31 嘘つき
ベルゼブブはゴブリンの里の跡地に降りていった。
降り立つとちょうど三つの魔術が強制終了し、俺は元の少年の姿に戻る。
宝玉の暴風は消え失せ、アンはぐったりと倒れ込んでいた。彼女のふところから宝玉が転げ落ち、ビシッと大きな亀裂を入れた。俺は空を仰ぐアンに寄り添った。
彼女の頭を抱き上げ、俺の顔を見やすくした。
「終わったよ」
俺は意識を朦朧とさせているアンに囁きかける。
「……ふふ、約束、守ってくれたんだね」
アンは俺の顔を見ると、優しく微笑んでくれた。
その笑顔を見た瞬間、俺の目から熱い液体が零れ落ちた。頬を伝う血潮のようなそれが何なのか分からなかったが、そのまま溢れ出てくるのに任せた。
「何のことだ? 俺は奴隷紋に逆らえなかっただけだ」
俺が嘯くと、アンはますます聖母のような笑顔を浮かべる。
……ああ。
ああ、やはりそうなのか。俺はその意味を痛いほど理解する。彼女自身も悟っているのだ。でも、だとしたら、こんな笑顔一生見たくなかった。
「ご主人様、しっかりしてでやんす! お願いでやんす!」
ヤンスがみっともないくらい泣き喚いている。身体全体が消化器官とも言えるスライムには余計な器官がない。スライムは涙を流せない。奴らが発する体液はどれも肉体の一部であり、それ以上でもそれ以下でもない。
ゆえに、ヤンスが流している大粒は、己の身を削って発しているものなのである。
「ヤンス君、ベル君をよろしくね。先輩なんだから」
「うう、わ、分かったでやんす。ううう……」
「誰がよろしくされるか。阿呆」
こうして話している間にもアンの生命力は薄くなっていく。
避けられない結果だったのだ。
アンが地母神の力を暴走させたとき、俺には分かってしまった。そのあまりにも強大な力に彼女の肉体は耐えられないと。たとえ巨大化ゴブリンを止めても、今すぐ宝玉を破壊したとしても、もう彼女は助からないということを。
暴走中は地母神の加護がその命を繋ぎ止めていた。だが苦しんでいる彼女を放置しておけるはずがなかった。巨大化したゴブリンが大勢の命を奪えば、彼女は悲しんだだろう。俺はせいぜいその悲劇を回避することしかできなかった。
俺は無力だ。敵を破壊することしかできない、虚しいほど無力だ。
自分の涙も止められないくらい、ちっぽけな男だった。
「なあ、アン」
「……ん、なあに?」
彼女は薄目で、けれどしっかりと俺の顔を見つめた。
「俺が……、俺なんかでよかったのか?」
アンは子供みたいな満面の笑みを浮かべて、俺の頬を触った。
「あなたでよかった。あなたと出会えてよかった。喧嘩もしたけど、それも楽しかった。もし家族がいたら、こんな風だったかもしれないなって。あなたといると、どんな夢でも不可能じゃないと思えたの。あなただったから、私は私の夢を諦めずに済んだ。
私がわがままな女の子でいられたのは、ベル君のせいなんだよ?」
「人のせいにするな、お前のわがままは筋金入りだ」
俺がばっさり切り捨てると、アンは目を細めた。
「ふふ、叱られちゃった」
「叱られるのがそんなに嬉しいのなら、この先もずっと叱ってやる」
ずっと、ずっと隣に居続けてやりたかった。
「……ねえ。さっきのカッコよかったよ。優しくて強くて、神様みたいだった」
「それは俺にとって最大の皮肉だぞ? わざとか?」
俺は思い切り顔を顰めて言った。
しかし、アンは笑みの表情のまま、虚空を眺めるだけだった。
もう何も見えていない。耳はまだ聞こえるだろうか?
「……ねえ、ベル君」
アンが語りかけてくる。
「何だ」
俺は、返事をしながら彼女の手を握り締めた。
「あなたは、私に会えてよかった?」
「最悪だったに決まってる」
俺は手を握りながら、すでに目が利いていない彼女に悪態を吐く。
「俺の忠告は聞かないし、頑固で自分を曲げないし、先祖によく似て、すぐに暴走するお前のことが大嫌いだった」
直視できないほど眩しかった彼女の手を握りながら、俺は本音をぶつける。
「俺はお前に会いたくなかった」
これ以上ない出会いを与えてくれた運命を恨みながら、俺は言う。
「余計なものばかり背負わせてくれやがって。まったくいい迷惑だ」
大事なものを与えてくれた彼女を手離したくなくて、俺は祈る。
「お前みたいな奴は初めてだ。後にも先にも俺が……」
果たしてどこまで聞こえていたのか、彼女はくすりと笑った。
「嘘吐き。ベル君の大嘘吐き。けど、嘘でも嬉しい」
アンはゆっくりと瞼を閉じた。
いよいよだと悟り、ヤンスが必死に呼びかける。
「ご主人様ぁ! ご主人様ぁあああ!」
人間界の童話で眠り姫を王子が起こす物語があった。俺はあの物語の結末が嫌いだった。ただ時間の経過と偶然と情欲だけで幸せになる結末が許しがたかった。
どう足掻いても幸せになれない者たちを嘲笑っているようで。
一人の少女の物語が終わろうとしている。
幸せを願い、己を犠牲にしてでも皆を救おうとした可憐な少女。
一体、誰が彼女にハッピーエンドを与えてやれただろうか。
「…………ッ」
手元に僅かな力を感じた。俺は握った彼女の手をこちらの頬まで導く。彼女の唇が動き、音のない言葉を伝えた。俺は彼女の手を額に押し当て、祈るように囁いた。
「ああ……、俺もだ」
こちらの想いが伝わったか、彼女は満足そうに微笑んだ。
その手から最後の力が抜け、支えていた身体がふっと軽くなった。
アンネローゼ・クラウディウスは眠るように逝った。
俺は彼女の手を握って祈りながら、ただ言葉を噤んだ。
首筋の紋章が焼けるような熱を発している。最後の置き土産のつもりか、魂を束縛していた命令が解除されるのが分かった。主人が喪失してもなぜか奴隷紋は消えない。泣き疲れて気絶したヤンスの身体にもアンの奴隷紋が刻まれたままだ。
俺はアンをそっと地面に横たわらせた。
くすんだ空はひたすらに静かで。
眠りに就いたアンの顔は、今までで一番綺麗な顔をしていた。




