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この命尽きても、あなたを愛する事を誓います

あの夫婦の過去話です



 3日ぶりに、雨が止んだ。

 埃が流されたお陰か空気はいつもより澄んでいるようで、久しぶりに見える青空は清々しかった。

 町を歩けばあちこちの軒先に、溜まっていたらしい洗濯物が干され日に当てられている。

 下町ならではの活気の良い声がそこかしこから聞こえる。

 

 そんな街中で、艶のある赤味の強い金の髪を揺らしながら薄緑色のドレス姿の少女は途方にくれていた。

 綺麗に整えられた珊瑚色に光る爪。日に焼けたことのない白い肌。ふっくらとした桃色の唇。あどけない青い瞳。

 愛らしいその眉は、今は困惑に寄せられている。

 好奇心。そう、ほんの好奇心だった。

 造り替え中の、屋敷の庭の塀。3日ぶりに庭園を散策していたら、たまたま工事中のそこには誰もいなかった。

 屋敷と庭。夜会やサロンへの出入りがやっと許された少女にとっては、それが世界の全てだった。

 今なら外に出られる。そう、それはほんのささやかな好奇心だった。

 少し歩いて帰るつもりだったというのに……。

「どうしましょう?」

 少女はそっと胸の前で両手を組んだ。




   ***




「はぁあ? お偉いさんは色々考えるもんだな。で? ギナ皇国と同盟か? 結んだらなんか良いことあんのか?」

 温めたヤギの乳を飲みながら、何やら感心したように言う鉄細工工場の兄弟子に青年は首を傾げた。

 夜勤明けで工場の女将さんが淹れてくれたヤギの乳を、兄弟子と同じように口に運ぶ。

 北大陸の片隅にある小国。ゲルト公国。

 可もなく不可もない国。だと青年は思っている。労働階級からすれば、国が戦争をしていなければ何処でもたいして違いなく一緒だと思う。

 青年は乳を飲み干して、口元を手の甲で拭った。

「良い事があるのもどうせ貴族連中だけだろうし。ま、せいぜい仕事が無くならない事を祈っとくよ」

 青年がそう言うと兄弟子が軽快に笑い出した。

 まったくもってその通りだと、言って笑った。

「明日も夜勤か?」

 聞かれ、青年は首を振った。

「今日も、夜勤。遅れて来ていいって言われたから8時半出勤するよ。じゃお先に」

「おう、お疲れさん」


 常に炉に火が入れられている工場を出れば、熱気から開放されてほっとした。

 青年は久方ぶりの青空に目をやって、自宅へと足を向けた。

 裏路地を通れば近道ではあるが、2階から捨てられる汚水を被る危険がある為、舗装はされていないが主要路として使われている道まで出る。

 泥濘に足を取られないように気をつけながら先を行く。

 立ち並ぶ露店。行き交う人。ぶつからずに歩くことには慣れていた。

 

