第六話 彼と彼女と友達と
ぱちん。と、暖炉の薪がはぜる音がする。
ヴィルは火かき棒を使い、赤く燃えている炭をよりわけて新しい薪をくべていく。
暖炉に吊るしている鉄鍋の中も確認して水を足しておいた。
湯を沸かしておかなければ乾燥して喉が痛くなる。
ヴィルは振り返り、テーブルで書き取りをしている少女に声をかけた。
「シェスカ、火鉢の炭はまだありますか?」
居間の暖炉の火だけでは寒さが防げない為、テーブルの下に火鉢を置き暖を取っている。
シェスカはペンを止め、足もとを見やってから。
「うん。まだ大丈夫よ」
暖炉の前で座っているヴィルに答える。そしてまたペンを走らせた。
シェスカは週に1度、ヴィルに北大陸の共通語であるゲルト語を教わっている。
もともと日常会話程度の読み書きは出来ていたが、難しい単語になると頭を捻るばかりで。
ただ、そのこと自体はさして珍しい事ではない。
修学する為には学校への多額の寄付金や授業料が必要であり、私塾で学ぼうにもやはり授業料は高い。
国立の学園は奨学金があるが、生活の保障があるわけではなく労働階級者の就学率はまだまだ低い。
識字率は国全体でも6割程度だ――。
週に1度読み書きを教わる代わりに、週に1度掃除をする。
そういう約束をしてからもう5回。シェスカはヴィルの部屋に教え子として訪れていた。
「ん。できました先生。綴りの採点お願いします」
「先生は勘弁してください。素人教師ですから」
苦笑いしつつヴィルはシェスカから用紙を受け取ろうとして。
「っ!シェスカ!」
微かに揺らめいた気配にはっとして、座っていたシェスカの腰を取り抱き上げた。
「?!」
シェスカは訳が分からず声も出せずに目を見張る。
床に倒れる椅子の音。―― と。
「いよぉ! 来てやったぜ! って、あ、わりぃ。出直そうか?」
部屋のテーブルの上に突然現われ堂々と土足のまま仁王立ちしている陽気そうな男は、シェスカを抱えているヴィルを見て申し訳なさそうにそう言った。
予告なしに転移してきた事と、土足のまま食卓に立っている事と感違いな発言と。
どこをどう怒ればいいのか分からずに―― 20年近く付き合いのある友人であり元同僚でもあるディクリスを見て、ヴィルはなんとなく頭痛がしてきた。
***
「陣もなしにどうやって転移してきたんです?」
ヴィルはやや非難がましい口調で、テーブルを拭いている友人に問う。
転移には転移先に目印になる術具が必要なのだ。それに向けて空間干渉の魔法を発動させる事で移動が可能となる。術具のない場合の転移は目印となる術者自身と対象物との遺伝的繋がりが必要となってくる。
もちろん2人には遺伝的繋がりは無い。
「ん? ああ、エルフォンスが来ただろう? その時に魔法陣置いとくように頼んでた」
気付かなかったか? と悪びれず答えた。
「そうですか」
ヴィルは頬杖をつき、息を吐く。
そんなヴィルたちの会話を聞きつつ、シェスカは遠慮がちに声をかけた。
「あの、お茶入りましたよ?」
「ありがとうシェスカ。一応、紹介しておくね。ディクリス・ディケンズ。元同僚。―― 大家の娘さんでシェスカ・フォンボルト嬢」
「んじゃ、あらためて。初めましてシェスカ嬢、さっきは邪魔して悪かったな」
そう言ってディクリスはシェスカに対しうやうやしく礼をとり、ついでに右手を取ってその甲に軽く口づけた。
シェスカは頬を染めてどぎまぎする。
目の前にいるディクリスは男性らしい精悍な顔立ちで、ヴィルとはまた系統の違う精悍さがある。
そんな男性に手の甲に口づけられるなんて、貴婦人がされるような行為を自分が経験するなんて考えた事がなかった――。
「い、いえ。書き取りは終わっていましたから、勉強の邪魔にはなっていません。気にしないでください」
『邪魔』について指している部分が違うが、気付かずにシェスカはそう答えた。
「勉強?」
「ディクリス。ふきんちゃんと洗ってくださいよ」
「へいへい。洗いますよ」
ヴィルは面倒くさそうに台所に向かうディクリスを目で追って。
「ヴィルさん? なに?」
「別に」
「うん?」
ヴィルの指で擦られた右手の甲を見て、シェスカは怪訝に首を傾げた。
***
酒の匂いと喧騒と煙草の煙―――。
肩をむき出しにしている衣装の女性たちが厨房と客席を行き来している。
忙しく立ち回っていても笑顔を絶やさない彼女らは中々にすごい。
ディクリスはぐいっと酒をあおって。
「お堅い店より、こういう酒場の方がいいな。気楽に飲み食いできる」
「そうですね」
2人掛けのテーブルに向かい合って座っているヴィルも酒を飲みながら答える。
「で、本当に泊まる気ですか? さっきも言いましたけど長椅子しか空いていませんよ。今からでも宿は取れるでしょう?」
「長椅子でいいよ。ま、2,3日泊めてくれや」
羊肉の香草焼きを頬張りながら答えるディクリスに、ヴィルは半ばあきれつつ。
「昔からいきなり何かしでかしますよね。ただの観光、とでも言うのですか?」
「そ、観光だよ、か・ん・こ・う」
