第八話 想う気持ちと追いつかない気持ち
「……ん」
身じろいでシェスカはぼんやりと目が覚めて、寝具の手触りの良さに『自室ではない』と、ぞっとして飛び起きた。
ふかふかの寝台。まったく見覚えがない、知らない部屋。
布団の中には、温めた石を布で巻いて暖を取る温石まであり。
「あっ」
なぜ自分が知らない部屋にいるのかを思い出し、慌てて寝台から降りて続き部屋への扉を開け、暖炉の前の長椅子で毛布に包まって寝ていたヴィルを見つけて――。
「ごめんなさいっ!」
「ぅわ! と、あ? ああ、あ?」
突然の大声での謝罪で起こされたヴィルは寝起きの混乱の中、床に座り込んで自分を見上げているシェスカを見てぼうっとしつつも朝の挨拶をした。
「ああ、おはよう。眠れましたか?」
「あ、うん。おはよう。ごめんなさい、ベッド取っちゃって」
「いいですよ。寒くもなかったですし」
「ほんとに? ベッドでヴィルさん寝ていて良かったのに。風邪引いてない?」
シェスカはヴィルが寝冷えをしていないかと、気に病んで申し訳なさそうにそう言った。
言われたヴィルは、そっと天井を見上げて、なんだか無性に泥のように苦い珈琲が飲みたくなった。
***
カフツール領の北側に位置するアルザ町にある子爵の館では、豪奢な銀の巻毛の美女と、ぱっちりとした目の面立ちが似ている愛らしい兄妹が、館内にある転移用の部屋で雇いの魔法師が術の準備を終えるのを待っていた。
銀の巻毛の美女―― アスティリアは、薄く加工したべっ甲の扇をぎゅっと握りしめ。
「ふふふ。今度こそ逃げ隠れさせないわ……」仲人夫人の名に懸けて「淡白弟の縁談! 必ずまとめてみせるわ」
仲人の勝率、9割8分6厘。まとめられなかった縁談の数イコール弟のヴィルブラインがうやむやにかわした数、であった。
今度こそ!!と意気込み高く「ふふふふふ、うふふふふ」と笑う母を見て。
「おにいちゃま、おかあさまへん?」
5つになったばかりの妹に聞かれた兄は。
「うん。そっとしておこうね」
と、9歳ながらに達観して言った。
居合わせた雇われ魔法師は、自身の立場をわきまえ。
「奥方様、転移の支度が整いました」
と、業務内容だけを口にした。
***
シェスカは一生懸命に頭の中でメモを取る。
ヴィルの実家であるカフツール領伯の屋敷の食堂には、彼の親族がたくさんいた。
兄弟が多いのは聞いてはいたのだが。
(えーと、ヴォルフラム伯にチェチーリア様、長男のオスヴァルト様、次男のクルト様、長女のクリスティアーネ伯爵夫人。で次女のアスティリア子爵夫人。で、三男のヴィルさんでしょ? 四男はエルフォンスさん―― 様で、三女のカルティアーナ姫は隣国に嫁いだから不在で。五男がヴォルリウス様……あ、だめ、兄弟の家族の名前がこんがらがってきたわ……)
10歳のヴォルリウスとヴィル以外、全員が既婚者で家族連れなのだ。
シェスカを入れて『家族の食堂』には今、大人と子供合わせて25人の人がいる。
一度だけの紹介では名前を覚えられそうにない。
必死に名前を覚えようとしているシェスカを、不躾にならない程度に観察している人物が1人、アスティリアである。
(女性というよりは、まだ女の子ね。大家の子供って男の子だと思っていたのに)
エルフォンスがきちんと伝えてくれていたら、事前調査を行っていたというのに。
(話した感じだと子供嫌いではないようだから)
アスティリアは上品に食後のお茶を飲みながら、頭をありったけ回転させた。もちろん大家の子供が今作戦の障害に成り得るかどうか、にだ。
今回はタイプが違うお見合い候補を3人、明日の夜会に招待している。ヴィルの反応を見て相手を決定するつもりでいる。
背筋を正して座っているこの少女が『障害』となれば早急に手を打たねばならない。
(そうでなければ、まあ、どうせ三男ですし)
考えごとに耽っていると、アスティリアの息子、ウルリヒが。
「お母さま、モニカがむずかってきています。子どもべやにいってもよろしいですか?」
言われ、娘を見る。1時間以上大人しく席についていたのだ、もう限界だろう。
他の子供たちも足をぶらぶらさせ始めたりしている。
「お父様、子供たちは下がらせても宜しいかしら?」
ああ、遊んでおいでと、ヴォルフラムは孫たちに微笑む。
ぱあっと顔を明るくしてモニカが席を立つ。退屈なだけの昼食会からやっと解放されるのだから、嬉しくてしかたがない。