 目の端に、不自然なものが、見えた。

 疑問を、眉を顰める事で表して、青年は立ち止まった。数歩引き返し、露店と露店の間にある路地裏に目をやった。


 その瞬間、喧騒が遠くに聞こえ出した気がした。


 視線の先には祈るように手を組んだ薔薇色の頬の少女が、佇んでいた。


 冴えた様な頭の片隅で、熱を伴う眩暈を感じた。


 少女はふと、熱を感じて地面から視線を上げた。

 少し離れた先に立っているのは、体の大きな青年。

 少女はぱちぱちと瞬きをした。

 父であるオートナー男爵も体が大きいが、それはどちらかといえば美食のツケ、と言ったほうが良い。が、目の前の青年は鍛えられた大きさをしている。

 離れているというのに青年の琥珀色の瞳がよく分かった。

 少女が見つめていると、青年が一歩、近づいてきた。

 不安も怖さも感じずに少女は青年が傍まで来るのを待った。

 少女が見上げる程大きい青年は、戸惑い気味な低い声で少女に問うた。

「ここはあんたの様な貴族のお嬢さんが来る所じゃない。警護とかお付の人は? 逸れたのか?」

「え?」

 挨拶も名乗りもなく話しかけられた事に少女は目を丸くした。

 まずは家名と階級、そして名を名乗るものだというのに。大柄な青年は気にしたふうもなく言葉を続ける。

「迷子か? って聞いてるんだ」

 言われ、確かにそうなのだが頷くのは気恥ずかしく、少女は小さく首を横に振った。

 名乗っていない事に抵抗はあるが、女性である自分から名乗るなど礼法に適っていない。少女は少し躊躇いがちに、すっと右手で青年が通ってきた道の奥を指す。

「中央広場の馬車乗り場まで行くところです」

 侍女が、街の中央広場で馬車を拾って帰ってきた、と以前話していた事がある。

 街の地図だけは見た事がある。方向も、間違ってはいないだろう。

 迷子ではなくそこに向かうのだと、とっさに言ったのだが、この後の行動としては正解かもしれない。馬車に乗れば屋敷まで直ぐに帰れる。こんなふうに道端で困ることもないだろう。

 青年は「ああ」と納得したように相槌をうった。その事に少女はほっとした。

 青年はちらりと、明らかに街に慣れていない様子の少女を見て思案顔を向ける。

 暫くしてふうっと息をついて少女に言う。

「駅馬車まで送ってやるよ。あんたみたいなの一人じゃたかられるぞ」

「たかられる?」

 意味が分からず小首を傾げる貴族の娘に青年は苦笑する。

 少女の動きに合わせて揺れる柔らかそうな髪が目に付いた。青年は軽く頭を振り来た道に足を向ける。

「ここで立ち話してても帰れないだろう? 行こう」

「あ、あの……」

「なんだ?」

 手を引けとでも言うのだろうか? と青年は戸惑う少女を見下ろす。

 少女は白い手を頬に当て、どうして今の自分の状況が目の前の青年には分からないのだろう? と困惑した。

 馬車まで案内してもらえるのは本当にありがたい。が、その前に現状をどうにかするのが騎士でなくとも青年の遣るべき事ではないのだろうか?

 動こうとしない少女に青年は眉を寄せる。

「どうした?」

「え? あ、あの」

「何だ?」

 青年の言葉に苛立ちを感じ取って、少女は肩を強張らせる。

 そして困り果てて口にする。

「――― が」

「あ?」

「み、水溜りがあって先に歩けないのです」

「…………は?」


 鉄細工工場に勤める青年は、この時初めて「水溜りを避けて歩く生活」をした事のない、いや、する必要のない人間がいる事を知った。


 青年は戸惑う少女に近づき、細い背中と膝裏に腕を回した。

 小さく聞こえた少女の悲鳴は無視して、水溜りを一跨ぎする。

 そっと、少女を降ろすとき、感じた虚無感は何なのか、青年は知らず顔を顰めた。

 


