縁
社会人生活2日目の昼休み。午前中の全体オリエンテーションが終わり、いよいよ午後からは部署ごとに分かれて本格的に仕事の説明を受けることになる。ざわざわと賑わう社員食堂。他の新入社員が仲良くなった何人かのグループで集まって談笑をしている中、和真は隅のほうで1人カレーライスを食べながら、昨日の出来事を思い返していた。
「俺、美園行久。よろしくな!」
ニコニコと男が差し出す手を、握り返すのを一瞬戸惑った。隣の部屋と聞いて思い出すのはやはりあの声。とんだ遊び人が住んでいるものだと何度も思った。そして、きっとほぼ間違いなく目の前の男がそれなのだろう。しかし、和真にはそれを直接尋ねる勇気はなかった。
「あ、よ、よろしくお願いします。」
おずおずと手を握り返すと、男――行久はパッと嬉しそうに笑った。笑うと幼く見えるその顔で毎晩のように女を抱いているのか……。点と点が繋がり、和真は複雑な気分になった。
その後2人はコンビニで買い物を済ませ、アパートに帰るまで他愛もない話をした。
「新社会人ってことはえーっと、22歳?」
「いや、23です。」
「あれ?」
「まぁ、色々あって……。」
「ふーん?てか年上なんだし敬語とかいらねぇよ?」
行久は、「俺21だし」と付け足してプリンと共に購入したフランクフルトをビニール袋からだすと、歩きながら器用にケチャップをかけた。
「え、年下!?俺、てっきり……。」
「敬語使ってくるからそうだろうなーって思った!てかそんな意外?俺結構若く見られることの方が多いんだけど?」
「あ、いやそれは、はは。」
「まあ歳の話はどうでもいっか!でさ、」
(女をとっかえひっかえしてアンアン言わせているような男が、自分より年下だなんて思わないし思いたくなかった、何て言えるわけないだろ……。)
言葉を飲み込み曖昧に笑った和真は、不自然だっただろうかと内心冷や汗をかいていた。しかし行久はそんな和真に気付く様子もなく、フランクフルトを頬張りながら話続ける。先入観からか、時折ケチャップが付いた唇をなぞる舌が妙な色香を含んで見えた。
「あ、そうそう!俺お隣さんに会ったら言っとこうと思ったことがあってさ!」
「え?」
和真はその言葉にドキリとした。自分が気になっていても聞けないあの事について、行久の口から紡がれるのではないかと思った。それは自分からは切り出せない和真にとってはありがたいものだったが、同時にどんな反応をしていいか困るものでもあった。思わず身を固くして構える
「目覚まし音。」
「……へ?」
そんな覚悟も空しく、行久の口から出たのは全く関係のないことだった。予想していたものとかけ離れたそれに和真は拍子抜けして呆けた声をだしてしまう。
「め、目覚まし?」
「そう、安藤君の目覚ましアラーム音めっちゃデカくね?悪いけどもうちょい小さくできねぇかな?ほぼ毎朝俺の部屋まで聞こえてくんだけど。」
申し訳なさそうに、それでいてほんの少し眉間に皺を寄せて放たれた行久の言葉に、和真の頭の中は真っ白になった。しかしそれは一瞬のことですぐに思考で埋め尽くされることになる。真っ白な頭を塗り潰す、黒い思考に。そしてそれはごく短い簡潔な言葉に集約され、口から飛び出る寸前で弾けて心に飛び散った。
(いや、ほんと、マジで……)
「お前がそれを言うかっ!」
「荒れてるね、安藤君。」
「!?」
過去に飲み込んだ言葉を湧き上がる怒りのままに思わず声に出してしまった和真は、返ってくるとは思わなかった他人の反応で現実に戻された。驚いて声の主をみると、そこには見覚えのある姿が立っていた。
「え、あ、あの時の?」
柔らかな雰囲気をまとった黒い瞳、少し襟足の長いこげ茶色の髪はあの時のように風に揺れてはいなかったが、今日は食堂の窓から差し込む日の光を受けてツヤツヤと輝いていた。
「また会ったね、前いいかな?」
「はい!」
彼はありがとうと微笑むと、塩鮭定食の乗ったおぼんを机の上に置いて和真の前の席に静かに座った。
「企画開発部の双見宗介です。」
「あ、マーケティング部の安藤和真です。」
「ははは、知ってるよ。入社式の時に見かけたし。それにマーケと企画は繋がり強いからね。よろしく。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「うん。……で、どうしたの?随分荒れてたみたいだけど?」
小首を傾げて尋ねてくる宗介に、和真は先ほどの自分の言動が見られていたことを思い出し、どう説明したものかと視線を泳がせる。そんな和真の反応から何かを察したのか、宗介はクスリと笑い口を開いた。
「もしかして、ゆきに会った?」
「ゆきって……。」
「美園行久。安藤君のお隣さんだよ。」
「はい、会いました……。」
そっかそっかなるほどね、と言いながら宗介は手を合わせ食事に取り掛かった。それにならって和真も止まっていたスプーンを再び持ちなおしカレーをすくう。しかしそれを口元に運ぶことよりも、聞きたいことがあった。
「あの、アイツって。」
「ん?」
「いや、その。」
「ゆっくりでいいよ。」
聞きたいことは沢山あるのにどう言えばいいのかわからず口ごもってしまう自分を急かすことなくちゃんと待ってくれる宗介のその言葉に甘えて、和真はポツリポツリと話し始めた。
「どんな、やつなんですか、アイツって。」
「んー、どんなやつだと思った?」
「その、チャラそうだな……と。」
「まああの見た目だしね。でも悪い奴じゃないよ。あ、話した?」
「はい、少し。なのでそれはわかります。ただ……。」
話しながら和真はふと、宗介がどこまで知っているのか不安になった。彼の話しぶりから行久と親しい関係なのは間違いなさそうだが、彼の夜の事情をどこまで赤裸々に語っていいのか戸惑った。
「えっと。」
(あ、でもあの朝に部屋から出てきたってことはある程度は知ってるのか?)
「……あれ?」
「どうしたの?」
そこまで考えて和真はある疑問を抱いた。
「あの、失礼かもしれないんですけど。」
「何?」
「双見さんと、美園君って、どういう関係なんですか?」
「……それは俺のプライベートにも関わるから、言えないかな。」
「っ……。」
空気が冷えるのを感じた。目の前の宗介は変わらず微笑んでいるが、先ほどまで纏っていた柔らかな雰囲気は消え、スッと冷たいものが背筋を這う。和真は思わず息を詰めた。
「す、みません……。」
「いいよ。俺の方こそごめんね?あんまり答えられなくて。」
和真が謝るころには宗介は優しい顔に戻っていた。先ほどの空気が嘘のように思えるほど温かな雰囲気だったが、和真は先ほどの恐怖にも似た感覚を確かに覚えていた。
「でも、意外だな。」
「何が、ですか?」
「他人に興味ないのかと思ってた。」
「!」
そう言って宗介は食堂で談笑を続ける和真の同期たちへ目を向ける。そして和真の方に視線を戻すとスゥ、と目を細めて口角を上げた。
「……あぁ、だから、か。」
「え?」
「さて、と。ちょっと空気悪くしちゃったね。俺は別の所で食べるよ。また機会があったら一緒しようね?」
「あ、はい。」
「……俺とゆきのこと、知りたかったらゆきに直接聞いてごらん。あいつなら答えてくれるよ。」
宗介はそう言い残すと、食べかけの定食を手に席を立った。
残された和真の目の前にあるカレーはこれ以上減ることはなかった。