈夫か! 俺だ! 返事をしろ! おい!」
しかし、いくら呼びかけてもこちらの声はアンには伝わらなかった。
一方的にアンの声が聞こえてくるだけのようだ。
『アンの声が聞こえたな? よし、それならもう大丈夫だ』
「何がだ。もっとしっかり説明しろ」
『お前はアンと繋がった。ヒントはここまでだ。あとは自分の頭で考えろ』
「おい! 何も分からんぞ!」
『ってわけで、頑張れや。あと、そのスライムを離すなよ。そいつは変身で周囲の物体を真似することができる。鍛冶屋泣かせの代物だ。そんなものをポンと渡しちゃうなんて、ベッキー、自分の親切さに泣いちゃうぜ?』
「何言ってんだてめえ。これは貴様が書いた筋書きだろうが」
『……さあ、どうかねえ』
その言葉を最後に、スライムがどろりと形状を崩し、ベッキーとの交信が途絶えた。モニターでなくなったスライムには、もうゴブリンの集落地の光景も映っていない。
「……逃げやがったなあのド腐れ変態オークビッチが!」
怒りに息巻き、ベルゼブブは夜空に吼えた。
もう一度アンの声が聞こえた。その声で現実に引き戻される。
そうだ。馬鹿に文句を言っている場合ではない。
俺は聞こえてくる声に全神経を集中した。
呼ばれている、その感覚が大事なのだ。直感で理解する。
考えろ。いや、考えるな。どっちだ。分からん。とにかくアンの声に神経を傾ける。
奴隷紋。奴隷契約。魔人と人間。唯一、人間の身で魔物を支配できるアン。
ベルゼブブの身体にはアンの魔力が混じり込んでいる。
本来の奴隷紋には、主の声を届けるという効力はない。だが、今聞こえてくる声が、奴隷紋と無関係だとは思えない。あのビッチが出した、繋がったというヒント。アンの声を聞いたとき、俺とアンの間に見えない道筋が生まれたのだ。
主人と奴隷を繋ぐリンク。はっ、絆だとでも言うのか?
しかし今は信じるしかない。アンに繋がるリンクを。
俺は細い糸を掻き寄せるように、己の内側で祈りを紡いだ。
届け、と。