「出張後の長期休暇を使って?」
「おう。ちゃあんと送り届けてやったぜ? 道中快適問題なし」
ディクリスは給仕の女性を呼び止めてビールの追加を注文し話を続ける。
「王太子とも軽く話したけど、問題ないんじゃねえの? 黒の魔法師……お前に対しても王太子自身は悪感情ないみてぇだし」
てかさ? と、ディクリスは夕食を食べに家を出た時から気になっていた事を口にする。
「その鍋はなんなんだ?」
「定食屋に寄って朝食用のスープかシチューを買って帰ります」
「…………」
「いるでしょう、ご飯。ああ、パンとハムとチーズはありますよ?」
「…………」
世界最強クラスの黒の魔法師。稀なる魔法力を有する者。
煤けた鍋を手にしている男が、数か月前まではそんなふうに呼ばれていたなどと言ったところで誰が信じるだろう。
それでもディクリスは士官学校時代からの付き合いで、ヴィルが普段は結構のんびりの性格なのは知ってはいるので。
「……違和感ないのが悲しいな」
王国一の魔法師に、ぽつりと友人は呟いた。
***
普段は歩きやすいはずの道の真ん中は、積雪がある間は踏み固められ凍っている個所あり歩きにくくなる。
シェスカは踏み固められていない雪の上を歩きながら友人宅へと向かっている。
茶色い編上げの長靴の裏は、ざらざらした鮫の皮が貼られていて滑り止めになってはいるのだが――。
「きゃっ!」
雨になるか雪になるか、などと考えながら空を見ていたら、足を滑らせるのではなく石畳の段差につまづいてしまった。
地面につこうとした手はしかし、地面には触れずに空気を掻く。
横合いから支える為に伸ばされた腕。
「えっ。あ、ディケリスさん……?」
「惜しいのか正解でもいいのか迷うなぁ。ディクリス・ディケンズ。了解?」
「あ、す、すいませんディケンズさん」
シェスカは慌てて立ちなおして「ありがとうございます」とディクリスに礼を言う。
「いいよいいよ。けがない?」
ディクリスの人懐っこい笑顔につられてシェスカも笑う。
「はい。―― お1人ですか?」
「おう。ヴィルの奴ギール商会だっけ? に魔法具の試作品持って行くっつって俺の事置いてきぼりにしやがった。ひどくね? せっかく親友が遊びに来てるってのに」
見かけと違って子供のような話し方に、くすっとシェスカは笑う。
「今から友達の、本屋に行くんですけど、一緒に行きますか?」
「本か、まあ暇つぶしにはなるか。んじゃ、案内してもらおうかな?」
シェスカ達は雪の街中を並んで歩きながら世間話をした。内容はどうしても2人ともに知っているヴィルの話題になった。
「―― ふうん、。それであいつに字教えて貰ってんのか」
「はい。それで本を借りに行くところなんです」
「……大家の娘に字を教えて、魔法具を作って?」
あいつ本気で隠居するつもりかよ、とディクリス。
「隠居するなら自分の荘園にでも行きゃいいのに」
聞こえてシェスカはきょとんとした。
「荘園?」
「ん? あいつ持ってんぜ? シェファ大戦の功績認められて王から下賜されてる」
「え、え? ヴィルさんなにか凄いことしたの?」
聞かれて、あれ? とディクリスは瞬きをした。
「あいつ、黒の魔法師だぜ?知らね、あ」
「……うそ」
シェスカはぽそっと呟いた後、「え?!?」と声を上げた。
黒の魔法師は知っている、というより聞いた事がある。先の大戦での功労者で絶大な魔法力で敵を駆逐した王宮魔法師団長。
この国で『黒の魔法師』を知らないものはいないと言えるほど人物だ。
本名よりも異名の方が有名で。
「え? あれ? でも」
ディクリスは慌てるシェスカに、しまったという顔をして――。
「あー。今のなし」
「え? じゃあ、ファイゼンにお輿入れいたカルティアーナ姫のお兄さん?!!」
そのくらいの世辞は知っている。何かあれば広場の掲示板に出るしビラも配られる。
先月末に無事にファイゼン王国入りし来年の婚儀の儀までお后教育を受ける、と書かれていた。護衛の騎士団は先日帰還したとも書かれていた。
「…………」
沈黙。
沈黙にディクリスは冷や汗を流す。
昨日のヴィルのシェスカに対する接し方が、ずいぶん気安くて……自分の事を隠している、という事実を失念していた。
「―― なわけないか。ああびっくりしたぁ」
「へ?」
「もう、ディケンズさん脅かさないでください! 信じそうになったじゃないですか」
ディクリスは唇を尖らせて非難するシェスカに「へ?」ともう一度言う。
「信じないのか?」
「髪の色が違うじゃないですか。戦場での黒髪が印象的でそう呼ばれるようになったんでしょ? それに魔法師団長ともなればもっと年齢も上でしょう?」
「……ああ」
「あ、そこの角を曲がったところです。本の種類は多いですよ?」
「へえ。面白そうなのがあれば買おうかねえ」
横目で、ディクリスはシェスカを見る。
戦場での黒髪が印象的でそう呼ばれるようになった―――。
間違っていない。その通りだ。返り血を浴びて黒くなった髪が印象的で、敵からも味方からもそう呼ばれるようになったんだぜ?
