2 最強の魔術師は奴隷をたくさん飼っていますが何か?
「ただいまー、可愛いオレの奴隷たちよ!」
アンの奴隷になった俺が、甲斐甲斐しく店の掃除をしていたとき、開店前の『BOB』にやかましい人間が入って来た。
「「おはようございます! ご主人様!」」
俺以外の店員が声を揃えて主人へとあいさつをした。
「ふう、いいねいいねえー。実に煙草が美味い」
煙草の煙を吐きながら満足そうに眺めたそいつは、店の制服に着替えた俺を見つけるとニタァといやらしい笑みを浮かべた。
ちなみに、店員が全員女であるせいで、俺に用意された制服も、当然のごとく、女物だった。ヒラヒラとフリルが付きまくった、メイド服を違法改造したような気が狂ったデザインの代物であった。
……何が悲しゅうて、女装して男どもに媚を売らにゃああかんねん。
情けなさのあまり、言葉遣いも乱れに乱れる。
落ち込んだ俺を見て、アンが「大丈夫! とびきり可愛いから!」とフォローしてくれたのがまたショックだった。いっそ殺せ……。
「おやおや、うちの制服じゃ孫に衣装だな。こりゃ、お堅い国だったらポルノ法で一発退場だ。でもそんなのオレには関係ねー。なぜだい? 可愛い奴隷たちよ!」
「「ご主人様が、完全無欠で頭脳明晰な最強の魔術師だからです」」
………なんだろこれ。独裁者の公演なのかな。帰っていいかな。
半ば本気で魔界に帰りたくなってきた俺は、目線を動かしてアンを探した。あいつめ、そ知らぬ顔で前髪をいじってやがる。目が合うと、ニコッとして人差し指を唇にたてた。
めっちゃ可愛い。
奴隷にしてー。ま、奴隷なんだけど(俺が)
ちなみに、俺が『BOB』の主をそいつと呼んでいるのには理由がある。なぜなら、そいつは口調や仕草は男だったのに、綺麗な化粧をして女の姿をしていたからだ。アンの説明を聞いて何となくマスターは男だと決めつけていたのだが、それも怪しくなってきた。まあ、魔術師なんて自身の肉体を平気で実験体にする、魔人から見てもやばい人種だから珍しくもない。
体の線が細くて妙に艶があるから、案外、女なのかもしれない。
「おいおい、坊や。そんなに熱く見てると、たべちゃうぜ? ベッキー、バイで、一人治外法権だから年齢とかも気にしねえんだ」
ベロり、と性別不詳の主、ベッキーは舌なめずりをした。ぞぞぞ、と背中に悪寒が走る。やばい。なにがどうやばいなのかは分からないが、このベッキーとかいう人間はやばすぎる。
「ベル君には手を出さないでください、マスター」
そそくさ、と離れていたアンが両腕で背後から抱きしめ、ベッキーから俺のことをかばった。周りの女の子たちは年下のアンが慌てているのを見て、くすくすと笑っている。ベッキーはその反応に満足したのか、咥えていたタバコの火を自分の手の平に押し付けて消した。
「よろしくな、ベル坊や。さあ、みんなも可愛がってくれ、と言いたいところだが、今日はお前らに報告がある」
ベッキーはしゅぼっとジッポライターで新しいタバコに火をつける。相当のヘビースモーカーなのだろう。朝礼の最中に喫煙とか魔人から見てもマナーが悪い。
「突然ですが、『BOB』は今日をもって閉店します」
しーん、と店内が嘘のように静まり返る。
え、閉店? 俺がさっきまでしていた掃除は無駄?