10歳以下の子供たちを侍女が子供部屋へと連れ出していく。
モニカは兄に手を引かれながら、シェスカの傍で立ち止まりじっと見上げた。
気付いたシェスカは体をかがめて子供に視線を合わせ聞く。
「どうしたの?」
「おねえちゃまはいかないの?」とモニカはもじもじしながら言う。
そのやり取りを聞いていたアスティリアは、愛娘を褒め称えたくなった。
「ほほほ」品良く笑い「初めての方だから遊んで下さるか気になるのね。ねぇシェスカさん? 宜しければ絵本でも読んでやってくださいな」
小首を傾げて、内心の思惑は微塵にも出さずに微笑む。
シェスカは少し戸惑うが、遊んでくれる? と期待の眼差しを向けているモニカに、にっこり笑って言う。
「おねえちゃんと一緒に遊んでくれる?」
「はい!」
ぎゅっとスカートを掴んできた幼い少女の髪を撫でながら、シェスカはヴィルを見る。
「いいかな?」
「僕も付き合いますよ。甥たちに会うのも久しぶりですし。ヴォルリウスも行きましょうか?」
仕方ないなという顔でヴィルは答え、それならと、一番下の弟に声を掛けた。
ほとんど会ったことのない兄弟は、それでも手をつないでシェスカたちと食堂を出る。
彼らを見送った後、アスティリアは。
「わたくしも様子を見いきますわね」
と席を立つ。
残った年上組の子供たちは。
「アスティリア叔母様まだあきらめてない様ね、ヴィル叔父様の結婚」
「今回も逃げるにコース金貨10枚賭けるよ」
「じゃあ僕は15枚。でもさっきの子って平民でしょ? わざわざ子供使って探らなくてもいいんじゃないかな?」
「エル叔父様が呼んだのでしょう? たしか、怪我をさせてしまってお礼とか言っていましたわよ。そうね、なら私は逃げるに20枚」
孫たちのそんなやり取りを聞いて、ヴォルフラムは。
「全員が逃げるに賭けたら賭けが成立しないだろう」
甥と姪に結婚するかどうかを賭けられている息子を思い―― ちょっと可哀想になった。
***
子供部屋はかなり広く作られている。
次々に増える孫たちの為にチェチーリアが用意させた絵本やおもちゃ、滑り台などがあり続き部屋は昼寝用に整えられている。
ひとしきり遊んだ子供たちは、すやすやと午睡を楽しんでいた。
(子供好きではあるのね)
アスティリアは観察していた少女について、そう評し。
(そういえば『遊んであげる』じゃなくて『遊んでくれる?』だったわね)
そういう言い方のほうが子供は実は喜ぶのだ。対自分ではなく、対誰か、のほうが大人に見られているようで嬉しいらしい。
(なるほど、話す相手の事をちゃんと考えているのね)
話す時も目線を合わせていた。
媚や妬みなくアスティリアの容姿を綺麗だとも言っていた。
(裏のない称賛は気持ちがいいわね、素直な子なのね)
「やだ、良い子ね」
侍女が運んできたお茶を飲みながら言う。
同じテーブルに着いているヴィルとシェスカは、聞こえた声に目を向ける。
「何でもないわ。ビスケットはいかが? ここの菓子職人の自慢の品よ」
と、シェスカへビスケットを勧める。
「専属のお菓子職人がいるのですか?」
目を丸くしている様子は可愛らしい。16歳といえば人妻になっていてもおかしくないというのに、まだまだ子供のようだ。
「いるわよ。それよりシェスカさんは16だったわね? 婚約はしてらっしゃるの?」
もう、さらっと聞いてみた。
「趣味なのは知っていますが、誰かれ構わずに見合いを勧めるのはどうかと思いますよ?」
シェスカに聞いたはずなのに、ヴィルがそう答える。
「あら? とても感謝されていることよ? ―― その年齢なら話くらいはあるのじゃない?」
「いえ、そういう話はまだ」
「そう。慕っている方もいないのかしら?」
え? っと、シェスカは少し頬を染めて。
「い、いません、まだ、そんな――」落ち着きなく答える。
シェスカの答えにアスティリアはちらっと弟を盗み見る。敵情視察は些細な事からこつこつと、である。
(なるほどね)
一瞬だけ視線を向けた弟は、わかり難い微妙な表情で紅茶を飲んでいた。
子供の遊び相手をしていたはずなのに、いつの間にかアスティリアとシェスカの、というよりも姉が恋愛話に持っていってしまった。
女性2人のそういう話の中では、男1人はただひたすら居ずらかった。
