1-4
もうもうと立ち昇る土煙に咳き込みながらクノールは立ち上がった。
「げほっげほっ、ひ、ひどい目にあった」
目を落とせば地面がごっそりと抉られていた。クノールが転がった跡がまるでボーリングの左右の溝のようになっている。
おまけに撒き上がった土砂のせいでクノールの上着にズボンに頭髪まですっかり土まみれだった。
クノールは雨に濡れた犬のように全身を震わせて土をざっと払いながら周囲を見渡してみる。
自転車置き場、敷地を囲む背の高い塀、そして太陽の光を反射する白壁まぶしい立派な校舎が目に入って思わず目を細めた。
自転車の数が極端に少ないのは今日が入学式だからだろう。もしくは自転車を必要せずルーシャーのように自力で解決できる生徒が多いのか。
桜並木に掛かっている新入生を歓迎する言葉の書かれたプレートからここが高等部であることも確認できる。
間違いなく、ブランリヴァル学園の高等部だった。
「怪我の功名……って言っていいのかこれは」
エイギーに吹っ飛ばされたおかげでショートカット出来たことになるが複雑な心境だった。
そのときちょうど校舎の方がにわかに騒がしくなった。教室の扉が色々な場所で開かれる音の他にも、大勢がまとめて移動する雑踏の音が聞こえてくる。ホームルームが終わって体育館への移動が始まったのだ。
「……むう」
生徒たちが廊下を流れていくのを校舎の窓越しに眺めつつクノールは頭を掻いた。
このまま生徒たちに紛れる事は出来るだろうが、エイギーやルーシャーら友人を放って一人だけ入学式に参加するつもりはクノールには無かった。そんな心無い選択肢を選ぶくらいならそもそも屋敷からエイギーを抱えて運んでいったりせず最初から放置を決め込んでいる
「しゃあない、か」
おそらく今頃はルーシャーに引っ張られてしぶしぶながら亀のようなのんびりとした歩みで学園へと向かってきているのだろう、ならば迎えに行ってやるしかない。
慣れたものだと呟いてからクノールは一仕事やる前のように肩を回した。
ちょうどその時だった。
「きゃああああ!?」
絹を裂くような少女の悲鳴が近づいてきた。
「……お?」
右を見て、左を見て、やっと頭上から声がしていることを理解したクノールが空を見仰ぐと、雲一つない澄み切った青空の向こうから少女が一直線にクノール目掛けて落っこちて来ていた。
「た、助けてくださいーッ!」
少女が叫ぶのと同時にクノールは動いていた。
深く身を屈めて脚に力を溜めるとそれをバネにして一気に跳躍。蹴られた地面が振動し衝撃波が砂塵を巻き上げた。巨人にでも殴られたかのように揺れる地面を眼下に、クノールの巨躯は凄まじい勢いで垂直に空を昇っていく。
一秒足らずの後、クノールの体は六階建ての校舎の屋上を越える高さまで飛翔していた。
クノールは空中で交差するタイミングを見計らい少女の身体を両腕で拾い上げる。
「よいしょっと」
「きゃっ!?」
キャッチ成功。少女はお姫様抱っこみたいな体勢で上手い具合にクノールの腕の中に納まった。クノールが首を傾けて見ると、まだあどけなさの残る幼い顔がきょとんと見上げていた。蒼海色の大きな瞳が特徴的だが、クノールの記憶には無い。
クノールは、呆気にとられた顔で無言のまま見つめ上げてくる少女に軽く笑って見せた。
「大丈夫か? 怪我は無い?」
「は、はい!」
少女はびくっと身を震わせ真ん丸な瞳を驚きでさらに大きくするが、すぐに何度も首を上下に動かしてコクコクと頷きを返してきた。何故空から降って来たのかは不明だが特に怪我もしていない。
ほっと一息つくクノールだったがそこで少女の着ている服が目に入った。肩には校章、上から下まで白を基調にデザインされた制服は、エイギーやルーシャーの着ていた制服とサイズこそ違えどまったく同じものである。
自分と同じ学年の生徒と知りクノールは驚いたが、ちょうど上昇が終わって落下し始めていたので聞くのは止めておいた。
「ちょっと揺れるから気を付けてくれ」
言いながら周囲を見渡すが校舎からは離れている。できれば校舎の壁を使って減速したかったがこのまま着地するしかないらしい。
