隣人
カーテンから差し込んだ日差しが顔に当たって眩しい。和真は寝返りをひとつ打つと、太陽から逃げるように布団へ潜り込んだ。そのまま再び夢の世界へと旅立とうとしてハッとする。
「今何時!?」
枕もとのスマートフォンを確認すると、時刻は9時54分。
やばい寝すぎた、午前が死ぬ!今日は何する予定だっけ!?大慌てで布団から飛び出して、目の前に広がる見慣れない景色に一瞬固まる。広い部屋、真新しい家具、片付け途中の段ボール、まとめられたゴミ。
「あ…、そっか。もうゼミも卒論もないんだっけ。」
自分は無事大学を卒業し、雇ってくれた会社に勤めるためにこのアパートでひとり暮らしを始めたのだ。そう理解が追いついた瞬間、一気に肩の力が抜けた。
かなり余裕をもって引っ越しをしてよかった、じゃなきゃ入社式で遅刻というありえない醜態をさらすところだった、と安堵の息を吐くと同時に和真の腹はぐぅと空腹を訴えた。
「朝兼昼飯買いにコンビニでも行くか……。」
顔を洗い、適当な服を引っ張り出して着替える。ついでにボサボサになった髪をみてキャップも手に取った。それを目深に被りながらさほど中身の入っていない財布を手に玄関の扉を開けた。
「……あ、鍵!」
そして鍵の存在を思い出し、バタバタと部屋の中へと戻っていく。父親から入社祝いのひとつとして貰ったキーケースには実家の鍵とこの部屋の鍵がぶら下がっていた。
「危ない危ない。」
今度こそ、と扉を開け鍵穴に鍵を挿そうとした瞬間、左からガチャリという音が聞こえた。
「じゃーね、また。」
その声に、昨日あったことがぶわりと蘇ってきた。艶めかしい声とギシギシと軋む音、ナニをやっているかなんて明白で……。
そうか、だから今日こんな時間に目が覚めたのか。和真は朝の出来事に納得した。
てっきり新しい環境に体が慣れていないからかと思ったが、そうじゃない。昨夜はこの隣室の人物のせいで中々寝付けなくて大変だったのだ。さすがに声だけでトイレに駆け込むようなことにはならなかったが、あの後も全くやむ気配のない嬌声に意識が完全に持っていかれていた。声が聞こえなくなっても頭は妙に冴えており、結局深夜まで布団の中でごろごろしていたんだった。
和真がそんなことを思い出している間に、隣から再びガチャリという音がした。扉が閉まったのだ。和真は思わずそちらを見る。昨夜、自身の睡眠を妨げたのがどんな人物なのか気になった。
「?」
そこには長い黒髪のきつめの目元が印象的な女性が立っていた。春とはいえまだ肌寒い季節にもかかわらず、薄手のニットの首は胸を強調するように大きく開いている。スラリと長い脚は黒いタイトなパンツに包まれ、足元を飾る赤色のハイヒールが全体の印象をキュッと引き締めていた。思わず長い時間見つめてしまっていた為か、女性は心底不快そうな顔をして和真に言い放った。
「……何見てんの、キモ。」
「あ、す、すみません……。」
それからも隣から聞こえる情事の音は定期的に続いた。しかし何度もそれを聞いているうちに、それだけでは無いということに和真は気づいてしまった。日ごとに、女の声が変わっている。最初は気のせいかとも思ったのだが、初めて聞いた声よりもハスキーだったりキュートだったりと、明らかに別人だと思える声を何度も聞いた。そして買い物帰りに初日に出会った女性とは背格好が全く違う女性が角部屋に入っていくのを目撃してから、それは確信に変わった。
聞こえるのは女の喘ぎ声とベッドの軋む音だけで、男のほうの声はほとんど聞こえない。そのため隣にどんなやつが住んでいるのかは未だにわからないが、とんだ遊び人がいたものだと和真はあきれた。そして今日も壁の向こうでは相変わらずお盛んなようだった。
『んんっ、はぁ、…!』
「今日はハスキー系かー。あ、このプリンうま。」
慣れというのは恐ろしいもので、その声はすっかり和真の日常の一部と化していた。声が聞こえていても、買ってきたコンビニの限定プリンを食べながらそんな感想を言えるくらいには慣れきってしまっていた。
「にしてもすげぇな本当。性欲の化身かよ。」
