36 友達
長ったらしいベッキーの話を聞きながら、俺は新しい肉体の中で魔力を練り上げていた。
奴隷紋の付与には魔力はほとんど要しない。
魔力が必要になるのは行使するとき。奴隷に命令を強制したり、歯向かった奴隷を押さえつけたりするときだ。『束縛』のように奴隷が抵抗して、魔力の力比べになるときもあるが、奴隷紋の場合、圧倒的に主人が有利になるようにできている。
実力が拮抗している同士なら、奴隷紋が刻まれた時点で勝敗が着いたようなものだ。もっとも奴隷紋が定着する前なら簡単に解除されてしまうのだが。
俺は今アンの身体で魔力を練り、魔術を行使している。若くて才能があり、駆け出しの魔術師としては上々の実力だろう。だがそれに対抗するのは、人間最強と謳われる『血塗れの魔女』ベアトリクスだ。奴隷紋というハンデを与えてもなお、その力は衰えを見せない。
そして今まさに、駆け出しと最強の力比べが行われていた。
奴隷紋で弱体化させたにも関わらず、ベアトリクスの方が優勢であった。
首元の紋章を確認した魔女は、カカッと笑う。
「てめえ、最初の一撃のときにすでに仕込んでやがったのか。面白れぇ。ベッキー、いたずらっ子には容赦しないぜ?」
「戦略家は一つの行動にいくつもの策を巡らせているものだ。『灰の手』は反魔術の貫通と陽動に過ぎない。このくらい読めていると思ったが、はて、まんまと引っかかったのか? 最強の魔術師様は冗談がお好きなようだ」
「抜かせ。こんなちんけな痣一個でおれを縛れるとでも?」
「縛れるかどうかは、自分の身で試してみるんだな」
言うのと同時、ベアトリクスが両手に何重もの魔法を重ね、飛び掛かってきた。各属性の攻撃魔法に加え、精神支配、行動阻害の魔術も重ねた一撃だ。
「じゃあな、蝿っころ! あの世でアンによろしくな!」
奴隷は主人に反抗的な行為を行うことができない。
行おうとしても拒絶反応を起き、力が制限される。しかしベアトリクスはそれらの阻害を力尽くに捻じ伏せ、無理やり攻撃してきた。
奴隷紋も万能ではない。圧倒的な力の前では虚しいほどに無力である。
しかし、ベルゼブブはすっと指を伸ばし、地面に振り下ろした。
「――跪け」
突進してきたベアトリクスは地面を抉る勢いで膝を着いた。
ベルゼブブの前に跪いた彼女の手から、放たれかけた魔術が解除されていく。
「なァ……ッッッ!」
彼女の首筋で奴隷紋が爛々と輝いていた。
必死に立ち上がろうとするベアトリクスの額に大量の油汗が浮かぶ。
だが、主人から下された命令がそれを許さない。
奥歯を軋ませ、全身を奮わせたベアトリクスが叫ぶ。
「……なぜだッ! なぜてめえごときにおれが使役できる!」
「これがアンの力だよ。『血塗れの魔女』」
「何……?」
ベアトリクスの瞳は驚愕で見開かれる。
弱者が強者を奴隷にすることはできない。それが奴隷紋に対する見解だった。俺もベアトリクスもそうだと思い込んでいたし、それは紛うことなき事実だ。
しかし、アンの肉体に乗り移って、俺はその見解が誤っていたことを知った。正しくは、アンの奴隷紋はその限りではないと知ったのだ。
「いいか、特別に教えてやる。そもそも奴隷紋は、魂の質が近い存在にしか使えない魔術だ。魔人は本質的に近い存在である魔物を奴隷にできる一方で、根本的に異なる存在である人間は奴隷にすることができない。逆もしかりで、人間は人間を奴隷にできるが、異なる存在である魔物は奴隷にできない。ではなぜアンは魔人の俺を支配できたのか」
「それは……、てめえが人間の身体になっていたからだ」
「違う。問題となるのは肉体ではなく魂だと言っただろう。その理屈だと人間に乗り移り、人間に変身していたゲスブルーも奴隷にできたことになる。まあ、あんな屑虫、近くに置いておきたいとは思わんがな。役立たんし、不愉快だ」
「……ソロモンの血が特別だからだ」
「そうだ。そしてお前は思考を止めた。何がどう違うか分析しようとせずに」
「………」
ベアトリクスは無言になり、俺を睨み付けた。反論はないようだ。
なぜあんなにもアンが奴隷の作り方にこだわっていたのか。
「アンの奴隷紋は心の結び付きが効力に作用する。そんな力だったんだよ」