クノールがそう思って負担を減らすために少女を抱きかかえなおした時だった。
「わ、わたしに任せてください!」
少女が急にもぞもぞとクノールの腕の中で動き出した。
「おい!? 危ないから動くんじゃない」
「大丈夫です! 任せてください!」
そして少女は懐から何かを取り出した。どこに隠し持っていたのか、小さな水筒のような形状の黒い筒を高々と掲げて見せる。
「この『アザムツ』は破壊することで一時的に周囲の動きを軽減することが出来るんです! 本来は相手を取り押さえたりするためのものですが落下速度を軽減することも出来るはずです!」
言うが早いか少女はクノールの腕の隙間から手を伸ばし、手首のスナップを利かせてその黒い筒を真下に向けて放り投げた。
「おお、その黒い筒にそんな便利な機能があるのか」
「へ? 黒い筒? あーッ!? 間違えましたーッ!!」
「え?」
少女が絶叫した直後、真下で地面にぶつかった黒い筒が割れて閃光が瞬いた。
咄嗟にクノールが少女を強く抱きかかえなおすのと同時に下方向からの爆発が二人を再度空中に吹き飛ばし、校舎の窓が衝撃波にびりびりと揺れた。
数秒の浮遊感、やがて地面に落ちたクノールは背中をしたたかに打ち付けゴロゴロと数度転がって止まった。
少女がもぞもぞとクノールの腕の間から顔を出すと、ぷはっと大きく息を吸った。
「ふう、さっきの黒い筒は『ディープ・ログ』です。着弾地点で大爆発を起こすニクい奴なんですよ」
「言いたい事はそれだけか?」
「えっと、あの、落下速度が爆発で相殺できたみたいですし、結果オーライ……なんてダメですかね?」
「ダメに決まってんだろうが! こちとら朝から三度目の爆発だぞ! そんなポンポン空を飛ぶ趣味は俺には無いよ!」
「ひぃっ! す、すいませんでした!」
「ったく」
クノールが少女を離して立ち上がり自分の身体をはたいて砂を落としていくと、遅れて少女も立ち上がってローファーの爪先を地面にトントンして履き直しながらきびきびとスカートや袖を直していく。
「ところで怪我は無いか?」
「はい! 全然平気です……えー、と」
「クノール・エイギルだ、よろしく。そっちは?」
「ルナツ……いえ! サラ・ビンソンです。サラと呼んでください! その、さっきはすいませんでした……」
深々とお辞儀するサラに、クノールは苦笑してみせた。
「いいよ、もう終わったことだし、身体は頑丈な方なんでね」
クノールが右腕を曲げて力こぶを作って見せると、サラは目を輝かせて「お~」と声を漏らした。
「凄いですね、公宮の衛兵さんたちみたいです」
「はは、そう褒めてくれると悪い気はしないな。お世辞でも嬉しいよ」
しかし、サラは首をぶんぶんと横に振って否定した。
「いえ、お世辞なんかじゃありません! 特にあの凄いジャンプを見たら分かります!」
凄いジャンプってのはサラを受け止める時のアレだろう。
サラは鼻息も荒く興奮した様子で言葉を続ける。
「あれは強化魔法を使ったんですよね? あれだけの強化倍率を叩き出せる魔法使いはレーテム公国内にもほとんどいません! 実はクノールって凄い魔法使いだったりします?」
「あー、何か勘違いさせてすまないけど、俺は魔法っていうと二種類しか使えない落ちこぼれなんだわ」
「え? でも……」
目を丸くするサラにクノールは説明する。
「ペガサスっているだろう? 馬なのに鳥のような翼が生えてるやつ。でも明らかに一メートルかそこらの翼で飛べるほど馬の体重は軽くない。さて、ならどうやって空を飛んでいるのか?」
問うように言うと、サラが言葉を続けるように答えた。
「飛行魔法を使ってる、ですよね? ペガサスの他にもドラゴンやガルーダなどの大鳥も飛行する際に補助として魔法を使っています、みんな知ってることです」
そう、サラの言う通りこの世界ではありとあらゆる生物が魔法を扱うことが出来るし、それは周知の事実であった。