「………………」
女の子たちも口をぽかん、と開けて驚きで声を失っていた。アンですら、俺を離して同様の状態になっている。
いや、もっと抱きしめて欲しいとか思ってないよ? 別に。
ベッキーは目元まで伸びた前髪をかき分け、ぼそぼそと話し出す。
「……いやー、ギャンブルで国王に負けちまってさ。やっぱ王族は生まれ持っての運量が違うわな。おまけに四人麻雀てのもいけなかったかな? 他二人が左大臣と右大臣だったんだけど、徹底的に国王を援護するから、歯が立たなかったぜ。いやははっ!」
「「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」」
店を閉める驚愕の理由に女の子たちの地の声が出た。その後も「バカなんですか?」「勝てる見込み0じゃないですか!」「この前もそれで次元の魔女にお金を借りてましよね」などと、次々に非難の声を浴びせられている。
これがギャンブルの恐ろしい所以なのだろうか。いや、同情はしないが。
当のベッキーはというと、女の子たちに囲まれてわちゃわちゃ言われても何も堪えていないようだ。はは、とせせら笑っている様である。
「ま、つーことで十五年やってきた『BOB』だけど、今日で閉店する。初めこそ鳴かず飛ばずだったが、今では諸外国のお偉いさんが忍び足で来るほどの店になったわけだが、やっぱり素人経営はよくねえな。店の売り上げと貯金が、一晩で消えちまった。てへ」
「「原因はギャンブルだろうが!!」」
そして女の子たちによるリンチが始まった。ぼかすか蹴られたり殴られたりしているベッキーが妙に嬉しそうなのは、見なかったことにしよう。世の中は広いのだ。
奴隷による主人への虐殺ショーは二十分程度で終わった。その後はベッキーが一人一人の奴隷の奴隷紋を解放していき、個人的な所有物を持ち帰ることになった。アンも奴隷紋を解除される。この場の奴隷はベルゼブブ一人となった。
店の権利は国王が持っていったので、奴隷の女の子たちは晴れて奴隷から解放され、改めて店員としてこの店で働き続けるつもりのようだ。
「坊や、ちょっと来い。話がある」
あらかた店仕舞いが付いた頃。ベッキーが俺に声をかけてきた。
「断固断る。俺の半径十五メートル以内に近づくでない」
身の危険しか感じなかった。ベッキーには迸る性のオーラを感じるのだ。性別は分からないが、相当なビッチであるのは間違いがない。
「おいおい、ずいぶんと嫌われたもんだなあ。ベッキー、泣いちゃうぜ。じゃあこう呼べば来るかな。七大将軍の序列二位、ベルゼブブ・ディアブロ・グラージュよ」
「……貴様、なぜ俺の真名を知っている」
「簡単なことだよ。ここに来る前、不思議な光に包まれただろ? あれは次元魔法だよ。魔界ではお前は追っ手の雷に打たれて死んだことになっている。おれはお前の死を偽装し、次元の魔女に依頼してここへ呼び寄せてもらった。むろん、代償は高くついたがな」
次元の魔女。世界で唯一、次元魔法を使える魔女だ。かつて人間が魔界に侵入したときに一役買ったのが彼女だと言われている。魔界にも次元魔法を扱える魔人はいない。まさしく唯一無二の存在である。
つまり、俺がドラントの街に辿り着いたのは偶然ではなかったのだ。ベッキーが次元の魔女に依頼し、仕組んだもの。
「俺をこんな体にしたのも貴様の仕業か」
低い声でそう尋ねる。俺の知識の中にそんな魔法は聞いたことがないが、次元の魔女と交流があり、自身も相当の力を秘めているベッキーなら容易いことであろう。
「はっ。そう急ぎなさんな、魔人よ。まずはお茶でもいかがかね? 夕刻にぴったりな話を肴に、酒を飲むのも悪くない。ベッキー、魔人と飲めるなんて興奮しちゃうぜ」
目が合い、俺は一つの確信を覚えた。こいつの名前はベッキーではない。もちろんそんなことは最初から分かっている。
かつて魔界に行った経験のある人間はそう多くはない。いつだって人は冒険をするときにパーティを組んだ。そして、魔界に挑んだパーティで最も有名な奴らがいる。
数々の伝説を成し遂げ、最後に仲間同士で殺し合って幕を閉じた、伝説のパーティ。
キャラバン。