「……内緒、内緒、ね」
「なに?」
シェスカに見上げられ、ディクリスは明るい笑顔で答える。
「何でもないよ」
シェスカの言った通り、本の種類は充実していた。
子供向けの絵本から学者向けの哲学書まで取りそろえられている。
「猥本ある?」
聞かれた茶金色の柔らかそうな髪の娘―― ミルレは慌てることなく。
「すいません。取り扱っていないのです。北区の本屋さんにはありますから地図を書きますね」
冗談で言った事に真面目に業務的に返されてディクリスは苦笑いした。
「誰ですの、この下品な男は?」
ものすごく嫌そうに顔を顰めながらビアンカはシェスカに聞いた。
娯楽小説をぱらぱらと、めくりながらシェスカ。
「ヴィルさんのお友達。ディクリス・ディケンズさん」
「下品な男の紹介なんて不要ですわ」
「今、自分で俺の事誰? って聞いてただろ?」
「下品なからかいをする男と聞く口は持ち合わせておりませんの」
ビアンカは、話しかけるな! と論外に威嚇した。
しかしディクリスは意に介したふうもなく。
「うん。いいね。気の強い子好きよ。名前なんて言うの?」
「ビアンカ・シア・ギ」
「シェスカ! 紹介は不要ですわよっ!」
怒られてシェスカは肩をすくめる。
「ビアンカね。綺麗な赤い髪だな、巻毛は作ってる?」
「気安く呼ばないでちょうだい! 名が汚れますわ!」
「どっちかってぇと違う事で穢してやりたいねぇ」
「何がですの?!」
ぎゃあぎゃあと、声を上げるビアンカに対してディクリスは楽しんでいる様子でにこにこしている。
そんな2人を見ながら――。
「……初対面で掛け合いしてる」
「すごいですね」
シェスカは呆気にとられて、ミルレは感心しながら言った。
んまぁ、とひと際大きなビアンカの声がした。
「馬鹿じゃなくって? 地位や身分で人としての品位が決まるとでもおっしゃるの?!」
「おっしゃらないと? 絹のドレスを着ているお嬢さん?」
「貴方にもしも何かの間違いで地位や身分がおありでも、存在自体が卑しくってよっ!!」
ビアンカのあまりにもな言いように、さすがに少したじろいだ。
***
気に入った子が出来たから、とディクリスが滞在を延ばして5日目。
シェスカ経由で苦情を聞いたヴィルは嘆息しながら。
「何やってるんですか……」
呆れていた。
ディクリスは人差し指をぴっと立てて顔の横で軽く振る。
「恋とは堕ちるもの。愛とは育むもの」
「馬鹿ですか?」
ヴィルは半眼になりながら返した。
「うっわ、言う? そんな事? お前、んなだから婚約解消されんだぜ?」
「それは僕の性格と関係ないのは知っているでしょう」
シェファ大戦後にファイゼン王国側の貴族の娘との婚約話が持ち上がり、元の婚約があっさりと破棄されたのだ。
結局その話もうやむやの内に流れたが――。
「え?! 婚約者いたの?!」
少女の驚いた声――。
「……親同士が決めた事で1度も会った事はありませんでしたよ」
ヴィルはシェスカに答えながら、ちらっとディクリスを見る。意地悪そうに笑っていたからわざと話したのだろう。
自分がいない間にどれだけシェスカに余計な事を吹き込んでいるのか、考えると眩暈がしてきそうだ……。
つーかさ、とディクリスが話を戻した。
「ビアンカもそう嫌がってないと思うぜ? 無視はしないし」
「うん。あたしも見てて面白いんだけど」
シェスカはすぅっと息を吸って。
「恋とか愛とか言って、からかって遊んでるだけなら止めてくださいね?」
「うん。それすっごい正論だけどお節介だな。言われたこと無い?」
「お節介上等です。友達の事ですから」
ぺしっ。ディクリスの後頭部から良い音がした。
「いてぇんだけど?」
「叩きましたからね。ディクリスの本気は傍からだと分りにくいんです」
今まで何回それで失敗しているのです? とヴィル。
「反論できねぇな。押しかた変えるか?」
「聞かれても知りません」
ヴィルはぶっきら棒に答えて――。