   ***



 馬車の窓からではなく初めて近くで目にする市場に少女はきょろきょろと辺りを見回した。

 活気は少し恐ろしくも感じるが、気分が高揚するのも確かに感じた。

 少女の様子に青年は目を細めて笑う。

「市井の暮らしがそんなに珍しいか?」

「え?」

 余所見をしながら歩くという行儀の悪い所作を見咎められたようで、少女は頬を紅くした。

 はいと小さく答えれば、その様子が愛らしく、青年はまた目を細めた。


 駅馬車まで行きつき、青年は客待ちの馬車から貴族の少女でも乗れそうな設えの物を選び案内した。

 青年と少女の取り合わせに御者が興味深げな顔を隠すことなく向けてくる。

 御者の好奇心は意識して無視し、青年は少女に手をかして馬車に乗り込むのを介助した。

 ただただ柔らかな汚れのない少女の手に、触れた瞬間怖さを覚えた。

 触れるだけで傷つけてしまいそうな程、少女の手は美しかった。

 少女が乗り込むと直ぐに手を離した。その時感じた胸騒ぎは傷になってはいないだろうか? と、心配になっただけだと、言い聞かせる。

 少女は微笑み、青年を見る。

「送って下さってありがとうございます」

 微笑む少女に、青年は微笑する。

「今度お忍びする時は護衛か誰か付けておく事だな」

 言われ、少女は苦笑する。

「そうね。そうします」そう言って、青年に右手を差し出した。

 白い手を前に、青年は目を見張る。そして、首を振る。

「騎士にでもしてもらえ」

「っ!」

 かっと顔を紅く染め、少女は手を引き戻す。

「労働階級の人間にそんな真似すんな」

 少女から顔を背け、小声で青年は言う。

 少女は少し逡巡し、思い付いた様につんと顎を逸らした。

 威圧もないその仕草に青年は何度目かの苦笑をする。

「では、名乗る事を許して差し上げます」

 それが、この少女の精一杯の高圧的な態度なのだろう。可愛らしいとしか言えないその姿に、青年は遠い憧憬を覚える。

 自嘲気味に笑い。青年は少女の青い瞳を見つめ、名を名乗った。

「ケフマン。ケフマン・クライン。姫さん? あんたの名前は聞けるのか?」

 少女は琥珀色の青年の瞳を見つめ、微笑んだ。

「オートナー男爵の娘。マルティナ・フォンヴィル・イラ・オートナー」

「さすが、長ったらしい名前だな。うん。でも覚えたよ」

 名を呼ぶことはないだろがなと思いつつ青年、ケフマンはマルティナに笑い返した。

 マルティナはケフマンの言い様にくすりと笑う。

「私も覚えたわ。ありがとう、ケフマン」

「どーも。で? 行き先は男爵邸でいいんだな? 御者に言って来る。館に着いたらちゃんと料金払えよ?」

「あ、あの。その、裏手に着けていただけないかしら?」

 恐々言うマルティナにケフマンは呆れ顔を向けた。

「抜け出してたのか?」

 叱られた子供の様な顔をするマルティナに、ケフマンは声を出して笑った。

「なんだ。じゃじゃ馬お嬢様か」

「じゃ?」

「行き先言って来る。大人しく乗ってろ」

「あの」

「なんだ?」


 また逢えるかしらと、聞かれたのは社交辞令だ。そう、他意はない。たとえ、無意識に口に出た言葉だとしても。

 

 逢えるのかと聞かれ、ケフマンは答えられずに御者台に向かう。

 行き先を告げ、動き出す馬車をその場で見送った。


 鉄細工師の青年と貴族の少女の出会いは偶然。

 とてもささやかで短い時。

 交わされた言葉もほんの少し。

 けれども、2人は忘れなかった。

 忘れることは出来なかった。

 この日の出会いを。



   ***



 鉄を溶かす炉の温度は1000度を軽く超える。

 雪深い冬でも工場内で働く男たちは汗にまみれ、火を焚き、鉄を打つ。


 焼かれた赤い鉄を細い棒状に延ばしていく。

 均一に伸ばせるまで3年掛かった。単純でいて、技がいる作業だ。

 12歳でこの鉄細工工場で働き出したケフマンは今は新人の指導も任される程になっている。

 炉の温度を下げるわけにはいかず、昼勤務と夜勤務とに別れ、工場は一日中稼動している。

 仕事があるのはいい事だ。たとえきつい労働階級の仕事であっても、額に汗し働ける事は幸せなことだろうと、ケフマンは思う。


 夜半過ぎ、指導を任されている工員たちに交代で仮眠を取らせていく。

 1時間でも寝かせる事で事故は確実に減る。

 そして他の者の仮眠が終わり、全員が工場に入ってから「何かあったら直ぐに呼んでくれ」と言い残しケフマン自身も食事と仮眠を取る為に狭い休憩室へと向かった。

 硬くなったパンと炙った肉の切れ端を口にし、塩を少し入れた湯で流し込み、硬い木の床に横になった。

 もう、日付は変わっている。だから、昨日の出来事だ。

 青い瞳の少女と出会ったのは、昨日の出来事だ。

 また、逢えるかなどと、答えられるはずのない問い。

 

 今こうして逢いたいと思っているのは、きっと、違う次元の人間への興味だ。


 触れた白い手、その柔らかさが忘れられないのは、きっと――。

「くっそ」

 付きたくもない悪態を付き、ケフマンは目を閉じた。

 浮かぶ、少女の微笑に、泣きたくなった。


 あの少女(ひと)は今、何をしている?