彼らの中には、最強の魔術師がいた。
『彼女』が最強と呼ばれた理由は簡単だ。殺し合いを征し、最後の一人になったからだ。
俺はニヤリと頬を持ち上げた。
「俺も興奮してきたよ。いい酒はあるか?」
「ああ。それもとっておきのが、な」
俺たちはテーブルを囲った。アンを残して他の店員はすでに帰っている。
アンが店の奥から一本の酒瓶とグラスを持ってきた。酒とグラスを置いたアンが引っ込もうとすると、ベッキーが止めた。
「まあ待て。アン、お前もここに座れ」
「え? でも、ベル君と大事な話をするんですよね?」
きょとんと首を傾けるアン。小動物のようにあざとい。
「お前にも関係してくる話だよ。俺がどうしてアンに、ベルを預けたんだと思う? ベルゼブブの看病を任せ、奴隷紋を植え付けて、奴隷契約を結ばせた理由だ」
「さあ? マスターのことだから、その場の考えなしで、決定したんじゃないんですか? あ、それとも、ベル君への嫌がらせ?」
「大した信頼だな、貴様……」
俺は半眼になってベッキーを睨んだ。
「まあ、それも半分ある」ベッキーは偉そうに認めた。
「あるんかい!」
「そう興奮するな。半分冗談だよ」
「それでも四分の一残っているぞ……」
「そのくらいのお遊びには目を瞑っとけ」
ベッキーは扇情的な瞳でウインクした。女神を思わせる完璧な顔立ちもあって、仕草の一つ一つが男を惑わせる色香を放っている。だが、その程度では俺の心はピクリとも反応しない。言動の気持ち悪さに拒否反応は起こるが、美しさの方面で俺の心を動かすのは不可能だ。
「そうだな。お前さん、ロリコンだもんな」
「さらっと読心するな。つうか、誰が少女愛好家の変態だ」
「くははっ、図星突かれて、慌てて否定してら。ん~でもでも! バレバレでちゅよぉ~?」
無言で立ち上がって椅子を振り上げた俺を、アンが背後から羽交い絞めにして止めた。アンの身体が密着して、俺の身体が強張る。動悸が速くなり、全身に力が入らなくなった。アンの拘束を振り払うこともできず、その内、両腕が疲れてしまい、あえなく椅子を下ろした。
……クソッ。ここまで弱体化しているとは。
見た目通りの子供の体力になっている。悲しくて涙が出そうだ。
一応、己の名誉のために弁解しておくと、俺がアンに過剰に反応してしまうのは、奴隷紋の効果で、主人に逆らってはならないと精神と肉体に植え付けられているからだ。そうでなければ、魔皇帝とも恐れられていたベルゼブブが、未経験の若造みたいに狼狽するわけがない。まあ、アンが可愛いことは否定しないが。
「やはりロリコン……」
「ぶっ殺すぞ……!」
ボソッと呟いたベッキーをありったけの殺意を篭めて睨んだ。
散々腹を抱えて笑ってから、ベッキーは言った。
「悪い悪い、全然話が進まねえな。真面目に話をしよう」
「最初からそうしろ」
「おれはそうするつもりだったぜ? だけど、坊やが茶々を入れてくるから、おれも楽しくなって話が脱線しちまったんじゃねえか。おれは悪くないぜー?」
頭痛がしてきた俺は、隣のアンに小声で尋ねた。
「……こいつ、いつもこうなのか?」
「だよー。今日はまだ、落ち着いている方かな」
これでか……、と俺は戦々恐々する。
「おいおい。内緒話とはすっかり仲良しだな?」
ベッキーは酒瓶を傾け、琥珀色の液体を二つのグラスに注いだ。その一つを俺の前に置き、自分の分のグラスを持ち上げた。
「『ドラグーン・ボイス』。魔界で摂れる果実とワイバーンの血で作られた蒸留酒だ。魔界出身の坊やの口にも合うだろうよ」
「その坊や呼ばわりは即刻止めろ。愚弄しているのか」
「坊やは坊やだろ。はんっ。分かった分かった。ここはおれが大人になってやる。お子様のベル君に代わって、アダルティセクシィマックスのおれが、さらに最上級の大人の階段を上ってやろうじゃねえか」
「…………」
怒るのも疲れてきた俺は、グラスを持ち上げ、酒を一舐めした。液体が舌に触れた途端、鼻腔を突く強烈な香りが口内に広がり、瞬く間に消えていった。口の中に残っているのは、血の香りと燃えるような熱。酒は消えた。飲み込む前に、体温で揮発してしまったのだ。単に度数が高いだけでは、こうはならない。