「は? 本気なのですか?」
ディクリスはぐっと胸を反らして。
「気の強い赤毛の巨乳なんて直球ど真ん中で好みだからな」
「……ああ、そうですか」
本当に、この友人の本気は分かりにくい。
慌ただしく、本当に台風のようにディクリスが来てから1週間が過ぎた。
ディクリスから「休暇が終わるから今日帰るわ」と残念そうに言われて、正直ヴィルはほっとした。
彼とビアンカの関係は、改善されるわけもなく……シェスカ曰く楽しそうに掛け合いを続けていたらしい。
ヴィルは1度直にやり取りを聞いたが、あれはあれで気が合っている、と言えなくもないような感じがした。もう少し、ディクリスが怒らせる事を言わなければだが。
今もアパートの裏庭で2人して掛け合いをしている。
「ビアンカさん。喧嘩になるのが分かっているのに見送りに来てくれたのですね」
「言いくるめて引っ張って来たんだけど。止めておけばよかったかしら?」
いささか辟易しながらヴィルとシェスカ――。
「でも、楽しそうですから。勝手に帰ってしまったら、ビアンカそれこそ怒ります」
ミルレはビアンカたちを見ながら言う。
「少なくとも嫌いではないようです」
「よねぇ。ビアンカ嫌いな相手だと無視するか撃沈させるかだもんね」
「さすがに止めてきますね? 帰りの時間もあるでしょうから」
ミルレはそう言ってビアンカたちに近寄っていく。
「大丈夫ですか?」
ヴィルは大人しそうなミルレに、あの言い合いを止められるのか心配でシェスカに聞く。
「うん。勢いが削がれるみたい」
「なるほど。納得しました」
あ、っとヴィルとシェスカが短く声を出した。
視線のその先ではディクリスがビアンカとミルレに、別れの挨拶として手の甲に口づけていた。
みるみる内にビアンカの顔が赤く染まり――。
ばぁっちぃんっ!!
「あ、ビアンカ――」
ディクリスに平手打ちを食らわせたビアンカはシェスカの家に駆け込んだ。
その後をミルレが追い掛ける。
タイミングを逃したシェスカはヴィルの隣でディクリスを待った。
「あのくらいで怒るとは思わなかった」
そう言って頬をさすりながら近づいてきたディクリスに。
「去り際に関係悪化させてどうするのです……」
呆れ返りながらヴィルが言う。
「好き過ぎて暴走した」
「意味がわかりません。頭は大丈夫ですか?」
「口にしたわけじゃないって」
「気を付けて帰ってください」
「…………」
シェスカは背の高い2人を見て。
「ディケンズさんのお友達って、掛け合い出来ないと駄目なんですね」
と言った。
「じゃあ、ディクリス気を付けて」
「おう。またな」すっとヴィルに近づいて、その耳元で囁く「グーナがきな臭くなってる」
目を見張るヴィルに「雪がある間はまともに動けないだろうがな」と続けた。
「それは」
「お前さ」ディクリスは意地悪そうに笑って「あの子らの手は拭かないんだな」
「…………」
「ねえ? 2人してさっきから何?」
シェスカが眉根を寄せながら髪を揺らす。
「次はいつ来るかの約束中~。シェスカちゃんもありがとな楽しかったよ。ビアンカにもよろしく言っておいて?」
「言えたら、言いますね」
シェスカは苦笑いしつつ答えた。
ディクリスは大して気にする様子も無く返す。
「ん。頼むよ。じゃ、またね?」
ディクリスはさっと屈んでシェスカの頬に口づけて、素早く離れて転移の呪文を唱えた。
「安心しろヴィル。この事は報告しないでおいてやるよ」
「!ディ、やっぱり」
監視――。その言葉が浮かんだ時にはもうディクリスは消えていた。
立ち尽くしている感じのヴィルにシェスカは、戸惑い気味に声をかけた。
「えっと…? ヴィルさん。寒くない? 家でお茶飲みます?」
ヴィルはシェスカの顔を見て――。
「…………」
「…………」
「ヴィルさん」
「何ですか?」
「痛い……」
「……すいません」
ヴィルの服の袖口で左頬をごしごし擦られて、シェスカは多分赤くなったであろう頬を手で押さえた。