   ***



 あたたかな日差しが差し込む室内で少女は紅茶を口に運ぶ。

 一口飲み、知った銘柄に胸を撫で下ろす。

 笑みを乗せ小首を傾げて言う。

「ガード産の茶葉ですわね。お味がとても上品ですわ」

 そう言ったマルティナに礼法の教師が満足げに頷く。

 壮年の女性教師は手を軽く一度叩き控えている侍女を呼ぶ。

「では、次はこちらを」と、茶器を片付けさせたテーブルに絹のハンカチを並べていく。

「何処の品か、しっかり覚えてくださいませ。絹の区別も出来ずにいては夜会で笑い者にされてしまいます。こちらが東大陸のセシ国という――」

 と、教師は淡々と絹の説明をしていく。

 マルティナは行儀良く背を伸ばしたまま教師の声を聞く。

 礼法の授業の後はピアノの授業がある。どれも貴族の令嬢として嗜みとされている事柄だ。

 そうして午後まで屋敷の部屋で過ごす

 そういえば、と教師が硬い声を出す。

「昨日は雨上がりの庭を散歩されたとか。靴とドレスの裾を泥で汚すなどもってのほかです。雨が続いていましたからお外に出たかったのは分かりますが、男爵令嬢として恥ずかしい行為です。自重なさりなさい」

 昨日、と言われどきっとした。懸命に取り繕い、教師の言葉に頷いた。

「はい。ラドル婦人」

 そう答えると教師は満足げに頷いた。


 昨日、馬車を屋敷の裏手に付けてもらった。馬車の代金は身に付けていた指輪を渡した。現金をマルティナはもっていないのだ。金を持つ必要が少女にはなかったので。

 御者は目を丸くしたが嬉しそうに指輪を受け取り去っていった。

 マルティナは修理中の塀へ向かい、作業中の工員たちには当然見つかったが、親方と呼ばれていた年配の男性が「お嬢様はただ作業を見学されてただけだ」といい、見逃してくれた。

 その時丁度、侍女が探しに遣ってきて、間に合ったと胸を撫で下ろしたのだった。


 昨日から、ずっと、琥珀色の瞳が頭から離れない。

 なぜ、自分は別れ際に右手を差し出したのか、一晩考えても答えは出なかった。

 身分下の者に手の甲への口付けを許すのであれば、左手で良いというのに。そもそも、労働者階級に許してもよい行為ではない。なのに、考える事無く右手を青年に向けた。

 騎士にしてもらえと言われ、自身の軽率な行動と気恥ずかしさから頬が熱くなった。

 馬車に乗るときに手を取った、青年のごつごつとした大きな手に、もう一度触れられるだけで良かったというのに。

「え?」


 自分の思いに両手で口元を押さえる。

 

 抱き上げて、水溜りを越えてくれた人。

 目を細めて笑う姿が清潔だった。


 また、逢えるかしらと、聞いた自分の言葉は、本心だ。社交辞令の通り文句ではなく。

 そんな事に気付いても、どうすれば良いのか分からずに、少女はただ泣きたくなった。


 あの青年(ひと)は今、何をしているの?

 