たった一舐めで全身に酒が回り、俺はくらっと倒れ掛かる。
アンが慌てて顔色を変える。
「ああぁ! マスター、なに子供にお酒を飲ましているんですかぁ!」
「子供じゃないから心配ねえよ。これでも一万歳の魔人だぜ」
「でも今は子供ですよ。無茶させないでください」
「アン……。大丈夫だ、もう醒めた」
俺は、さらに主人に噛み付こうとするアンを止めた。
体内に入ったアルコールはすでに魔力で分解できている。これはそうやって飲む酒なのだ。逆に言えば、魔術の心得のない者には決して飲めない『とっておき』なのである。
「ふん、人間にしては上物を知っているな」
俺はグラスの残りを一気に呷った。
全身に雷に打たれたような刺激が走り、魔力分解で掻き消えていく。
「おれもあっちで飲んでから、こいつに病みつきになっちまってな。だが一緒に呑める相手がいないから、ベッキー、難儀してたんだぜ」
楽しげにベッキーも中身を空にし、両方のグラスに酒を注いだ。
「本題に入ろうか」
グラスを傾け、ベッキーが言った。
「ふん。ようやく真面目に喋る気になったか」
「そうカッカしなさんな。可愛い顔が台無しだぜ?」
「黙れ可愛いと言うな黙れ殺すぞ黙れ」
俺の服装はまだフリルの付いたメイド服のままである。殺せ……。
ベッキーはこちらの目をまっすぐ見つめて言った。
「ベルゼブブ。お前は知りたいはずだ。なぜおれがお前をここに引き寄せたのか。なぜおれ自身が奴隷紋を刻まずに、未熟なアンに任せたのか。いくら肉体が弱体化しているとはいえ、お前の精神力は強く、魔力の扱いにも長けている。時間を置いて、魔力を取り戻していけば、すぐに奴隷紋で抑えつけることはできなくなるだろう。ま、その辺は釈迦に説法だな?」
「ああ。奴隷紋は俺が作った魔法だ。長所も弱点も、その対策法も熟知している」
「そ。そゆこと。ベルゼブブ・ディアブロ・グラージュを奴隷紋で支配しようとするのは、不死鳥フェニックスをマッチで倒そうとするくらい、無謀なことってわけだ。だがそうした理由の一つが、アンを守ってもらうこと。奴隷は主人を身をもって守らなければならない。それも奴隷紋が本能に刻み付ける命令だ」
「ほう。随分と過保護なのだな。そんなにこの娘が大事なのか?」
「んー。ま、その辺はこっちの事情でな。大事は大事なんだけど、大事じゃないと言えば大事じゃない。ご存知の通り、他にも奴隷は腐るほどいる。『BOB』のベイビーたちは俺の財産のほんの一部さ」
ベッキーはいつの間に取り出していた煙草に火を点ける。
「ただしこの街では一番のお気に入りだ。アンには魔術の才能がある」
「愛弟子、というわけか」
「そゆこと」
ベッキーは煙草を咥え、艶やかに微笑んだ。
「え? 奴隷じゃなくて弟子だったんですか、私?」
その脇ではアンが目を見開いて驚いていた。
「は? 気付いてなかったのか……?」
なぜかベッキーすらも驚いていた。
二人の間に、微妙な空気が流れる。
「じゃあ、何でおれが魔術の基本を教えていたと思ってたの?」
「マスターの気まぐれかなぁ、って。ほら、マスターってそういうところあるじゃないですか。暇潰しに、物乞いさんに大金上げたりとか、嫌がらせで神殿の中にゾンビを放ったりとか」
「うんそういうとこあるけどね、ベッキー。でもさ、ベッキー、けっこう忙しい身だったじゃん。それでもアンにマンツーマンで魔術の手解きしてあげてたじゃん。他の奴隷たちとは違う仕事与えてたし、まったく違う扱いだったじゃん。普通、特別扱いされてるって、分かるもんじゃない?」
「分かりませんよ。言葉にしてくれなきゃ。プンスカ」
アンは頬を膨らませて抗議した。プンスカは口で言っていた。可愛い。
「えぇー……。親心、微塵も伝わらずかよ……。何だこの愛弟子。こんなに阿呆だったっけ」
「主に貴様の自業自得だと思うがな」
俺は冷酷に突き放した。腕組みをし、続きを促した。
「御託はいい。さっさと本題を言え。俺に何をさせたい? 可愛い弟子の用心棒をさせるために、わざわざ魔界から、次元の魔女の力を借りてまで、魔犬ごときに食われかけていた俺を呼び寄せたのか? はっ。ご苦労なことだな」
