1-1
まだ肌寒い空気が漂う春先の明け方。
カーテンの亜麻布を透過して届いてくる朝日の眩しさにクノール・エイギルは目を覚ました。
「ん、うぅ……」
低く唸りながら億劫に薄く瞼を持ち上げると、天井の木目がぼんやりと見える。
クノールは枕に沈んだ頭を傾けて周囲を何とは無しに見回した。
教科書が無造作に積まれた古びた学習机、幅広の洋服タンス、閉じ切ったクローゼット。
外では鳥のさえずりが騒がしく、次々に雨戸を開ける音が起床した人らの発する生活音として遠くに聞こえてくる。
いつもの早朝、代わり映えしない自分の部屋。
当然だ。前日の寝場所が自室のベッドの上なら寝ている間に拉致でもされないかぎり見知らぬ森の中で目を覚ますようなことは無いはずだ。
「……いや、一度あったな。確か、中学の時に寝起きドッキリで」
まだ中学生のとき、クラスメイトの某女子の手によって寝ている間にベッドごと飛竜で連れ去られて隣国の山間部に寝間着のまま放置された事があった。たぶん女子に対して本気の殺意を抱いたのはクノールの人生で後にも先にもあの一回だけだろう。
夢うつつに過去の記憶をほじくり返すクノールだったがそこで急にハッとする。
「そういや、今日は入学式だっけ……ふあぁ」
込み上げてきたアクビを噛み殺しながら目を向ける。
部屋の出入り口であるドア脇には外套掛けがあった。中央のポールから長めのフックが突き出ている形状でさながらサボテンのようである。そこにはクノールの上着がいくつもぞんざいに引っ掛けられている。上着はどれも巨大で、平均的な背丈の高校男子が着ろうものなら大きすぎてブカブカになるだろうが、クノールにはその大きさでちょうどいいのだ。
なぜならクノールの身長は二メートルちょい、体格は肩幅も広くがっしりとした筋肉質。当然、着ている服のサイズも規格外になるのだ。
そんな大き目の上着が引っ掛けられたフックの一つに、他とは趣が違うものが掛かっていた。
ハンガーに掛かるように丁寧に畳まれた上着とズボン、そして肩掛けのマント。すべて朝日に映える純白の生地で織られている。
これらはブランリヴァル学園高等部の学生服一式であった。
試し着で数度袖を通しただけの新品同然の学生服は、しかし確かな存在感でそこにある。それを見ていると言葉に表せない感慨が込み上げてきてクノールはベッドの上で感じ入るように呟いた。
「高校生、高校生か。やっと実感が出てきた感じだなぁ」
しみじみとうなずく。
天井近くの壁掛け時計に目を移せば時刻は朝の六時を少し過ぎたくらいで入学式には二時間以上余裕があった。
いつもなら布団を被り直して惰眠を貪るところだが入学式の控えている今日はそうもいかない。
新たな一歩を踏み出すのだから心機一転して殊勝に構えるくらいがちょうどいいのだ。
そう思うと眠気も消えてきてクノールは自分の手のひらと手のひらをベッドの上で強く打ち合わせて気合を入れた。
「よし! 起きるか!」
クノールはベッドの上で一気に身体を起こす。
だがこのとき気が付くべきだった。
クノールのお腹の上、布団の内側に『何か』が潜んでいることに。
それは微かに動いて息づいていたが、クノールの頑丈な身体はその存在に気付かず腹筋を使って易々と上体を起こした。
結果、水平から垂直へと変わったクノールの腹の上に居続けることが出来なくなったその『何か』が布団を巻き込みながらごろりとクノールの上から転がり落ちた。
――ぽふっ。
「……え?」
思わずベッドの上に視線を落とし、そこでクノールは固まった。
クノールの両脚の間にすっぽり収まるように一人のパジャマ姿の少女が布団に丸まって静かな寝息を立てていた。
いや、一人という言い方は間違いだろう。
なんせその顔色は人間ではありえないほど白く、おまけに頬には薄っすらと鱗が浮かんでいる。
極めつけは少女のお尻から伸びる太い尻尾。パジャマのズボンのお尻部分に開けられた穴から出てきているその太い尻尾は、モフモフの毛で覆われた獣の尻尾ではなく、爬虫類のように硬い鱗と外皮で表面が覆われていた。
鱗と尻尾。どちらも人間族ではなく、地竜族と呼ばれるドラゴン系統の派生種族の特徴であった。
しかしクノールは特に取り乱さなかった。むしろ得心いって平静を取り戻したくらいだった。
「エ、エイギーか……まったく、また寝ぼけて部屋を間違えたな?」
クノールはどっと疲れて脱力した。
少女の名はエイギー・ドロイワ。クノールの幼馴染である。
現在は訳あって同じ屋敷に住んでいるので間違って部屋を間違えてしまったのだろう。すでにこれまでに何度、いや何十度とその困った『間違い』を体験してきたクノールは慣れたものであった。すうすうと寝息を立てるエイギーの容姿は種族の異なるクノールから見ても可愛い部類に入る。しかしそれに戸惑うことなくエイギーの肩に手を伸ばすと身体を小さく揺すった。
「おーい、エイギー? 起きろ、朝だぞー?」
揺すりながら小声で話し掛ける。
しかしエイギーは熟睡しているようで前後に揺さぶられるまま寝息を立て続けているだけだ。
クノールは困ってしまった。この幼馴染はどうにも朝に弱い、正確には気温が低いと変温動物の爬虫類と同じように活動が鈍るきらいがある。
どうしたものかと首を捻るクノールだったが、幼馴染の身体に目を落としてぎょっと固まった。