「心の結び付き、だと?」
「信頼関係。お友達にならないといけない、ということだな」
無償の愛を与え、何度も対話し、ときには助け合い、真に心を共有した相手にしか、アンは奴隷紋を行使することができなかった。
逆に言えば心を共有できれば、どんな強力な魔物でも従えることができるのだ。
友達になりたい、と彼女は言った。
彼女が世界を愛したのは本当のことだったのだと、そう思った。
「嘘だな」
ベアトリクスは反論を唱えた。
「てめえがアンに奴隷紋を刻まれたのは、てめえがすやすや眠っている間だ。夢遊病患者でもあるまいに、どうやっててめえがアンと仲良くなったっていうんだよ」
「奴隷紋が定着して正式に契約が結ばれたのは、目を覚ましてからだ。それまでは仮の状態だった。てっきり俺は寝ている間だと勘違いしちまったがな」
ベアトリクスは、心底下らなそうに唾を吐き捨てた。
「起きてすぐ仲良しこよしになったってか? はっ! まさかてめえが五日間看病されたくらいで、小娘に心を許しちまう魔人だったとはな。笑わせてくれる」
「魔人でも恩くらいは感じる」
「そりゃてめえくらいだよ、イカれた異端児」
「まあ、理由は別にあるのだがな」
「理由? 聞かせやがれよ、おい」
「しつこいババアだな、まったく……」
俺は呆れた溜め息を吐き、少し思案する。しかし、人生のすべてを打ち明けた魔女に報いるべく、俺は過去の恥を晒してやることにした。
「一目惚れだよ」
「……………………………………………………は?」
俺の冷淡な感情に反逆するように、カアっと顔が熱くなるのを感じた。やはりアンの身体は感情がすぐに表に出てしまう。仕方のないことだ。
「……ひとめぼれ? 一目惚れつったのか、お前」
あまりに信じがたいのか、ベアトリクスは口をぱくぱく開閉する。
「何度も連呼するな。聞いている俺が恥ずかしくなる」
「言ったのはてめえだろ、ロリコン野郎。……っつか、やっぱロリコンじゃねえか!」
「やかましい。数百年ぶりの恋ぐらい好きにさせろ」
「何年ぶりか知らねえわ。一目惚れするタイプかよ、蝿のてめえが」
「アンはあいつによく似ていた。一目で分かったよ。あいつの子孫だと」
「……あいつ?」
「一万年も生きていれば色んな出会いがある。狂った悪魔が人間と恋に落ち、苦労の末、結ばれる。そんな物語もいつかはあっただろう」
「…………おい」
「クラウディウスって姓は長い年月の中で、人間の言語寄りに訛ったものだ。最初の姓はクラージュと言った」
「…………」
俺は遠い過去を懐かしむ。
当時は人間と魔族の争いが耐えない狂乱の時代だった。時代に引き離された、などと被害者ぶるつもりはないが、時代に逆らえるほどの力を持っていなかったのは事実だ。魔界と人間界両方を敵に回す勇気が、俺にはなかった。
「悪魔は間に生まれた子に、せめてもの償いで一つの魔術を教えた。それがあれば魔物に襲われることはないと。年月が経って悪魔の血は薄まっていったが、教わった魔術だけは連綿と受け継がれていった。まあ、すっかりオリジナルから変質してしまったがな。
ここまで話せば、あとは分かるよな? 狂った悪魔が誰かだなんて」
「―――――」
一度大きく息を吸うと、
「……はっ、はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
ベアトリクスは全力で絶叫した。いつの間にか立ち上がって天を仰いでいる。
「何だよそれ何だよそれ何だよそれええ! ズルじゃん! ズルじゃねえか!」
「うっせえビッチだなぁ……。貴様も相当ズルだろうに」
「おれはいいんだよ! ずっと努力してきたから!」
無茶苦茶言いやがるな、この女。
散々驚愕しまくったベアトリクスは最後の方は溜め息を吐いていた。
「……まさか魔人のラブロマンスを聞かされるとはね。ベッキー、純愛は嫌いだぜ」
「純愛であるものか。魔人の矜持も、女への想いも貫けなかった愚かな男の失敗談だよ」
「いいんだよ、純愛で。純愛ってことにしておけ、な?」
ベアトリクスは清々した顔でにっこりと笑った。
そこにアンの笑顔の面影を見つけ、やはりよく似ていると思った。
まるで母子のようにそっくりだ。アンはこの女に育てられたのだと思った。