女性の恋愛観はよくわからない。綺麗に飾られた菓子を見て『かわいい~。おいしそう~』と、可愛いと美味しそうが同義語になっているのが理解できない事と似ている気もする。
どちらにしても、居ずらい事に変わりはないのだが。
アスティリアがふと、思い出したかのように話を変えた。
「それはそうと、シェスカさんあなた、タルズ元帥が贈ったドレス以外は持っているの?」
「え? いえ、持っていません」
いちおう持っていた服の中で一番仕立ての良い物を着てはいるが、やはり貴族の着る服とは違う。
清潔にしているだけでは駄目なのだろうか? と視線が下を向きそうになる。
そんなシェスカの様子もしっかりと観察して。
「明日には他の招待客もいらっしゃるから、その格好では小間使いに間違えられます。時間はあるわね? あたくしの子供の頃の衣装がまだありますから、いらっしゃい」
「え、でも――」
「ヴィル、シェスカさんお借りしますわよ。あら何? 女性の装いについて意見がおあり? こういう事はあなたわからないでしょう。衣裳部屋に行くのだから付いてきては駄目よ」
アスティリアはヴィルに対し言いつけた後、シェスカに向き直り。
「おしゃれはね女の特権よ。こんな機会もうないと思うのなら遠慮せずに、うんっと楽しみなさい」
そう笑って言うアスティリアに、シェスカは断る理由も見つからず。又、彼女の言う通りそれなりの身なりをしなくてはいけないのだろうと考え、こくりと頷いた
「はい。ありがとうございます。じゃあ、ヴィルさん行って来るね?」
ヴィルは嬉しそうなシェスカの顔に、笑って返す。
「……はい。いってらっしゃい。姉上、子供たちは侍女に任せていても?」
「ええ、お願いするわ。じゃあシェスカさん、いらっしゃい」
感嘆のため息を、この館に着いてから何度ついただろう?
アスティリアに連れられて来た衣裳部屋は、ドレスはもちろん靴に帽子や手袋にリボンや首飾りなどの装飾品など、色とりどりのきらびやかな品々が収められていた。
シェスカはそっと近くにあったドレスを触る。金糸の刺繍が見事だった。
巧い――。職業柄そんな事を思っていると。
「ああ、その衣装は駄目よ。胸も腰もないのだから似合わないわ」
アスティリアに身も蓋もなく言われてしまった。
「これと、これと―――」と、アスティリアはどんどんシェスカに着せるドレスを選んでいく。
シェスカは着せ替え人形よろしく、あれこれとドレスを着せられて、とても楽しかった。
鏡の中の自分が普段と違って見えて、どきどきした。
今は選んでもらったドレスを着て、侍女に化粧をされている。
「もう少し委縮したりすると思っていたけど」
アスティリアは緊張はしているようだが、自然体で振舞っているシェスカを見て言う。
「あの」
「駄目よ動いては、紅がはみ出すわ」
「―― はい」
シェスカは大人しく従う。
アスティリアは、ぱらりと扇を広げて。
「悪い意味じゃないのよ? 上の兄弟はどちらかと言うと階級意識が強いから、見目だけでも整えていた方が無難ですし。ヴィルは、聞いているかしら? あの子は早くに家を出たからそういう事には無頓着なのよ。……というより嫌っている節があるわね」
「――― しがらみはあっても、馬鹿げた事でしかないって言っていました」
「そう」とアスティリアは相槌を打ってから疑問に思い「あなた達そんな話もしているの?」と付け足した。
たしか、素性は隠していたはずだ。でなければアパートを借りる事も難しいはず。今回の事である程度は話しているだろうが。どうもアスティリアが考えている以上に深く話をしているようだ。
シェスカは何も後ろ暗い事はないので、昨夜の事をかいつまんで話して聞かせ、聞かされた話にアスティリアはぴくりと片眉を動かした。
「泊まったの? あの子の部屋で?」
「話している途中であた、わたしが寝てしまって、ヴィルさんは長椅子で寝てました。風邪引いてなくて良かったです」
「あら、そう」
あまりにも裏のないシェスカの言いように、アスティリアは肩透かしをくらった気になった。
わたしが長椅子で良かったのにと呟く少女を見て、先ほどの弟の様子を思い出し。
「シェスカ、あなた色恋に疎いでしょう?」
「え?」
なぜ男女間の情愛に繋がるのか、シェスカは意味がいまいち分からなかった。恋愛の話ではなかったはずだが?