「結論を急ぐんじゃねえよ、蝿っころ」
「あぁ……?」
喉の奥から重圧が発せられる。
「……人間よ。よもや、私を蝿っころと言ったのか?」
しかし、ベッキーは憎たらしい顔で笑っていた。
「はしゃぐなよ死に損ない。瀕死のザコでも利用価値はある。そういうことだ。アンの奴隷にしたもう一つの理由は、お前を守るためだ」
「……俺を? どういうことだ」
気になる言葉に溢れかかっていた怒りが少し冷める。
「奴隷紋が刻まれた奴隷は、主人の魔力に隠される。今、お前の体内にはアンの魔力が混じっている。魔界の重鎮がお前の魔力を辿って、お前を探し出そうとしても、アンの魔力が邪魔をして、できなくなっている。魔界の奴らも、まさかあのベルゼブブが誰かの奴隷になっているだなんて、思わねえだろうよ」
「…………」
「奴隷は主人を助け、主人は奴隷を守る。理想的な関係だよな。奴隷紋は名前こそ強烈だが、汎用性の高い魔術だ。ただ支配して抑え付けるだけでなく、与えた魔力で奴隷の強化も行う。こんな部下思いの魔術を作ったのは、いったいどんな善人だ?」
「喧しい。殺すぞ」
俺は逸れかけた話の筋を修正する。
「しかし、ますます分からんな」
「何がだい?」
「すべてだ。貴様は、俺とアンに何をさせるつもりだ?」
俺は根幹となる質問をした。それがすべての理由のはずなのだ。
ベッキーはニヤリと笑い、ずばりと答えた。
「この世界を変えるのさ」
「世界を変えるだと? 世界征服でもするつもりか?」
「んまあ、似たようなもんだ。世界の法則が引っくり返る」
「下らん。時代を数百年前に戻すつもりか? 魔族と人間が絶えず争いを繰り返していた、狂乱と殺戮の時代に」
実に下らない。たとえ奴隷に成り下がったとしても、それだけは御免だった。
しかも復讐を果たすという大仕事があるのに、浅はかな野望に手を貸している暇はない。やりたければ一人でやって、一人で死ねばいい。
「そんなんじゃないぜ。勘違いしてくれるなって。そもそも、なぜキャラバンは魔界まで行っておいて、仲間同士で殺し合ったと思う?」
「ご主人様がテンション上がって大魔法ぶっ放したからじゃないんですか?」
アンが当然のように言い放つと、ベッキーは心底落胆し、がくっと項垂れる。
「どんだけ信用ないんだよ。ベッキー、泣いちゃうよ?」
くいっと酒を舐め、ベッキーは仕切り直す。
「おれたちは魔界で魔族を殺しまくった後、仲間割れしたのさ。魔族と融和を図る側と、魔族を撲滅する側へ」
「魔族って、魔人の別の呼び方でしたっけ?」
「今はそうだな。でもそんときのは人間以外の化け物って意味だ。エルフも人魚も人狼族も魔人も、ゴブリン、オーク、妖精、竜さえも含めた乱暴な定義だったよ」
「なるほど。そういう化け物さんたちと、マスターは融和を図ろうとしたんですか? でも、それって難しいんじゃないんですか?」
「どうしてそう思う?」
「え? だって、そもそも意思疎通ができないじゃないですか」
「意思疎通はできる。現におれとアンが意思疎通しているじゃないか」
「俺のことか」
何となく、ベッキーの話が読めてきた気がする。
人間は人間以外の種族の知性を認めない。古来より魔族は討伐するものと決め付けてきた。冒険者という傲慢な連中はその最たる例だ。
「まあ、魔人も似たようなもんだがな。人のことは言えん」
「ベル君は魔人なんですよね? こんなに可愛いですけど」
よしよし、と頭を撫でてくるアンを半眼で睨み、俺は説明する。
「魔人にも多くの種族がいる。貴様ら人間に肌の色の違いがあるように。俺はその内でも人間と肉体の構造や、構成物質が近い種族だ。お陰でこの大陸の魔力も俺の肌によく馴染む。他の種族の魔人は、もっと禍々しい見た目をしているぞ」
「大陸の魔力?」
「地母神が違うからな。流れる魔力の質が異なるのだ。他の種族だったら、数時間も耐えていられないだろう。貴様ら人間が海の中で生きられないのと同じ理由だ。他の種族の魔人でも、人間の姿に変化すれば、少しは息苦しさも紛れるのだが、まあ、下等な人間に変化するなど、魔人のプライドが許さないだろう」