「チッ、にしても、仲間を殺してまで世界平和に捧げてきたおれ様が、そんなありふれた恋の物語で最期を迎えることになるとはな」
「負けを認めるのか? 貴様にしては潔い」
「十六年間そばにいたんだ。誰よりもおれがアンと深く結び合っている。おれにはアンが遺した『これ』を否定できる自身がねえよ」
さっぱりと笑ったベアトリクスは首筋ではなく、胸に手を当てた。
その胸中は読み取れない。どんな感情が渦巻いているのか。
気にしても仕方がないのに、俺はこの女の真意が知りたかった。
「ベアトリクス。本当にお前は、封印が解けたらアンを食うつもりだったのか?」
「おいおい、おれの完璧な計画に茶々を入れるのか?」
「完璧というには、過保護で無駄の多いことをしていたように見えるがな。弟子を鍛えるというより、まるで不器用な子育てだ。そもそもアンとお前の志すものは一緒だ。封印が解けたからと言って、わざわざ戦力を減らす必要はない」
「不器用は否定しないが、そんな揚げ足取りされても、ベッキー、困っちゃうぜ?」
「その自分を愛称呼びするのも、お前の本音が出ている気がするな。自分がそう呼ばれていた頃を、仲間との思い出を大事にしている証拠じゃないか?」
「はっ……、何を言ってやがる」
ベアトリクスはばつが悪そうに目を逸らした。
「お前はアンの成長を通して、罪滅ぼしをしていた。いや、もしくはキャラバンの旅の続きをアンに見ていたのかもしれないな」
「…………」
「俺を殺したのだって、かたち的にはアンを生き返らせている。アンの魂は逝ってしまった。だからせめて肉体と想いは救い上げてやりたかった。そうだろ?」
「……さあな」
ベアトリクスは語を濁し、投げやりに言った。
本音はどっちだったかなんて、とうに忘れちまったよ、と。
眩しそうに空を眺める彼女の顔からは、何の未練も残ってなかった。
名前のない衝動に駆られて、俺は彼女に掛ける言葉を探していた。
だけどそれが見つかる前に、ベアトリクスが俺を見つめた。
「やれよ」
「ベアトリクス……」
「おれを生かしておこうだなんて甘いことは考えるなよ。ここで殺さなきゃいつか絶対にてめえの寝首を掻く。絶対にだ。だから、もう、終わらせてくれ」
そして言い残したことはないとばかりに、ベアトリクスは目を閉じる。
「……最期に教えてくれ。俺を選んだのは偶然か?」
「偶然じゃなかったら何だというんだよ。おれを過大評価しすぎだぜ?」
「永遠を生きる俺だったら、自分を殺してくれると思ったんじゃないのか?」
ハッ、と魔女は最期に勇ましく笑った。
「違ぇよ。『暴食』なら、独りぼっちの悪魔を殺してやれると思っただけさ」
そうか、と俺は頷いた。
もう魔人と魔女の間に話すことはなかった。
俺はベアトリクスの方に主人の紋章が刻まれた右手を伸ばす。
最強の魔術師を殺すには、最強の魔術師の手に掛かってもらうのが一番だ。
ゆえに俺は告げた。
「我が名において命ずる」
俺は思った。
こんな結末、アンは望まないだろうと。絶対に最後まで諦めなかっただろう。わがままで強引な彼女のことだ。自分を犠牲にしてでもベアトリクスを生かそうとして、最終的にはベアトリクスに折らせたかもしれない。
だが俺には、こんな選択しかできない。
残酷で冷血で、勝者が敗者を殺す、ごく有り触れた世界の結末を選ぶことしか。
「自害せよ。ベアトリクス・カルマフィールド」
曇天の空の下、それは行われた。
魔女が最初に選んだのは足だった。見えない顎が両足を一気に『食ら』った。地面に転がる前に次の顎が魔女の痩身に『食ら』いつき、咀嚼する。見えない顎は次々に数を増し、魔女の肉を削り取っていく。腕が『食わ』れ、腰が『食わ』れ、胸が『食わ』れ、肩も首も内臓も背中も頭も耳も鼻も『暴食』に飲み込まれ、最後に残ったのは魔女の口だけだった。
唇から上の顔面が削がれ、喉から下が切断され、
残っているのは上顎と下顎、永久歯とベロだけ。
「ああ、やっと会えた……」
魔女の口は最後にそう呟き、見えない顎に『食わ』れて消えた。
俺は最後までそれを見ていた。
死ぬまで信念を歪めなかった、彼女たちの生き様を心に刻みながら。