そういえばお茶をしている時もアスティリアは恋愛の話をしていた。そういう話が好きなのだろうと、シェスカは思い納得した。
アスティリアは扇で隠した口で。
「疎い上に安心して寝られたら手は出せてないわね」
どう聞いても昨夜のヴィルの話は、シェスカに対しての言葉でしかない。まったく伝わってはいない様だが。
「?」
「あら。やっぱり化粧すれば雰囲気が変わるわね。まだ動いては駄目、次は髪よ」
「あ、はい」
「ヴィルの事は好いているのかしら?」
廻りくどく言っても伝わらない可能性がある。のでストレートに聞く。
「はい」
えらくあっさり肯定されて、少しばかり拍子ぬけした。
「そう、では異性としては?」
「はい?!」
これは伝わった様だ。分かりやすく驚いている。
シェスカは視線を彷徨わせた後。
「ヴィルさん……ハンカチ送る相手いるみたいですから、その、分からないです」
「ハンカチ?」
そんな相手がいるのなら、自慢ではないがすぐさま察知できる。そういう相手はいないはずと首を傾げた。弟が誰かにハンカチを贈ったとして、それをシェスカが知っているのならほんの数ヶ月間の事だ。だとすればあれかしら? と思い至って。
「ティアが持っていたバラの刺繍があった術具のことかしら?」
「え?」
「それの事なら妹への守りの術具よ?」
アスティリアはそう言って、呆けた様子の少女を見る。
(いやだ。可愛いいじゃない)
ハンカチ一枚を気にして、気持ちが踏み込めていなかったのか。
これは誤解させたままでいた弟が悪い。
ぴしゃっと扇を閉じて。
「シェスカは知っているかしら? 殿方はね、女性のうなじや胸元にはたいして弱くはないのよ?」
本能的に目がいくだけで。
「は? はあ……」
突然変わった話題についていけなくて、シェスカは戸惑いながら答えた。
アスティリアは着飾ったシェスカを立たせ、鏡の前へ連れて行く。
鏡の中には普段よりも大人びた、美しい装いの少女が映っている。
「一番弱いのはね―― ふとした時の落差よ」
アスティリアは燃える瞳でそう言った。
平民という事が問題なら、養女にでもして後ろ盾になってやればいいだけだ。
2人にとっては問題視している事柄ではないようだが、やりようはいくらでもある。
幸い爵位ももたせていない三男だ。両親もそれほどとやかく言わないだろう。隣国に時期王妃を輩出したことで家としては、この上なく安定している。
見合い相手は貴族の娘しか選んでいなかったが。
――― 作戦変更。
「ふふふ。まとめてみせるわ!」
「???」
意味が分からず。やっぱりシェスカは戸惑った……。
***
「…………」
昨日、2番目の姉がシェスカを連れて行ってから丸1日。ヴィルはシェスカに会っていない。
姉からは『夜会に出るのだから、女にはいろいろ準備が必要なのよ』と言われた。そう言われてはどうにも出来ない。
アスティリアなら平民だからと言ってシェスカを酷く扱う事はないだろうから、大人しく待つしかなかった。
後1時間ほどで懐妊祝いのパーティが始まる。
ヴィルは久しぶりに袖を通した軍服以外の白を基調にした正装姿で自室を出た。
アスティリアからシェスカを迎えに来なさい、と言われていたので客室ではなく姉の部屋に向かった。
実姉からは淡白過ぎると言われてきたが―― これは、素直に驚いた。
高く結いあげた髪は一部を自然に下ろしており、ごてごてした様子はなく控え目な真珠の髪飾りで彩りを与え、すっきりしたうなじから細く丸い肩のラインは飾りなく白い肌を見せている。開いた胸元には真珠の首飾り。淡い桃色のドレスの腰元には色を引き立たせるために大粒の紅玉があしらわれている。