声が聞こえる頻度はおおよそ3日に1度ほど。つまり隣人は週に2~3回は致しているという計算になる。それだけやりまくっていたら枯れるのも早そうだな、と食べ終わったプリンのカップをゴミ箱に投げ、歯を磨くために洗面所へと移動する。
『あっ、あぁ、もう少、し、んっ…!!』
しゃこしゃこと歯を磨きながら、明日は何をしようかとカレンダーを見た。入社式まであと2日。ここのところは新たな土地の散策で外に出ていることが多かったから、久々にマーケティングの参考書を開くのもいいかもしれない。
『ひっ、あああ!んっ!』
そういえば明日は燃えるごみの日じゃなかったか、和真は続いて机の傍のホワイトボードに目をやった。そこには入社式の案内や最寄駅の時刻表が張り付けてあり、その隅のほうに黒のマーカーでごみの日が書かれていた。
「あ、やっぱり。ごみまとめとこう。」
『あっ、まって、んぁ、あぅ!』
口をゆすぎ、ごみをまとめ、ついでに明日振り返る予定の参考書を何冊か机の上に並べて置く。時計を確認すると針はもうすぐ23時を指そうとしていた。
「さてと、寝るか。」
横になりスマートフォンのアラーム音量が最大になっていることを確認すると、ベッドボードに置いてある耳栓をする。これで眠りを妨げられることもない。
「おやすみー。」
誰にでもなく呟くと、部屋の電気を消し目を閉じた。
次の日の朝はとても清々しい天気だった。
早朝ゴミを捨てに出た和真は思わず空を見上げる。雲一つない青色で、眩しい朝日が木々の緑を照らしている。まだ少し冷たい風すら心地がいい。
「んー、気持ちいい朝だな。」
手にしていたごみを置き、グッと体を伸ばす。そのまま何度か深呼吸を繰り返していると。
ガチャリ
左から、扉の開く音が聞こえた。あの時と同じ展開に伸ばしたままの体がギクリと強張った。
このままここに居たらまたキモイって言われるな。あの時の女の言葉は地味に和真の心を抉っていた。またあの苦い思いをしないためにもと、そそくさとごみ捨てに立ち去ろうとしたその時。
「じゃあ行ってくる。……また来るから。」
聞こえてきた声に思わず足を止めてしまった。
……男の、声?
じゃあ、今この扉の向こうにいるやつが……。
「そんな顔するなよ。今度はなるべく早めに連絡するって。……じゃあね。」
ガチャン、と閉じた扉の向こうに見えた姿に和真は息を飲んだ。現れた男は同性の和真からみてもかっこいいと言えるほど、整った顔立ちの持ち主だった。
「あれ?」
こちらの存在に気付いた男が和真をみる。正面からみると黒くて優しげな瞳がハッキリとみえた。少し襟足の長いこげ茶色の髪が風に揺れている。
「隣に越してきた人?」
「は、はい。」
「そっか、ついに隣に人が入っちゃったんだ。」
男は少し困ったように笑った。その言葉と笑みを見て和真はこの男性が、女をとっかえひっかえして遊んでいる隣人なのだということを思い出した。とてもそんな風には見えないが、そうとしか考えられなかった。けれど声を掛けられた以上無視をするわけにもいかない。和真は必死に言葉を振り絞った。
「あ、俺、安藤っていいます。」
「ん?」
「隣に来たのに、中々挨拶に行けなくてすみません。その、色々あって……。」
「あはは、今時隣に挨拶とかする人もいないでしょ?」
気にしないでと笑う男に、やっぱり皆そう思うんだなと和真も少し笑った。
「はは、ですよね。」
「そうそう。それに俺、この部屋の住人じゃないしね」
「……え?」
男の口から発せられた思いがけない言葉に、男の顔を凝視してしまう。
相変わらず口元に優しげな笑みを浮かべていたが、よく見るとその瞳は笑っていないようにも感じられた。
「じゃあね。」
男はスッと目を逸らすと、そのまま和真の横を通り過ぎて行った。
残された和真は先ほどの言葉の意味を考える。男はこの部屋の住人ではないといった。じゃあこの間会った女がここの住人なのか。いや、それじゃ辻褄が合わない。先日買い物帰りに見た女もこの部屋に入っていった。女友達の可能性もない。だってその日も隣からは嬌声が響いていた。それに昨日だって……。
「一体、誰が住んでるんだ……?」
春の爽やかな風に揺られて、ごみ袋がガサリと音をたてた。