ここグリーシス大陸にはマナと呼ばれる魔法の源となる元素が満ちており、そこに住まう者たちは必然的にマナを体内に取り込みながら生活している。生存に便利な物があれば徹底的に活用するのが生物である以上、進化の方向性の一形態としてマナを消費して魔法を扱えるようになった生物が多数存在するのも必然といえるだろう。
クノールはサラに頷いた。
「そう、ペガサスは飛行魔法で空を飛んでいる。でもドラゴンのような高度な知性は持っていない、先祖代々受け継がれてきた能力を本能的に使用してるだけだ」
そこまで言ったところでサラも察したらしく真面目な顔になる。
「聞いたことがあります。ペガサスなど高度な知性を持たない野生動物は骨や肉や皮に血液、自分の肉体そのものを魔法回路としているために互換性を失っており単一の魔法しか扱えないと。まさかクノールも?」
「ご明察、何の因果か知らないけど俺も同じ性質らしい。まあ魔法は二種類しか使えないけど効果は見ての通り強力だから実技で赤点だけは避けれてる」
冗談交じりに笑って見せると、サラは少し戸惑いながらも笑い返してきた。きっと触れてはいけないものに触れてしまったと思ったのだろう。当のクノールが気にしていないのは事実なのでそういうことで落ち込まれると逆に困ってしまうが、気遣ってくれるサラにクノールは少しだけ好感を覚えた。
「そういえばサラも新入生か? 高等部の制服を着てるし」
話題逸らしついでに聞くと、サラは頷きを返し、
「は、はい、高等部の新入生です。クノールも同じ、ですよね?」
そう言って制服を見せるように自分のスカートの両端を摘んで軽く持ち上げて笑ってみせた。
クノールもサラと同じように前後の長さもマチマチなネクタイを掴んで見せながら頷く。
「そう、俺も新入生。そして俺たちは揃って遅刻なわけだ」
「遅刻? はっ!? そうです入学式の事を忘れてました!」
急にわたわたしだすサラに、クノールは苦笑した。
「今からでも体育館に直接行けば間に合うよ。俺は付いていけないけど、多分ここからだと体育館は校舎の裏側にあると思うから」
空から見下ろしていた時に見えた、とは言わない。
「クノールは来ないんですか?」
「幼馴染がまだ来ていないんだ。迎えに戻らないと」
「そう、ですか」
サラは落ち込んだように小さく肩を落とした。
一人だと心細いのだろう、そんな姿を見ていると何かしてやりたくなってくるがクノールには何もできない。何か気の利いた言葉は無いかとクノールが頭を掻きながら空を仰ぎ見ていると、急にサラが声を上げた。
「あ、あの! わたしもクノールに付いて行っていいですか?」
「俺に? 別にいいけど、なんで?」
「実はわたしも友人と途中ではぐれてしまいまして、校門脇で来るのを待っていたのですが、そこで不良にカツアゲを食らっちゃいまして」
「不良にカツアゲ!? 入学式の日に!?」
「はい、でも気づいたら何故か空を舞ってまして、不良たちもどこかに行っちゃったみたいで……きやーっ!?」
きょろきょろと周囲を見ていたサラが何かを見つけたらしく急に悲鳴を上げた。
「忘れてました! わたしの作品たち……はぅわっ!」
急に駆けだしたサラの身体がぐらりと傾いた。地面の凹凸にローファーの爪先を引っ掛けたのだ。
サラは両手を上げてばたばたと必死にバランスを取っている。
「あ、あわわっ」
「おっと」
クノールが後ろから手を掴んで引っ張り上げると、サラの小さな身体は簡単に持ち上がった。
両足をぷらんぷらんさせるサラをそのままゆっくりと下ろしてやると、サラはふうと安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます、クノール!」
振り返ったサラはまるで満開の花のような明るい笑顔を浮かべていた。
思わずクノールはその笑顔に見とれてしまった。
いや、そもそも気にしていなかったが、サラは結構な美人だった。
肌はきめ細かく血色豊かで、流れるような鼻梁に桃色の柔らかそうな唇、目鼻立ちに輪郭など構成する部位そのものの美しさもさることながらそれらが均整よく配置されている。そしてくりくりと人懐っこそうに見上げてくる蒼海色の瞳が美しく、見ているだけで吸い込まれそうになってしまうくらいだった。