薄く化粧した顔は知らない女性の様で。
「―― シェスカ、肩と背中そんなに開いていて寒くないですか?」
言ったら姉から物凄い顔で睨まれた。
びっくりして言葉が出なかったのだから、しょうがないと思う。
シェスカは思う。たぶんこんな経験はもう2度とないと――。
正装姿のヴィルにエスコートされる事も、貴族の屋敷でパーティに出る事も。
『楽しみなさい』アスティリアの言葉を思い出す。
圧倒されて気抜けして、ぼんやりしていては勿体無い。
足を踏み入れたパーティ会場は物語に出てくる様に華やいでいた。
冬だというのに新鮮な果物もあり、とろとろに煮込まれた肉など沢山の馳走の匂いが鼻腔をくすぐった。
あいにく侍女に容赦なく締め上げられたコルセットが苦しくて、好物のリンゴをふんだんに使ったパイやコンポートなどは食べられそうにない事が残念でならない。
余程物欲しそうに見つめていたのか、ヴィルから「余るだろうから部屋に持っていかせましょう」と言われ、ちょっと恥ずかしかったが食べたい欲求には勝てずうなずいた。
タルズ元帥とは会場内で会った。軍服姿に多少、威圧感は感じたが「良く似合っている。見違えた」と照れるほど言われてしまい、はにかんだ笑みを返した。
楽曲が流れ出し、軽やかに揺れる貴婦人達のドレスは花の様に美しかった。
うっとりと眺めていたら、知らない人からダンスに誘われてしまい、踊れない事をどう伝えて断ればいいのかまごついてしまい、ヴィルがやんわりと「足の爪を傷めていて――」と断りを入れてくれたので助かった。
「踊りたかったですか?」
そうヴィルが聞くので。
「ステップがわからないもの。断ってくれて助かったわ」
と答えていたら、今度はヴィルがダンスに誘われてしまった。
女性からのダンスの誘いは断るのは礼儀に反するらしく、ヴィルは女性の手を取りホールの中央へ向かった。
「……ヴィルさんが愛想笑いしてるの初めて見たわ」
「いつもの事よ、あの淡白弟は。お久しぶりでございます、タルズ元帥閣下」
黒を基調に金糸の刺繍と真紅のバラをあしらったドレスのアスティリアが、シェスカの傍に歩み寄り、タルズに微笑み挨拶を交わす。
アスティリアはホールに目をやり。
「本当に面倒くさそうね」
リードだけはきちんとしているものの、視線を交わすなどの艶っぽいお遊びは一切していないヴィルを見て、呆れ気味に息を付く。
ちなみにヴィルが踊っている相手は、今回のお見合い候補の1人だったのだが、可能性はまったく無いようである。
女性の腰を支えながらターンしたヴィルが一瞬こちらを向いた。アスティリアはヴィルの上げられた口角を目ざとく見やって、隣の少女が笑みを浮かべていたのも見て――。
「―― あきれた」
「え?」
聞きとめたシェスカが首をかしげる。
「ダンス中はパートナー以外に笑い掛けてはいけないのよ」
意識せずにやっていたのなら、これほど分かりやすいものはない。
「え、そうなんですか? ―― 目が合ったから笑ってしまいました」
アスティリアは、あやまったほうがいいのでしょうか? と悩み出したシェスカを見て。
「あなたって本当に、あら。シェスカ? 顔色が悪いわよ?」
紅を刷いた唇が紫色になってきているシェスカを見て首筋に手をやる。
冷や汗の所為で少し湿っている。
「もしかして、コルセット締められすぎていない?」
「ちょっと、あばらが痛いです」
「元帥閣下、申し訳ありません。この子は下がらせますわ―― ヴィルブラインが戻ったらお伝え願えますか?」
「構わん。シェスカ嬢、無理はせずに。時間があれば明日にでも茶に付き合ってくれ」
言いながらタルズは給仕を呼び止め侍女を手配した。
