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ケキ通りのアパート

「そうではないかな? シェスカ・フォンボルト嬢」

 伸ばした白髪まじりの顎ひげを三つ編みにし、小さな白いリボンでひげの先を飾っている壮年の男性は、どこから来るのか分からない自信に溢れた眼差を玄関に立つ少女に向け言った。

 つらつらと理解しがたい言葉を並べ立てられていたシェスカは。

「はあ・・・・・・」

 と、間の抜けた返事しか出来なかった。

「うんうん。そうだろう、そうだろうともシェスカ・フォンボルト嬢。きみも刺繍という芸術に携わる人間だ。きっと分かってもらえると信じていたよ」

 三つ編みひげの男、チーマ・アコラは大げさに両手を広げて見せる。袖口に縫い付けられた小さな硝子玉が目に痛い。

 チーマはフォンボルトのアパートの住人の一人だ。

 ラインザル町ケキ通りにある石造りの二階建てのアパート。その一階の一番奥の部屋を借してから五年ほどが経つ。そしてその五年間、健全な状態で意思疎通が図れたことは数える程度だ。

 この店子は、善人なのだが・・・・・・奇人でもあった。精神に負担をかけずに会話をするのは困難な人物だった。

 しかし、いつものように押されていてはいけない。

 シェスカはすうと息を吸い込み、チーマに言う。

「では、魚を描くために海側の町に引っ越すんですね?」

「そうともシェスカ・フォンボルト嬢! 魚が私を呼んで、否、私の中で目覚めた鱗に対する滾る想いが――」

「チーマさん・・・・・・!」

 長々と話しだしそうな雰囲気を感じ、シェスカは幾分か声を張り、チーマの話しを遮った。

 そしてにっこりと笑い。

「分かりました。引っ越された町でもお元気で、たまには遊びに来て下さいね。で、引っ越す前に溜まっている家賃二ヶ月分きっちり払ってください」

「む」

「月途中ですから来月分もですね。なので三ヶ月分になります。未払いのまま出て行かれるなら、賃貸協会に通報しますね」

「む。シェスカ・フォンボルト嬢」

「三か月分です」

「シェ」

「だめです」

「頑なだねシェスカ・フォンボルト嬢」

 やれやれといった風に肩を竦めるチーマの服が光にきらきら反射して、シェスカは目の前がちかちかした。


 そんなこんなで経営するアパートに空き室がまた増えてしまった。


***


 引越しが増えるのは、卒入学やそれに伴う就職が多い春と秋だ。中間になる夏場と年越し時期にあたる冬は少ない。

 下手をすれば来年の春まで空き室のままになってしまうかもしれない。

「家賃要交渉でぎりぎりまで下げるしかないかな?」

 そうぽつんと呟いたシェスカに答えたのは、祖母のクレンだった。

「焦ってもしょうがないよシェスカ。カシェが会長さんとこ行ってるんだろう?」話す祖母にシェスカは頷いた。

「部屋探している人いれば優先して紹介してもらえるように頼んでるけど」

「じゃあ待つしかないね。うん。糸の始末も一人前だね」

 クレンはシェスカが縫った刺繍を目視し、丁寧な仕上がりに合格点を出す。

 刺繍の師匠でもある祖母に褒められシェスカは嬉しそうににっこりと笑い「ありがとう」と口にした。

 母が帰宅したのは昼前だった。

 昼食の支度をし、三人で食卓を囲む。

 他愛のない話を交わし、食後のお茶を飲んでいるいる時、カシェがそうそうと、ほっとした顔付きで話しだした。

「奥のお部屋ね? 新しい方決まったの」

「え? そうなの?」

「ええ。会長のアパートに昔住んでた方からの紹介でね? 軍人さんみたい。退役して住む場所探してる方なんですって」

「軍人さん? 怖い人じゃないよね?」

「さあ? お会いしていないから。でもきっと大丈夫よ~」

 とのん気にお茶をすする母に、シェスカは「荒くれてる人ならどうするの?」と聞いた。

 戦争が終わって六年。いまだに戦争気分が抜け切れていない者もいるのだ。

「心配性ね、大丈夫よ。紹介状もちゃんとした物だし、お家賃もね? そのままなの」

 値引き交渉なし。良い人だと、一瞬思ってしまいシェスカはふるりと頭を振った。

「うーん。言い値で借りてくれるのはありがたいけど・・・・・・」

「あの時にね、怪我をなさったんですって。それから内向きの仕事をなさっていたらしいんだけどね?」

 お断りしたくないわと、口元だけで淡く微苦笑する母を見て、シェスカは口をつぐんだ。

 父を、あの戦争で亡くした。母は戦争で傷ついた人に敏感になった。

 学生たちに格安で部屋を貸しているのもその為だ。

「―― わかったわ。じゃあその人がうち来る時はあたしが案内するから。変な人だったら追い出すからね」

「あらあら、じゃあシェスカにお願いするわね?」

「まっかせて!」

 にこっと笑う娘に、カシェたちは「ほどほどにね」と笑って返した。


 そして十日後アパートに、新しい住人がやってきた。

 最初は少し警戒して、月日を追うごとに親愛を感じて、そして―― 穏やかに続く想いを知った。


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