エイギーは仰向けになっているのだが呼吸に合わせて上下する胸のあたり、パジャマの前を止めるボタンが上から順に三個ほど外れていた。エイギーは肌着を着ていないのかおかげで透き通るような白い首筋までくっきりと見える。そして抱きしめる布団の下には胸元のふくらみがちょっぴり覗き見えつつあった。
「…………」
クノールはごくりと唾を飲んだ。もう朝のまどろんだ気分なんて欠片も残っちゃいない。
不意に、エイギーがかすかに寝返りを打った。その拍子で胸元を隠していた布団が少しだけずれる。
ふにふにと思わず撫でたくなる柔らかそうなお腹が露になり、そして胸の双丘の下半分が、差し込む朝日の下で小さく揺れた。
思わずクノールは目を逸らした。
このアクシデントは正直ちょっぴり、いやかなり嬉しいアクシデントだったが、本人の意識が無いのを良い事に眼福至極と一人喜べるような神経はしていない。
「ったく、しゃあないな」
取り繕うように一人でコホンと息を吐く。
起きないエイギーに代わってクノールはエイギーのパジャマのボタンに指を伸ばす、が――
「何をしているクノ?」
心臓が口から飛び出さんばかりに驚いた。
弾かれたように勢いよく顔を持ち上げると、いつの間に目を覚ましたのかエイギーの深緑色の瞳がクノールを見据えていた。
「いや、別に何も?」
内心の驚きを隠して咄嗟にウソを吐くクノール。
しかし言い終わると同時にエイギーが言葉を返してきた。
「ならば何故、私のパジャマのボタンを外している?」
「……あっ」
クノールの指はまだエイギーのパジャマのボタンを掴んだままだった。
ベッドの上で、女子のパジャマのボタンに手を掛けた男子。おまけにパジャマは上から三つボタンが外れていて肌が見えている。このシチュエーションはどう考えても現行犯逮捕レベルに言い逃れが出来ない。
エイギーは仰向けで布団を抱いた格好のまま微動だにせず無表情な顔をにクノールに向けてくる。
クノールは頭が真っ白になった。
「ち、違うんだ。俺は外れていたボタンを元に戻そうと……」
クノールは慌ててエイギーのパジャマのボタンから手を離した。
しかし払うように左右に腕を退かしたせいで指先がエイギーの胸を覆っていた布団に引っかかった。
あっと思うが時すでに遅く、エイギーの胸を隠していた布団があっけなく取り除かれる。
クノールの眼下に、桃源郷が広がった。
「ギルティ」
エイギーが仰向けのまま宣告する。
それと同時、ベッドの周囲に緑色の燐光が舞い始めた。励起状態になった空気中のマナが発する魔力光である。
吹きすさぶ砂塵の粒をすべて蛍に代えたかのような細かな粒子の輝きはベッドの上のエイギーとクノールの間に幾何学的な模様――魔法陣を描いていく。
荒ぶる魔力光が統制された緻密な動きで魔法陣を描き終えるまでわずか一秒足らず、クノールは翻弄されるばかりで何もできなかった。
「魔王びーむ」
そしてエイギーの一言をトリガーに魔法陣が起動。限界まで圧縮された魔力が戒めから解き放たれた。
指向性を持った膨大な魔力が衝撃となってクノールに襲い掛かる。その巨体は下から突き上げられるように一瞬で窓を突き破り遥か空高くまで吹っ飛ばされた。
「ぬわーっ!?」
砲弾のような勢いで吹っ飛ばされたクノールは間抜けな絶叫の尾を引きながらそのまま空の彼方へと消えていったのだった。
――さて一方のエイギーはというと、クノールの姿が青空の向こうに消えるまでしっかりと見送った後、パジャマのボタンを留め直すと初めから何事も無かったかのように布団に丸まり瞼を閉じた。
エイギーの生活リズムは平時用に最適化されており、この時間帯はまだ夢の中にいる時間なのだ。起床時間を変えられる相手がいるとしたらそれは気温を調整するお天道様くらいのものである。
しばらくして、窓枠が無くなってただの風の通り穴となった窓の外からざわざわと近隣住民たちの慌てる声が聞こえてきた。
「んあーッ!? 何だべ今の爆発はぁ!?」
「魔女さん宅から、だよな?」
「なんだ、いつものか」
朝早くからの爆発音に驚いたのだろうご近所さんのざわめきが屋敷の塀向こうに集まってきている。
そこには人間以外の種族もいるのだろう。
馬が二足歩行してるような外見の種族や、下半身が蛇とか、腕の代わりに翼が生えているとか、そもそも性別すら分からないタコやイカのような軟体生物とか。
でも今のエイギーにはどうでもいいことだった。もう睡魔はすぐそこまで来ているのだから。
まだ暖かなクノールの体温を感じる布団に顔をうずめ、しかしそこでふと何かを思いついたようにクノールの枕に腕を伸ばした。
やや大きめの枕を胸に抱き寄せると、エイギーはそっと自分の鼻先を枕に押し付けた。
人間よりも鋭敏な嗅覚がそこに残留する様々な匂いの情報を伝えてくる。
少し酸っぱいような汗の匂い、それと一緒に嗅ぎなれた香りが鼻腔に広がってくる。
自分ではない、他者の匂い。
この部屋の主で、クラスメイトで、幼馴染で、ずっとずっと昔の頃から一緒にいるクノールの匂い。
それは何よりも心地良いもので、穏やかなまどろみの中エイギーは眠りに落ちていった。
全壊の窓から涼やかな風と朝日が入り込んできて鱗の浮かぶ白い頬を撫でていくが瞳は閉じられたまま開く気配も無い。
エイギー・ドロイワの一日が始まるのは、もう少し後のことだった。