コルセットの締めすぎで血流が悪くなり倒れる女性は案外多いので、慌てることなく指示を出し、元部下が戻ってくるのを待った。
シェスカは宛がわられていた客室まで戻れずに、近くの宿泊部屋でコルセットをゆるめてもらいクッションの上に横になった。
アスティリアは後始末の為に会場に戻ったので1人きりだ。
「はあ……」情けない――。
折角のパーティなのに。御祝いなのに。あれこれと気遣って装身具まで貸してくれたアスティリアに申し訳がない。今だって退場したことをヴィルの両親や主賓である兄夫婦に伝えに行っているはずで。
「あたしに出来るお礼って、なにかあるかしら?」
「シェスカ?」
扉の外から聞こえた声に上半身を起こす。
「ヴィルさん。来てくれたの?」
開けますよと、言ってヴィルが入ってきて―― 甘い匂いがした。
「気分はどうですか?」
「うん。もう大丈夫。ごめんなさい」
ヴィルはしゅんと、下を向くシェスカの前に盆に乗せた菓子を差し出した。
リンゴのパイにコンポートにソテーに煮リンゴのクリームがけ。
シェスカは目をぱちぱちさせて、笑っているヴィルを見上げる。
「リンゴ好きでしょう? 何がいいのか分からなかったから目に付いたのを持ってきました」
「…………」
「会場を抜け出す理由にしたお詫びです」
「抜け出す?」
ヴィルは肩を竦めて――。
「苦手なんです。水飲みますか?」
おとついの夜の様に、2人は並んで座った。
ヴィルは何も言わないシェスカの顔を覗き込んで―― ぎょっとした。
無言で音も無く涙だけを流されるのは、心臓に悪い。
思わず、シェスカの後頭部に手をやって胸元に引き寄せる。
「シェスカ、なに? どうしたの?」
シェスカはすんっと鼻を啜ってヴィルの服の袖をぎゅっと握る。
「なんか、情けなくって……。招待されたのに、ちゃんと出れなかったし、ヴィルさんにもアスティリア様にも手間かけさせて……タルズ元帥様にもちゃんとお礼出来てないし。マイラさんが教えてくれた挨拶も、全然、綺麗にできてないし。情けなくって……」
ちゃんと出来ない自分が情けなくて、悲しい――。
「……シェスカは」
と、ヴィルはシェスカの背中を優しくさすってやりながら言う。
「何にでも頑張り過ぎですよ? しっかりしなくちゃって思い過ぎです」
「でも」と、腕の中で身じろぐシェスカを離さないまま。
「でも、だって、しかし、は無し。挨拶は綺麗に出来ていましたよ。背中も丸くなっていませんでしたから合格です。それと、気分が悪くなったのもシェスカの所為じゃありません。締めあげられていた所為です。結構いますよ? 締めすぎて倒れる人」
「…………」
「初めての場所で緊張していただろうに、よく頑張ったね。姉も元帥も気にしていませんよ。心配はしているけどね。明日はみんなでお茶でもしましょう? もちろん楽な格好でね?」
「……うん」
ヴィルはこくんと頷いたシェスカの体を後ろから支える形で座り直し、菓子の乗った盆を引き寄せた。
「うん。―― パイ食べます?」とシェスカに小振りのパイを差し出す。
受け取ったシェスカは1口齧って「おいしい」と言う。
背中にヴィルの温かさを感じながら、シェスカはほうっと息を吐く。
「ヴィルさんって不思議……。言ってくれる事だけでほっとする」
「そう?」
「うん」
一つも上手く出来なくて、自己嫌悪で子供のように泣いてしまっても、嫌がりもせずになぐさめてくれる。
泣きやめば甘いお菓子を食べさせてもらって―― 本当に子供みたいだと、そう思うけれどもあやすふうに抱きしめられて何だか安心してしまったから、子供のままでもいいやと、シェスカはヴィルに体を預ける。
