30 灰の手
「だ、駄目でやんす! あれには勝てないでやんす!」
巨神兵に立ち向かおうとした俺をヤンスが止めた。俺はヤンスをアンの方に押した。
「近くにいてやってくれ。俺が終わらせるから」
「でも……」
こちらをチラチラと見ながらアンの元へ駆け寄るヤンスは健気だった。
俺は踏み殺されたゲスブルーの死体に近づく。最後まで愛を知らずにこの世を去って行った哀れな魔人。死体をまさぐり、腹の中から白い塊を回収した。
魔人ベルゼブブの折られた角の片方だ。
角を飲み込んで体内に取り込むと、力が漲ってくるのを感じた。
魔力が俺の中で爆発的に生じ、渦巻くように練られて、意識が高揚していく。
魔術の暴走を止めるには二つの方法がある。術者を殺すか、術を止めるかだ。術を止めるには今回の場合、加護の送り先を叩き潰せばいい。
俺は超巨大なゴブリンを見上げた。
アンは最初の晩、敵のゴブリンを見逃した。倒した奴らを奴隷にもせず、私はお友達になるのだと。ゴブリンが街を襲撃したときも、アンは歩み寄りの姿勢を変えなかった。その努力が報われたかのようにアンはゴブリンに受け入れられ、アンは愛の決意を強くした。
だからこそアンの絶望は深くなり、破裂してしまった。
その結末がこれだ。
ゴブリンの死がアンを苦しめている。ゴブリンが悪いなどとは言わないが、彼らと関わらなければ、アンがここまで苦しむことはなかったのではないかと思ってしまう。自業自得と言い捨てられるはずがない。ゴブリンとの関係がここまで深くなる前に、アンが諦めていれば、俺が諦めさせていれば、不幸は生まれなかったのではないか。
ひたむきに相手を思い続けた報いがこれならば、運命はどれほど残酷なのか。
俺は満ち満ちた魔力を魔術式の下に組み替え、魔術を発動した。
「――起動しろ。『魔業鎧装』」
唱えた。俺の身体から黒い液体が鮮血のように発生し、全身をすっぽりと覆った。黒い液体は一瞬で硬化すると、こちらの身体に張り付き、鎧に変わる。すべてが鎧の形状に変化したとき、ベルゼブブは闇のように黒い全身甲冑に包まれていた。
「『堕ちろ堕ちろ堕ちろ堕ちろ。踊れ煉獄、彷徨え辺獄、氷獄の王はここに在る』」
唱える。漆黒の『魔業鎧装』から瘴気が漏れ出し、夥しい異臭が放たれ、世界の空気を塗り替えていく。瘴気に触れた植物は急速に枯れ果て、甲冑が踏んだ地面は灰のように脆くなる。環境を禍々しく侵す甲冑の内側で、ベルゼブブの肉体もまた変化していた。
「『魔族化』」
ゴキゴキゴガガ、と骨格から変形していき、獣のような牙が生え揃い、二本の角が伸び、尻尾や羽根まで生えていく。魂に順じた肉体に変身しているのだ。甲冑に覆われているので外から変化は見えない。せいぜい体格が変わったと分かるくらいだろう。
ベルゼブブは魔人の身体になっていた。真の力を発動するために。
元の姿に戻ったわけではない。少年の身体を『魔族化』で魔人に変換しているのだ。一時的な変身である。
本来なら、魔人は真の姿では人間界の魔力に耐え切れない。『魔業鎧装』と『堕ちろ』はそれを防ぐための魔術だ。『魔業鎧装』で外界を遮断し、『堕ちろ』で魔界の環境を甲冑内部に生み出す。いわば小規模な魔界を作り上げているのだ。
しかし、膨大な魔力を必要とするこの三つの秘技は長時間使用できるものではない。ベルゼブブの体内で、回収したばかりの魔角が見る見ると解けていく。完全に解けてしまえば、魔界の甲冑は消え去り、再び無力な少年の姿に戻ることになる。
魔界の瘴気を垂れ流しにしながら、俺は頭上の巨神兵を見下ろした。
「――跪け。我を誰と心得る」
ベルゼブブの手が空中を撫でた。巨大な『灰の手』が放たれ、巨大なゴブリンの膝から下を分解した。『灰の手』とは魔力で対象を分解する物理攻撃だ。虚空に網のように放てば広範囲を一気に崩壊させることができる。『魔族化』状態でのみ使える奥義である。
最初の犠牲者となったゴブリンがその場に崩れ落ちる。その足の断面からキラキラと魔力の残滓が散った。巨体を構築していた魔力が大地に還っているのだ。
俺は空中に飛び上がり、巨神兵よりも高い高度へ昇った。
すべての巨神兵を視界に収めながら、俺は宣告した。
「我が名は蝿の王。ベルゼブブ・ディアブロ・グラージュ。我が名の元に散るがよい」
空間から出現した尖塔のような杭が巨神兵たちを貫いた。一斉に放たれた『灰の手』の杭は巨神兵を地面に縫い付けた後、高速で壊していく。
苦悶の咆哮が大地を揺るがすが、神兵が抵抗することはできなかった。
「灰と化せ」
サアアア、と残滓が霧のように立ち昇り、巨神兵は跡形もなく消えていった。
ゴブリンの巨大化は細胞が膨張したわけではなく、地母神の魔力によって肉付けされている状態だ。つまり巨体の成分は地母神の魔力が変化したものであり、その巨体の中心部には核となる本体が残っている。
『灰の手』の杭は、本体のゴブリンを避けるように貫いていた。
巨神兵が解けてなくなった後、彼らの立っていた場所には小さなゴブリンが残っている。元のサイズに戻った彼らは気を失っているだけで死んではいない。
呆気ない決着に思えるが、元魔界七大将軍の名は伊達ではないということだ。これでも手加減した方である。高威力の攻撃魔法を使えば、簡単に殲滅することはできた。だが、ベルゼブブはそれを選ばなかった。
選びたくなかった。これ以上無駄な命を散らしたくなかったのだ。




