21 戦争の始まり
「落ち着け。すべて分かっている」
ハンモックで揺られていた俺はゆっくりと瞼を上げた。不思議と頭は冴えていた。眠りで思考が整理されたのだ。俺はやるべきことを思い出した。いや、正確にはやり残したことを思い出した。
あの魔人どもだけは、この手で握り潰さなければならない。
アンは俺の顔を上から覗き込んでいた。相変わらず憎たらしいぐらい可愛い顔だ。
「ベル君、何だかうなされていたけど、大丈夫?」
「心配するな。それよりも状況を教えろ。森が人間どもに襲撃された。間違いないな?」
ゴブリンが俺たちを匿って森に連れてきたことで、この場所が人間に知られてしまったのだろう。その点については若干申し訳ないと思う。
大勢の怒りの感情が遠くで膨らんでいるのを俺は感じた。
渦巻く兵士の士気を感じる。俺は敵の指揮官を心中で讃えた。悪くない。兵士の士気こそが戦争の勝敗を分ける重要な鍵となるのだ。
「恐らくそう。ベル君、あっちの方角を見て」
アンは東の空を指差した。大量の煙が森から立ち上っているのが見えた。山火事だ。あれが自然な現象のはずがない。敵は森を焼いたのだ。こちらの退路を断つために。
「そう来たか。思い切ったことをしてくるではないか」
「ベル君。まずはゾルアさんのところに行きましょう」
俺は大木の枝からアンを抱えて降りる。途中、すやすやと眠っているヤンスにデコピンをして起こそうとするが、奴は物理判定無視なので目覚めなかった。仕方がないので高速で奴をぶん回しながらキングの下へ行くことにした。
「おえ、おええええええええええ! 朝からおええええええええええええええええええ!!」
「ベル君、やめなさい。めっ!」
主に叱られたので俺は勘弁することにした。まったく、俺も丸くなったものだ。
吐瀉物を盛大にぶちまけたヤンスは、いそいそとアンの肩に隠れて俺を睨みつける。
「ヤンスの最大の敵はお前の気がしてきたでやんす。後輩のくせに」
「貴様、虎の威を借る狐という言葉は知っているか?」
「めっ! 二人とも、今は喧嘩している場合じゃないでしょ」
アンに窘められ、俺たちはゴブリンキングの下へ向かった。
里の中央に建てられたどでかい小屋の中にキングはいた。
ローブを羽織ったメイジゴブリンや屈強そうなゴブリンがキングの前に揃っていた。彼らも現状には気付いているようだ。
「戦が起きたぞえ。ついに来るべき時がやってきたぞえ」
俺たちを見るなり、キングはそう言った。勇ましい言葉の割に、彼は悲しそうだ。
「ふん? どうした。貴様の死期もいよいよ間近に迫ってきたというのに覇気のない面をしやがって。戦争の前に俺が殺してやろうか?」
「この老体で皆が救えるなら喜んでこの身を捧げるぞえ」
「貴様まで自己犠牲心か。くだらん」
「儂が悲しみに耽っていたのは、人間との確執を埋めることができなかった儂の弱さぞえ。ソロモンが見ておられたら、何と言うか」
キングは悲痛そうに胸を掻き毟った。
オークを追いやり、ゴブリンはこの地を得た。その彼らがたった一つの街ごときに手をこまねいたとは考えづらい。おそらく、本気を出せばこのキングゴブリンはカルバンの街を殲滅することはできたのだ。しかし、キングの過去がそれを許さなかった。
昨日あの街を襲ったのは、若い衆の独断専行だとキングは弁明していた。
「ゾルアさん、私の知るゴブリンが何体かいないわ」
アンはそう言った。ゴブリンを個別に識別できるのは人間でこの少女だけだろう。
「また若い衆が行ったか。儂の作戦も聞かずに、無謀ぞえ」
「今は一刻が要。キングよ。すべてのゴブリンをここに呼べ」
「ちょうどそうしているところぞえ。手を貸してくれるのか? 魔人よ」
「あの人間どもの怒りは、半分は俺たちに向けられたものだろう。だったらそれに応えてやるまでだ」
アンが厳しい口調で叫んだ。
「ベル君! 駄目よ、戦っちゃ! どうにかして説得しなきゃ」
その命令に俺は白ける。
「戦闘厳禁。まずは説得。平和万歳か。ふん、頼もしいアドバイスだな。だがここが俺の主戦場だ。子供は口を挟まないでもらおう」
「ベル君。私の話を聞いて」
「寝言の時間はここまでだ、アン。今回のは大規模な戦闘になる。これまで見てきたお遊びとは比べ物にならない。戦争だ。戦争が始まれば、あらゆる倫理観は吹っ飛び、すべての悪逆が認められる。誰も理想を唱えている暇はない。
アン、理想ってのは平和のときだけ読めるおとぎ話なんだよ」
「でも理想を語るのを止めたら、私たちは獣に戻るわ」
「ああ、獣に戻るんだよ。今から俺たちは」
「ゾルアさん。あなたはそれでいいの? ソロモンさんはそれを望むと思う?」
「ソロモンは望まないだろうぞえ。だが儂は従僕である前に、ゴブリンなんだぞえ。死ぬのだとしたら、同属を救うために死にたいぞえ」
「駄目よ。戦っては駄目。あなたなら分かってくれるでしょ」
「ソロモンの孫娘よ。心優しい娘よ。儂も分かっているぞえ。この戦いは勝てない。もしここで勝っても、次の戦いあるぞえ。それはもっと大きな戦いになるぞえ。もしそこで勝ててもまた次があるぞえ。儂たちは多い。だが人間もっともっと多い。戦いの螺旋は終わらないぞえ。そして終わらない戦いは辛いぞえ。いつか我々はへし折れて負ける」
キングがアンの顔をまっすぐ見下ろした。
「気にするなぞえ。ソロモンの孫娘。儂たちの死を気にしないでほしいぞえ。世界は強い者だけが生きられる。弱肉強食なのだから」
「…………ッッ!」
ゾルアは何の気なしにその言葉を言ったのだろう。自分の知っている世界の真実をただ言葉にしただけに過ぎない。
その言葉が、アンにとってどれだけ残酷なものか知らずに。
これ以上の議論は無駄だった。どうせアンは死ぬまで折れようとしない。俺はゾルアに目配せをした。その意を読み取ったゾルアは、部下のゴブリンに命令した。
「大事なお客さんを、安全な場所へ連れていくぞえ」
「プギッ」
屈強なゴブリン数匹がアンを持ち上げ、小屋の外に運び出した。
「あ、ベル君! ゾルアさん! お願い、待って!」
アンが外に消える。入れ替わりに一匹のゴブリンが入ってきた。
ゾルアが鷹揚に頷き、その巨体を持ち上げた。
「うむ。兵士が集まったぞえ。行くぞえ、ベルゼブブ殿」
ゾルアと共に表に出る。大勢のゴブリンが隊列を組んで待っていた。
一糸狂わず整った様に、俺はさきほど見た夢の光景を見て、笑みを深める。
「では戦争を始めよう」




