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ベルゼブブ魔人戦記  作者: ましろゆう
32/38

32 虚無の仮面

 ベルゼブブの鼓膜を耳障りな声が撫でた。


「……ふぇえふぇふぇふぇ! 死んだ? 死にましたかぁ? 貴様の大事な人が死んじゃいましたかぁああ? くかっ、私の邪魔をするから、こうなるのですねええ!」


 じゃりじゃりと砂を擦り付けてくるような不愉快な響きを発していたのは、魔人の死体の血と臓物の中をうようよと泳いでいる小さな毛虫だった。


「……ゲスブルー」


 地を這い回り、鳴き喚くだけの虫けら。それが奴の正体だった。

 もはや奴には怒りも恨みも感じなかった。ひたすら哀れと思うだけだ。深刻なダメージを負ったゲスブルーは肉体を再構築する魔力も残ってなく、あとは死ぬしかない。残り僅かの命をゲスブルーは俺の心を抉ることに費やしたのだ。


 最後の最後までそうすることしかできないゲスブルーが悲しいと思った。

 奴は身勝手な怨嗟と罵倒を垂れ流しているが、俺は聞き流した。俺の耳には届いていない。何を言おうが、しょせん聞く価値のない騒音だ。踏み潰してやるのも面倒だった。


 ただヤンスが眠っていてよかったと思った。主人想いのスライムには、奴の腐った悪意には耐えられなかっただろうから。


「人間の分際で魔人様に楯突こうってのが間違いですねえ! 自滅してくれて清々しました。自業自得ですねえ! 天罰が下ったのですねええ! 魔物とお友達になるだなんて気の狂った女が勝手に死んでくれたことで、世界がまた一つ正しい方向に進みましたですねえ! 四十年前も王女が勝手に暴走して勝手に死んでくれやがりましたけど、人間ってのは本当に自滅が好きな理解のできない愚かしい生き物で――」


 プチ、と誰かの足が汚らしいラジオの続きを断ち切った。


「うっせえな。うっせんだよ、てめえ」


 空から降りてきた彼女は、潰れた屑の芋虫の残骸を丹念に踏み躙った。

 美麗なる魔女ベアトリクスは、俺の腕の中で眠るアンを見て、静かに目を伏せた。

 今頃何しに来たんだ。アンは死んだぞ。


 ベアトリクスをなじる言葉が思い浮かぶが、八つ当たりの気がして何も言わなかった。過去の仮定をしたところで失ったものが戻るわけではない。いや、そんな潔いものではない。ベッキーを責めることで楽になろうとする自分に嫌悪を覚えたのだ。


「ベアトリクス」


 俺はアンの死に顔を見つめながら、彼女の名を呼んだ。


「お前はこうなると分かって、アンを送り出したのか?」

「いや……。さすがにこれは、おれも予想外だった」


 呆然の方が強いのか、ベアトリクスの声には嘆きや悲しみが薄かった。


歴戦の魔術師である彼女は、弟子の死も見慣れているのだろう。冷血と言うつもりはない。感情屋に見えても、その実冷淡で非情な性格を持ち合わせている。『血塗れの魔女』はきっとそういうタイプの魔術師なのだ。感情を殺すこともできなければ、かつて仲間を手に掛けることもできなかったろう。


妙に落ち着いた彼女をそんな風に解釈したが、しかしその予測は裏切られる。

 ベアトリクスは口元を押さえてブツブツと呟いていた。


「……どこだ、どこからだ? ガイアの宝玉か? ゾルアとの遭遇か? 危惧していたことが起きちまったのは予想の範疇だったが、まさか、こんなことになるとは。ここまでが予言の範囲でこここそが予言の瞬間だったとは!」


ベアトリクスは突然叫び、爛々とした眼を輝かせて天を仰ぐ。

 異様な昂ぶりに、俺は不審を覚える。こいつ何を言っているんだ?

 いや。この女、何を見ているんだ。


「くははは、っんだよこの茶番劇。真面目に計画を立てていたおれが馬鹿みたいじゃねえか。こんなイレギュラーの連続の果ての結果、読めるわけねえだろ。魔人を組み込もうって思ったのも単なる思い付きなんだぜ? どこだ、どこからだ? 奴は……、次元の魔女はいつからこの未来を予知していたんだ!」

「……おい。ベアトリクス。クゾ女。何言ってるんだ? 何で笑ってんだ?」


 アンが死んだんだぞ。そうだって言うのに。


「どうして貴様、そんなに嬉しそうにしてんだ……?」


 違う。慣れているとかそういうのではない。こいつはアンの死をちっとも悲しんでいない。諦めてもいない。喜んで感激して歓迎している。


 俺はこのときになって初めて、ベアトリクスの本性を覗いた気がした。

 ベアトリクスはこちらの声が聞こえていないかのように、子供のように浮かれる。


「ああ、怖いな。自分が運命の操り人形になった気分だ。ソロモンの血筋。芳醇な魔力。一流の魔術の使い手。すべてここに揃っている。まるで最初からそうなるのが決まっていたかのように、すべてがピタリと嵌まった」


 天を仰いでいた彼女が首を下ろし、俺たちに目を向けた。

 その顔には、もう何の感情もなかった。

 冷たく凍てついた虚無の仮面。


「悪りぃな」


 その謝罪は本心か建前か。

 問い質すときもなく、ベアトリクスの放った魔術が俺の身体を細切れにした。

 頭から爪先まで、一ミリサイズの肉片に分断され、脳も心臓も消し飛ぶ。

 当然、無力な子供の身体で助かるはずもなく。

 魔人ベルゼブブは、魔女ベアトリクスの手によって死を迎えた。


七日と十二時間ぶり、生涯三千七百十七回目の死を。


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