「どうかしましたか? クノール」
「い、いや、なんでもないよ。それよりいきなり走り出してどうしたんだ」
現実に引き戻されたクノールが慌てて話を逸らすと、はっとサラは地面の方に視線を移した。
そしてサラは慌てて再度走り出す。かと思ったらすぐにしゃがみこんで地面から何かを拾い上げた。
「ああーッ!! わたしのトライ・アーエズ!!」
「トライ・アーエズ?」
見てみると、サラの手のひらに鈍色の金属光沢が眩しい金属筒があった。
サラはがっくしと肩を落としてため息を吐いた。
「後方が潰れてます……これじゃあ飛翔装置が作動するかどうか」
サラはしょんぼりと顔を伏せるが、そこで「はうっ!?」と声を上げた。
クノールも気が付かなかったが周囲には似たような用途不明の物品が散らかっていた。
「もしかして、これ全部?」
「はい、わたしの作品、素敵アイテムたちです」
「素敵アイテム……」
そのネーミングセンスはともかく、もしや地面に叩き付けて吹っ飛ばされる羽目になったアレもサラの言う素敵アイテムの一つだったのだろうか。
クノールが渋い顔でいると、サラは意気消沈という体でふらふらと物品を拾い始めた。
さすがに見ているだけではいられず、クノールはサラと同じように落ちている足元の物品を拾い始めた。
「俺も手伝うよ、いいかい?」
「ありがとうございます。でもいいんですか? 幼馴染の方が待ってると」
「大丈夫だろ。どうせもう遅刻なんだし」
そう言ってクノールが笑うと、サラも少し困ったように笑い返してきた。
物品は結構な範囲に飛び散らかっていたので自然と二人は間隔を開けて集めることになった。
ただ一概に物品と言っても色々なものがあってクノールは拾うたびに用途不明の品に首を傾げた。
金属筒の他にも歯車やら手榴弾のピンのような物やら金属片の円盤やら、果ては割れた水風船となぜか青緑色の汁で濡れた地面ときた。
色々と不思議かつ珍妙な物品を拾いつつ、クノールはサラに尋ねてみた。
「そういや、サラはどこから来たんだ?」
ある種の確信を持っての質問だった。サラは何というか、ロッドベルの住民という雰囲気ではない。
「わたし公都ガン・ダウムの生まれでして、中学も公都の方に通っていました」
「そっか、公都の人か」
クノールは納得した。
公都ガン・ダウムはレーテム公国の首都であり最も古くから存在する都市でもある。ゆえに、ロッドベルと違って格式やマナーを重んじる傾向があった。
こうやって話している時も感じるが、サラは立ち居振る舞いとか一つ一つの所作に優雅というか気品があるのだ。
ガン・ダウムの学校では格式立ったマナーや紳士淑女の振る舞いも授業として取り入れられていると聞くのでおそらくはそれのせいだろう。
「そうなんです。わたしは生まれも育ちもガン・ダウム、生粋の都会っ子なんです。でもロッドベルに来て驚きました」
「もっと田舎だと思ってた?」
からかうように聞いてみるとサラは首を横にぶんぶんと振って真面目な顔をした。
「違います! ロッドベルは活気に溢れていると聞いていたのですけれどそれが予想以上で圧倒されたんです。わたしは昨日の夕方過ぎくらいにロッドベルへと着いたのですが、酒場や飲食店、市場、河川港、目に入るすべての場所が様々な種族の方たちで埋め尽くされるほど賑わっていて驚きました。それに皆さんは日々の暮らしや仕事に充実感を感じているようでとてもいい表情の方たちばかりだったんです。これは凄いことです」
「そ、そうなんだ」
迫力に押されてしまい驚くクノールだが街の事を褒められるのは素直に嬉しかった。
ただ自分の住んでいる街を他の街の住人から褒められる経験なんてあまりないので面と向かって褒められると何だか自分の事のようでむず痒かった。
その後、二、三ほど言葉を交わしたが思ったより早く物品を拾い集められ、話は自然と打ち切られた。
「こんなんでいいか」
