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ベルゼブブ魔人戦記  作者: ましろゆう
25/38

25 交信

「何て、ひどい光景なの……」 


 アンは戦場に引き返していた。メスやまだ幼いゴブリンを退避させた彼女の周りには撤退してきた戦士のゴブリンたちと、十数名の人間がいた。どちらも中心にいるのは、カルバンの街でアンに助けられた者たちだ。彼らは救護隊である。


 戦場に戻ってくる前、子供のゴブリンの中に自分も戦いたいと言う子もいたが、それは許さなかった。戦争の惨状を次世代に見せてはいけない。彼らが大人になる頃には、人間と魔物の平和な世界を実現させる。実現しなければならない。


 それがベアトリクスから託された己の使命だ。


 途中ベルと交信し、付与魔法を送ったが、その後の進展は聞こえない。彼は無事だろうか。心配は要らないと思うが、万が一ということもある。

 不安に胸を騒がせたとき、頭の中に声が響いた。


(アン、魔人だ……。人間の兵士は魔人に洗脳されている……)

(ベル君! ベル君、大丈夫っ? 怪我しているの?)


 アンが森を消火しながら前進する間、ベルゼブブの声が届いた。かなり弱った声だった。いつもの皮肉が言えないくらい彼は弱っているようだ。


(やっと届いたか……。アン、無事か。そっちに魔人は行ってないか?)

(いいえ。何も来てないわ。魔人に洗脳されているってどういうこと?)


 急に立ち止まってブツブツ呟き始めたアンに、周りの者が怪訝な顔をする。

 アンはベルゼブブとの交信に集中した。彼が重要なことを話しているところだ。

(魔人がイリアさんに……? それで、その魔人はどこに?)


(竜に乗って里へ攻め込む気だ。ゴブリンに追い出されたオークたちも、復讐するために一緒に乗っている)

(そんな……! ゾルアさんがまだ残っているわ。助けにいかなくちゃ)

(駄目だ……逃げろ。人間じゃ魔人には敵わない……)


 ベルゼブブは逃避を促してきた。いつもの彼になく弱気な意見だ。それはアンにとって到底受け入れられるものではなかった。


(私を特別扱いしないで。ただ世界に甘やかされて生きるだけなんて、まっぴら御免よ)

(強がっている場合か……! 状況が変わったんだ! お前は世界を変えたいんだろう。生き延びて望みを果たせ、アン)

(私の望みは誰も見捨てないことよ。それに……、)


 ゾルアと話ができたのは、決して長い時間ではなかった。ソロモンのことを懐かしみながら思い出話を語る彼の表情は感情豊かで、誰よりも人間らしかった。

 彼こそが人間と魔物の和平の象徴なのだ。


(私が、ゾルアさんを見殺しにできるわけがないじゃない。ベル君、私の性格は分かっているでしょう?)

(お前は……、そうか、強いな)


 彼の声に羨望が混じった気がして、アンはびっくりした。

 この偉そうな魔人が他人を羨むことなんて、絶対にないと思ったのに。

 しばらく声が聞こえなかったので、向こうで何かあったのかと思った。

 アンが呼びかけようとすると、脳内に聞き慣れた意地悪な声が飛んできた。


(ずっと言いそびれていたが、あのパイ、ありゃ甘過ぎだ。犬の餌かと思った)


 一瞬何のことだか分からなかったが、アンはすぐに思い出した。

『BOB』で彼に食べてもらった特製のハチミツパイのことだ。


 実はあのパイは彼が目を覚ましたら食べてもらおうと、ずっと練習していたパイだった。完璧とは言えないまでも自信作だったパイをからかわれて、アンはカチンと来る。


 けれど、何で知っているのだろう。私が作ったと言わなかったのに。


(あれだけ心配そうな顔をされれば、魔人だって気付く。お前は全部顔に出る)


 こちらの思考が伝わってしまったか、ベルが返答してきた。アンは赤面した。


(しょ、しょうがないじゃない。お菓子作りは苦手なんだから)

(その苦手で人を歓迎しようとはなあ。いや、実際痛烈な歓迎だった。うむ)

(ベル君! そろそろ怒るよ。もう一度にゃんにゃん口調にするんだから)

(美味かった。それの礼を伝えてなかった。ありがとう)


 アンは破裂寸前だった癇癪をしゅんと萎ませた。怒りはどこかへ消えてしまった。

 なぜ彼は今そんなことを言うのだろう。人が変わったようなベルの態度に、アンは猛烈な胸騒ぎを覚える。まるでこれが最後の会話になるとでも言うような……。


 ベルが急に遠い存在に感じられ、寂しくなる。

 今すぐにでも会いたかった。それは初めての感情だった。胸が痛くて、いても立ってもいられなくなる。恐怖や激昂とは違う、激しい感情のうねり。


 自分の中に生じたおかしな想いにアンは戸惑う。何かを伝えたいと思った。けれど何を言ったらいいか分からなくて、アンは恥ずかしさで口を噤んだ。


 ベル――ベルゼブブの強い声が聞こえる。


(アン。一つだけ約束しろ。俺と合流するまで無茶なことはするな。絶対に生きろ)

