笑顔のデッサン
部屋の畳の香りは四年前と同じ、秋の香りがした。
肩に抱えたクロッキー帳を窓際に置いた途端、固くなった肩が解れていく。
山々に囲まれた町にあるこの旅館とこの部屋は、オレにとって第二の故郷だった。
素足で畳みの網目をなぞり、カタカタ騒ぐ窓を開けた。赤く彩られた山間から秋風が付吹き抜け、部屋の暖気を浚い、部屋には木皮を剥がしたときの甘い香りが残った。
パラパラと捲れるクロッキー長を抑え、オレは呟いた。
「この時期の風は冷たいけど優しくて、実家の親のことを思い出すよ」
すると『彼女』は真っ直ぐに揃えた指先を手に当ててクスクスと笑った。
その笑顔を和服が一層上品に仕立てている。
「四年前の今日もお兄さん、同じことを言ってたよ?」
彼女は胸を張って得意げになった。
キリっとした眉。長い睫。長い髪が似合うメリハリのある顔立ち。二十代という風貌。そんな彼女が正座した足をモジモジさせ 風でめくれないように、抑えつけたクロッキー帳を見つめている。
「クロッキー帳、観るか?」
「……見てもいいですか?」
オレが頷くと、彼女はオットセイのように畳の上を滑り、テーブルの上に置かれたクロッキー帳に飛びついた。クロッキー帳には、山奥に住まう龍や、町で偶然見かけたケダマのような生き物等のデッサンが何枚も描かれている。それらを食い入るように鑑賞する彼女は、四年前と変わらない無邪気さがあった。
その容姿を覗いては。
四年前、オレと彼女が初めて出会った日、彼女は小学校生を思わせる幼い女の子だった。背丈も小さく、物陰からオレが絵を描いている様子を伺っていたのを覚えている。 それがたった四年で、彼女は大人の女性の風貌になっていた。
窓から吹きこむ秋風に首筋をなぞられ、オレはそっと部屋の窓を閉める。窓ガラスには部屋全体と、泣いた後のように腫れぼったい目のオレだけが映っていた。
そのとき、カエデが「あ!」と声をあげた。
オレが思わず振り向くと、彼女が満面の笑みを浮かべ、
「四年前にお兄さんが、描いていたネコちゃんだ!」
クロッキー帳では、三つの尾を持つ子ネコが小首を傾げていた。モノクロだけど影の付け方で毛並みの柔らかさや立体感を演出している。
「私、体が弱くて、外出できないから、いつもお兄さんが絵を描いてる様子を眺めてた。」
「そういえばカエデ、部屋で寝込むことが多かったな」
尋ねるとカエデは「うーん」と唸った。
「体調があまりに悪くて死んじゃうかもって思ったことがあったけど、それを超えたら。体が軽くなって元気になったの。もしかしたらお兄さんとの『約束』があったからかも」
カエデがすがりつくようにオレに抱きついた。衣擦れ音とともに彼女の身体の柔らかささを感じる。花のような甘い香りも感じている。
「私、元気になった後、一生懸命お母さんの手伝いをしたんだよ? それなのに元気になってから、誰も振り向いてくれない。誰も声をかけてくれないの」
彼女の手に力が籠る。その力に応えたくて、オレは彼女の体を同じくらい力強く受け止めた。そして彼女のサラサラした髪を撫でる。
「お前はちゃんとここにいる」
カエデは目から涙を溢れさせながらオレを見つめていた。 大粒の涙が零れているはずなのに、オレの服は濡れた後一つ残っていない。 彼女の涙の軟らかさや温かさを感じるはずなのにその痕跡が残らない。
オレは油が切れたように滑りの悪くなった口を強引に動かした。
「オレ、絵描きになったんだ。常夜明時っていう名前で。」
「知ってるよ。お兄さんが心霊現象の番組に出演する日は必ず、ロビーのテレビで確認したんだよ。霊を描くことでその霊を成仏するってやつ、かっこ良かった! もうすっかり有名人だね」
カエデが目を大きく見開いた。彼女の目から溢れる大粒の涙が痕跡を残すことなく、ポタポタと畳みに零れては、弾けていく。
「お兄さん、私との約束、覚えていますか?」
そんな彼女にオレは答えた。
「絵描きになったら、カエデを世界一綺麗に描く……だろ?」
オレはテーブルに置かれたクロッキー帳と鉛筆を手に持つ。
カエデはそんなオレを見つめ、窓際に正座した。
今の彼女には四年前の面影がほとんど残っていない。だけど――
「お兄さん。私を、このクロッキー帳のネコちゃんのように美しく描いてください」
カエデが言葉を漏らして微笑んだとき一瞬だけ彼女が背にする窓に、四年前の無邪気な彼女がオーバーラップした気がした。でも、窓には彼女の姿は映ってなどいなかった。
「お前がちゃんとここにいることを証明してやるからな」
カエデは掠れるような声で言った。
「お兄さん……いえ、常世明時先生。私、先生のおかげでここまで生きることができました」
オレは震える唇を噛みしめながらクロッキー帳に鉛筆を滑らせた。
デッサンが完成するまでの間、彼女は誰よりも美しい笑顔を浮かべていた。