「はい、ありがとうございます」
手渡すと、サラは顔を上げてにっこりと笑った。
そのままサラは渡された物品を自分のスカートのポケットや上着の内側に綺麗に仕舞い込んだ。片手では収まらないくらいの量があったはずだがサラの外見はまったくと言っていいほど変わっていなかった。
「さて、と。そろそろ行かないとな、サラも来るんだろ?」
「はい! 一緒に行きます!」
サラは嬉しそうに言うと先導するように前に立って歩き始める。クノールもつられて笑うがふと気になってサラに声を掛けた。
「そういやサラはさっき言っていた友人ってのと一緒にロッドベルに来ているのか?」
「はい、公都からこっちまで友人と一緒に来ました。彼女もブランリヴァル学園の新入生なんですよ」
「そうなんだ」
彼女、と聞いてクノールはサラと同じくらいの少女を想像する。ロッドベルの治安は良い方だが良からぬ事を企む輩が少なからずいるのでクノールも少しだけ心配するが、続くサラの言葉はそんな心配を吹き飛ばした。
「凄いですよー彼女は、素手でリンゴを握り潰しますし、背丈もクノールくらいありますし、体当たりで盗賊の全身の骨を砕きまくったり、食堂のご飯を一人で全部平らげたりしました」
「……凄い人なんだな、いや人なのかソイツ?」
「さあ? どうでしょう」
サラの棒読みが二人の関係性を物語っていた。
しかし、それはクノールとエイギーの関係とも取れるもので、クノールは一発でサラの苦労が身に染みて理解できてしまった。
「サラも苦労してるんだな……」
何だかやるせなくなってクノールはしみじみと空を見上げた。
クノールの瞳には青空を背景に浮かぶエイギーの無愛想な顔が見えたような気がした。
ただ幻視したら幻視したで眺めているとなんだか脱力してくる面なのは困り物である。
「まあ、探すのはそんなに難しくはありませんよ。いつもすっごくうるさいですから」
「うるさい? そりゃまたいったいどういう……」
言いかけてクノールは視線を校門の方へと向けた。
そちらの方から何か聞こえたような気がしたのだ。
「クノール? どうしました?」
「いや、何か聞こえたような」
返事をしているうちに幻聴でもなく確かに音が聞こえてきた。それも徐々に大きくなっている。どうやら音がクノールたちの方へと近づいてきているようだった。
音が大きくなるにつれて、ただの雑音としてしか捉えられなかった音は徐々に輪郭をつくり一種のメロディを形作り始めた。
勇壮かつ格式立って引き締まった曲調、それはレーテム公国に住む市民ならば誰しも一度は聞いたことがある有名な曲で――、
「レーテム軍歌?」
場末の食堂や運動会の一幕で流れていた曲の記憶を掘り起こしながらクノールが怪訝に眉をひそめていると、隣のサラがなぜか額を押さえて俯いていた。
「すいません、おそらく今近づいて来ているのが件の話に出てきたわたしの友人です」
サラのセリフが終わるか終わらないかというタイミングで、迫りつつあった音がとうとう校門に続く塀の向こうから躍り出てきた。
ヴランリヴァルの制服マントをはためかせ、頭の後ろで一つに纏めた銀色のポニーテールを揺らすのは凛々しく引き締まった顔に燃え盛るような緋色の瞳を輝かせる人間族の女性。おそらくはサラの友人とやらなのだろう、サラの言う通りクノールとほぼ同じ二メートルあるかないかの並外れた身長である。
その女性は腰に下げた魔導機から雪崩のような大音量の行進曲を掻き鳴らし、校門の角から飛び出してきた勢いをそのままに駿馬の如き健脚でクノールたち目掛けて駆け出して来て、
「見つけたぞ! 姫様をさらった賊め!!」
なんてギラギラと殺気立った眼光を放ちつつ怒号を迸らせている。
こんな手合いを前に慌てない奴がいたら逆に見てみたかった。
だが、こんなときだというのにクノールはさっきまで空に浮かんでいたエイギーの顔を思い出す。
あの幼馴染ならたぶん、こんな事態に遭遇しても平然としていただろう。
きっと、たぶん、いや絶対に。
クノールはそれだけは確信を持って答えられるのだった。