二つになっている。と思ったが、ベルの言葉が嬉しくて言わずにおいた。

(分かった。ベル君も私との約束、守ってね)

(……守るさ。ああ)


 ベルの声が遠のいていく。彼が意識を外に向け出したのだろう。交信が途切れる前に、アンは回復魔術を送った。付与魔術のようにフルの効果を与えることはできないが、四分の一でも伝わって彼の助けになれば良いと思った。


 交信が終わる。アンは心に残っている彼の声を繰り返した。

優しくて儚い響き。その声を聞くだけで、どこまでも強くなれる気がした。


 目を開いたアンは救護隊の中の人間を集めた。


「聞いてください。現在、カルバンの連合軍の指揮官は魔人が化けた偽物です。魔人はこの森で人間とゴブリンを皆殺しにするつもりです。私では連合軍の人たちを説得できない。それができるのは、カルバンの住民であるあなたたちだけです」

「魔人がイリア様に……? まさかそんな。で、では、ヴェルダン様は?」

「恐らく、彼も操られていたと思います。他の街から兵隊を集め、戦争の会戦と決めたのはヴェルダン侯だったのですよね?」

「た、確かに、最近のヴェルダン様の様子はおかしかった。温厚なあの方が、即座にゴブリンの森を焼き払うと言ったときには、誰もが耳を疑った」


 一人の青年がそう言うと、周りの者もそれに同意した。


「ええ、そうです。ヴェルダン様は街が焼かれたのだから容赦する必要はないと言った。家族を失った兵士たちがそこに同調し、ろくな話し合いもないまま、戦いが決定したのです。ヴェルダン様は、これは聖戦なのだと、市民たちに宣言しました」

「それが相手の手口なのです。人に化けて人々を焚きつけ、無益な戦争を起こし、多くの命を奪う。信じがたい暴挙です。許せるはずがない。正体不明の魔人に街を食い荒らされて、誰が黙っていられるでしょうか」


 アンの演説はよく通った。アルミラ帝国出身の者が今の彼女を見たのならば、先々代の王女の影をそこに重ねたに違いない。まさしく生まれながらにしての王族。育ちや生い立ちや教育などそんな些細な問題、彼女には関係ないのだ。


 救護隊の人間は必死に訴えかける彼女に心を突き動かされた。


「あの街は俺の故郷だ。魔人なんかに滅茶苦茶にされて堪るか!」

「そうだ! 俺たちの手で守る。いや、取り返すんだ!」


 そうだそうだ、と彼らの思いが団結していく。年配の一人がアンに語りかけた。


「アンのお嬢ちゃん、俺たちはあんたの言うこと信じるよ。魔人とか荒唐無稽だと思ったが、あんたが嘘を吐いているとは思えない。カラバンはキャラバンに救われた者たちが集まってできた街なんだ。だから勇気のある人間は信じるのが、カラバンの男の流儀だ」

「皆さん……! ありがとうございます」

「俺たちは何をすりゃいい。何だって協力するぜ」


 アンは緩みかけた涙腺を締め、毅然と指示を出した。


「一人でも多くの人間を巻き込みながら、カルバンの街へ避難してください。ここが再び戦場になる前に。皆さんが説得すれば、皆、おかしいと気付いてくれるはずです」

「分かりました。ではあなたは?」


 青年の言葉にアンは逡巡した。だが、自分が行けばゴブリンも同行することになる。さすがに戦闘中の敵と一緒では、誰も説得に応じないだろう。


「私はゴブリンの里に戻ります。いま里は竜とオークの群れに襲われているようです。ですからそこで奪われようとしている命を救いに行きます」

「そうですか。ご武運を」

「皆さんもお気をつけて」


 そう言葉を交わし、アンは彼らの背中を見送った。


 すべてが良い方向に動いている予感がする。まだ渦中の真っ只中なのに、淡い希望は持つべきではないかもしれない。ベルだったら絶対に苦言を呈してくる。油断するなと。

 だけど希望は活力となってアンを勇気付ける。

 現実を知って強くなるのではない。希望を信じて無敵になるのだ。


 戦場の痛ましい光景は、アンの心を抉り付けた。だがその中でも希望の灯火は芽生えた。

味方はいる。諦めない人がいる。ベルがまだどこかで戦っている。

だったらもう怖いものなしだ。

気力を満たしたアンは里に向けて、森の斜面を登り始めた。


 その先に、真の地獄が待っているとも知らずに。


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