「ベル君が子供の姿になったのも、だからなの?」
「それについては分からん。ええい、撫でるな! 変態女、話を戻せ」
俺はアンの指を払い退けて、ベッキーに話の続きを促した。
「どこまで話したっけ? ああ、つまり、魔族も人間と同じような知性は持っているから、融和は不可能ではないってこと。ベッキーが初めて交流を試みたのは竜種だ。彼らは極めて知性が高いから、意思疎通は難しくなかった」
「何か問題があったんですか?」
「大ありだぜ? 人間が魔族を劣等種と見ているように、竜種も自分たち以外を同様に扱っていたのさ。交渉は失敗し、おれは根本から考え直した。そこで、魔界の生物を支配下に置く魔人と交渉したのさ」
ベッキーはさらっと言ってのけたが、尋常な発想ではない。
単純なようで、狂気的だ。茨の道どころではない。
「おれたちはゲスブルーと交渉した。結果は、ベルゼブブ、お前なら分かるだろ?」
「狡猾な奴のことだ。話を受け入れると見せかけ、掌を返したに決まっている」
ゲスブルー。よもやここでも奴の名を聞くことになるとは。俺を裏切った魔人の一人。思い返すだけで腸が煮えくり返る。奴は必ず、この手で引き裂かねばならん。
「ベルゼブブ。交渉しようじゃねえか。おれはお前の命を救った。だから、この世界の数千種に及ぶ魔族たちを支配下に置き、平定してみろ。まさか、命を救ってもらっておいて、知らんぷりするわけがねえよな?」
ベッキーはあからさまな挑発をしてきた。とことん癇に障る人間だ。
魔人にとって、命を救われるのは死ぬに等しい恥辱だ。ましてや人間に救われたとあっては魔界に返り咲くなど夢のまた夢である。
この悪女の思惑に乗るのは気にくわないが、俺の目的は復讐を果たし、再び魔界を手中に収めることだ。魔界の頂点に立つ。それには軍勢がいる。実現可能かは置いておいて、世界中の魔物を束ねるのは、決して悪い案ではない。
「いいだろう。だが、一つ間違っていることがある。俺は貴様に命を救われたわけではない。俺の命を救ったのはアンだ」
その言葉にベッキーとアンが目を丸める。俺はアンを見た。
「アンよ。お前も俺の主人となるからには、生半可な覚悟は許されん。己の魂を犠牲にする覚悟があるか。煉獄の道を歩む覚悟はあるか」
「え? 私は……」
「なくば奴隷紋を解除しろ。覚悟のない主に用はない。ここが貴様の分水嶺だ。
死ぬか、逃げるか、俺と共に地獄へ落ちるかのな」
射殺すかのごとく鋭い眼光を俺はアンに向ける。
ここでたじろぐようでは、所詮、この娘は王の器ではなかったということだ。
しかし、あるいはアンならば、と。
なぜか、この娘には期待してしまうのだ。それが自身の弱体化によるものなのか、奴隷紋を施された影響かは分からない。
だか、俺には分かる。この出会いは偶然ではない。
「私は………」
アンは呼吸を飲み、そして宣言した。
「私の名をもってあなたに命じる。ベル・ミラージュ。ベルゼブブ・ディアブロ・グラージュ。誇り高き闇の血族よ。勇ましき剣、大いなる盾となり、古の契約に従い、いついかなるときも私を守る影となれ!」
「くくっ、必死ながらも様になっているじゃないか。気に入った。謹んで命じられてやろう。影は影に消え、魔は魔へと還る。我が腕は貴殿の牙、我が血は貴殿の涙なり。天魔人冥、四界の神々に誓い、我は貴殿の奴隷となろう。しからば我が主よ、貴殿の名は?」
「アン。アンネローゼ・クラウディウス」
「しかと承知した、我が主。契約、成立だ」
今日の日を、俺は後悔するときがくるだろうか。
蝿の王と忌み嫌われた時代のことを思い出す。
神の座から没落し、すべての民から忘れ去られたときを思い出す。
あるいは、あの頃この娘と出会えていたら。
何か、変わっていたのだろうか?
分からない。
分からないが―――、
「っ!?」「きゃあっ!」
突然、あのときと同じ、強烈な光が俺とアンの身体を包んだ。
「それじゃ、ばいならびー」
にこやかに手を振るベッキー。
「き、貴様ぁっ! いきなり何を、ぐほおおおおおお!!」
もしも、と過去を思い返せるのなら。
こんなクソったれな世界も悪くないのかもしれない、と思った。