――― シェスカが身じろぎ一つしない間中、ヴィルはじっと天井を凝視していた。
様子を見にきたアスティリアが器用に片眉を上げたが、シェスカが『子供っぽい行動をしてしまった』としか思っていない様だったので、ヴィルは半眼で見つめてくる姉の視線を無視し通した。
***
それから3日後の昼。カフツールの屋敷を立つ日には、アスティリアと子供2人にタルズとエルフォンスとヴォルフラムが見送りに来てくれた。
この6日間、圧倒されたり、落ち込んだり、泣いてしまったりもしたけれど、送ってくれる人たちの前では笑顔でいたかった。
シェスカは皆の誕生日を聞いた。自分で出来る事で何かお礼がしたかったから。
ヴィルからは頑張りすぎと言われてしまったけれども、やっぱり頑張っているのが自分らしいとシェスカはそう思って、優しく迎えいれてくれた人たちに心を込めた品を贈ろうとそう決めた。
シェスカがタルズたちと話している内に、アスティリアはヴィルを手招いて小声で言った。
「本当に宿泊部屋で居た時、何もしなかったの?」
何度も聞かれた事に、ヴィルは嫌そうな顔を隠さずに。
「しつこいですね」
「あの子そうとう疎いわよ?」
指摘された言葉に黙るしかなかった。
「あたくし、あなたに見合いを勧めるのはもう止めるわ。あの子相手だと貴族のあたくしが手をやると強制にしかならないものね!」
「…………」
答えずに眉を寄せたヴィルを見て、アスティリアは首を傾げてやる。
「何よ? あなたが廻りくどい態度取っているのはそれがあるからでしょう? 道理じゃない? 気持ちが追い付いていないなら言っても力づくにしかならないわ」
真剣に話しているというのに、弟は天井を見上げていた。
カチンときて半眼で言う。
「朴念仁の薄情間抜け淡白男」
「何とでもどうぞ」
ヴィルは嘆息して、わずかばかり気を取り直してからシェスカを呼んだ。
「シェスカ、今度はあたくしの家に遊びにきてちょうだいね?」
アスティリアに優しく声を掛けられ、シェスカは「はい」と笑って答えた。
「時間があれば温泉水も土産に用意しましたのに」
アスティリアに残念そうに言われたが、シェスカは明るく。
「あ、温泉水は今から汲みに行きます。旅行者用の転移陣が使えるそうなので」
アスティリアは、そうなの? と言ってふと言葉を止め。
「どうせなら一泊くらいはしなさいな。ゆっくり湯を楽しめないでしょう?」
と、にっこり顔で言ってやる。
シェスカは勘ぐること無く笑い返した。
「はい。1日ゆっくりして帰るのは」
「そうですね、夕方になります。それじゃ、まあ、また。元気で」
ヴィルはシェスカの言葉を引き継いで言い、姉たちに片手を上げて別れを告げる。
ヴィルが呪文を唱え出したら、やっぱり怖いのかシェスカはヴィルにしがみ付いた。
苦笑いして抱きとめて、ヴィルは4年ぶりの生家を後にした。
2人を見送った後、アスティリアは。
「……何よ、最初から温泉で一泊する予定だったんじゃない」
と、ぼそっと呟いた。
後日、アスティリアはシェスカに手紙を書いた。―― そして届いた返事に。
『卵の黄身の様な匂いがすごかったです。神経痛に良いものと美肌効果があるものを祖母たちのお土産にしました。ヴィルさんはわざわざ宿を2部屋取ってくれていて、日頃のお礼、と言ってくれました』等々。
予想通り過ぎて笑ってしまった。艶めいた言葉など1つもない。あの子らしいと言えばそうだが。
手紙には美しい刺繍が施されたリボンが添えられており。
「ありがとうの気持ちの形、ね」
感謝の言葉で締めくくられた手紙を丁寧に畳み直す。
――― あの2人の事は、のんびりと見守ってみようと、そう思ってアスティリアは口元に笑みを浮かべた。