19 魔人の策略
早朝。カルバンの街。
イリア・レルフォントは懲罰房の中にいた。アンたちを追放したあの騒ぎの中、領主に逆らった罰として、一晩の独居房入りを命じられたのだ。一晩頭を冷やしていろという意味だが、それでも自分が間違っているとは思えなかった。
イリアはこの一晩、主君への怒りと信じられない思いで一睡もできていなかった。アンとベルを追い出した決定もそうだし、アンとの舌戦で罵倒を繰り返す醜態。意見した家臣を有無を言わせず牢屋送りにする暴君ぶり。
どれも、温厚なヴェルダン侯からは想像できない暴挙だ。いったいどうしてしまったというのだろうか。
確かにゴブリンは怨敵だし、アンの治療行為は利敵行為で認められない。イリアも当初は暴走してアンとベルを敵だと見なした。
だが、一騎士の判断と領主の立場からのそれでは重みがまったく違う。リーダーの行動は民衆の指針である。人々のリーダーが軽挙な判断をしてはならない。リーダーが間違った判断をしても民衆はそれを信じ、突き進んでしまうからだ。
領主が戦争しろと言えば、領民は戦争するしかないのだ。
そのことをヴェルダン侯が分かっていないはずもないのに、なぜだ。
嫌な予感がして、謁見の間から引きずり出される直前、『心眼』でヴェルダンの魔力を覗いてみた。かすかに不穏な影が覆っているのが見えた。あの影は精神汚染の影響に似ていた。
「牢から出たら、はっきり確かめなくては……」
思いを誓ったとき、外で人々がざわついているのが聞こえた。何百人もの人間が集まって期待を前にしている雰囲気。異様に浮かれた熱の気配を感じる。
まだ日も昇っていない早朝に、人々が広間に集まっている。異常事態が起きている。ゴブリンが再び襲ってきたのだろうか。
「ぎゅふふふ、とうとう始まるのですよ。戦争がですねええ」
イリアの独居房の前にヴェルダン侯が立っていた。左右に警護を付けていない。さっきの不愉快な声はヴェルダンのものだったが、まさか本当に彼が出したのか?
いや、それよりも。
「ヴェルダン侯。戦争とはどういうことですか。私をここから出してください」
「んんんんんん! うるさいコバエの小娘ですねえ。今は私が喋っているでしょうが。私は人間もゴブリンも大の嫌いでしてね。殺し合ってくれるなら、胸がすかっとします。蝿のゴキブリモドキを消すんなら、思いっきりやらないとですねええ」
粘着質で相手を不快にさせる喋り方。言っていることの半分は意味が分からない。外見はヴェルダンだが、『心眼』で見た彼の魔力は真っ黒に染まっていた。
「貴様、ヴェルダン侯ではないな。何者だ!」
領主の中に潜んだ『何か』は熱に浮かれた風に口走る。
「ああ……戦争。愚かな愚かなお人形が、私の手で操られてぶっ壊れちゃう。言葉一つであっさり煽動できてしまう。これだから貴様らは愚かしいのですね。でもああ、楽しい! 悲劇を私が作るのだという快楽に勝る喜びは耐え難く狂おしい! 戦争ですよ!」
「そんなに戦争が好きなら自分で戦え、卑怯者!」
イリアは牢の扉越しに、人外を喝破した。
「あなたいいですねえ。その『眼』とても羨ましい。勝気な性格もいい。さぞかし部下に愛され好かれているでしょう。だからとてもちょうどがいいですねええええ」
領主の首が異常な角度で捻じ曲がり、こちらに向く。その目がイリアの瞳を穿った。イリアは得も知れない恐怖に襲われ、扉から飛び退いた。
脳を直接掻き混ぜてくるような笑い声が聞こえてくる。
「ぐぅるふふふふふ。老いた身体を酷使しすぎましたあ。もうこの身体は持ちません、もうこの人間は用済みだ。ここからはもっと若く、人望に溢れ、魅力的で、戦場に立てる指揮官が適切ですねえ。自分の手で、しっかりと奴にトドメを指すためにもねえ。ぬるぷぷぷぷ、光栄に思いなさい人間。あなたは魔人ゲスブルー様のお人形になれるんですからねえ」
いっそう甲高い笑い声がして、イリアの『心眼』は見た。
ヴェルダンの魂に張り付いていた黒い魔力の塊が、自分に襲い掛かってきたのを。
それを切りに、イリア・レルフォントの意識は途絶えた。