   ***



 あの日から、また、雨が続いていた。

 愚図つく様な灰色の雲は自身を写し取っているようだと、鉄細工師の青年は嘆息した。

 何事も無かったかの如く過ごす日々に、安穏とした孔がある。

 考えるな忘れろと……無意識に心に防衛をはる。


 ケフマンは細工に使用する道具の手入れを済ませ、工場を後にした。途中寄った休憩室に親方の姿を見つけ挨拶をしその場を去ろうとしたら「ちょっと待て」と声を掛けられた。

 親方のイーカイは余計な事を話す男ではない、寡黙ととるか無愛想と取るかは人それぞれだろう。ケフマンはただ口下手だと思っているが。

 その口下手な男がわざわざ自分を呼び止めるとは何事かあったのだろうか?とケフマンは内心怪訝に首を捻った。

 何ですか? と問うケフマンにイーカイは不器用そうに眉を顰めた。

「いや、たいした事じゃないんだがな。ああ、最近忙しくてまともに休みやって無かったからな、どうだ? 明日明後日と休むか?」

「休み、ですか?」

 答えケフマンは少し考える。

 確かに、ここ最近夜勤ばかりでまともに睡眠も取れていない。

 量産出荷分の加工は今日で終わっている。休めるのなら今だろう。

 ごほんと、わざとらしい空咳が聞こえ、ケフマンは壮年の親方に目を向ける。

「ケフマン、お前ここ数日顔色が悪いぞ?」

「そう、ですか?」

 自覚の無いケフマンの返答に、イーカイは溜息混じりに「とにかく明日明後日は体を休めろ。今まで溜めてた休暇の消化だと思え」と言い、ケフマンを家に帰した。


 帰宅し数時間の仮眠を取ってケフマンは市場へと足を向けた。

 午後3時を告げる教会の鐘の音が聞こえた。

 


   ***


 

 その日は朝から母と叔母に連れられてギオナ公爵夫人の茶会へと赴いた。

 装いを褒め、花を愛で、悟られないよう微笑の下で言葉の裏を探る。婦人たちの茶会は情報交換の場でもあるのだ。伝える情報、隠す情報、掴む情報――。

 マルティナは繊細な彫飾りが施された扇でそっと口元を隠す。

 社交界に出られる様になった事は確かに嬉しいが、腹の探りあいは慣れそうにない。

 軽い昼食を取り、男爵邸に帰る頃には気疲れからの倦怠感でソファーにぐったりと身を沈めた。

 ふと、窓の外に目を向ける。薄曇の空は自身の心の様だと、ぼんやりと空を見上げた。

 衝動は、本当に突然小さな体を襲った。

 侍女を呼び晩餐まで休むので呼ぶまで下がっておく様に伝えた。


 自室から続くテラスに出る。そして、庭を抜けた。



   ***



 雑踏と喧騒の中をすり抜けていく。

 泥濘んだ地面。高揚する胸。切実な想いは無意識に思い出す。


 青い瞳を……。

 琥珀色の瞳を……。



   ***



 確信は無かった。

 生きている世界が違うのだから、また逢えるなど、思いもしなかった。

 

 露店と露店の間にある細い裏路地。

 その端と端で、ケフマンとマルティナは互いの姿を見つけ立ち竦んだ。

 恐怖と喜びは似ていると、2人は初めてそう思った。

 どちらとも無く足を進める。

 駆け出したのは、どちらが先か。

 理屈も理由もそこには無い。

 忘れる事など出来なかった。

  

 ああ、ただ、逢いたかっただけだと、心が叫んだ。

 

 抱き合い、身動ぎもせずに零れた涙は、触れられた事への喜びだった。


 また抜け出してきたのか? と問うケフマンに、マルティナは困った様に微笑んだ。

「だって、そうしないといけないと思ったもの」

「逢いたかった」

「はい」

 

 どのくらい抱き合っていたのか、ふとケフマンがマルティナの背に回していた腕を解き、その姿を見下ろした。

「その格好は、目立つな」

「え? あ」

 言われ、マルティナは室内着のまま飛び出してきてしまった事に頬を紅くした。

 ケフマンはただ絹のドレスが目立つと言っただけだったのだが、普段着の感覚が違う2人は指摘の齟齬に気付けないでいた。

 ケフマンは少し黙り込み1人頷く。

「少しここで待っててくれ。直に戻るから」

「え?」

 目を丸くするマルティナを置いてケフマンは市場へと走った。


 待たせた10分。待たされた10分。それがとても心細かった。


 息を切らして戻ってきたケフマンから手渡された物は薄桃色の外套だった。

 日よけに使うそれは頭から膝辺りまですっぽりと身を包むことが出来る。

 マルティナはありがとうと礼をいい袖を通した。

「時間はあるのか?」と言うケフマンにマルティナは1時間ほどなら平気だと伝える。

「わかった。それじゃあ、気になってたみたいだし市場見て回ろうか。あんたが口にするようなもんじゃないが美味い物もあるよ」

「露店というところで売っている物? 食べてみたいわ」

 そう嬉しそうに言うマルティナにケフマンは笑い返した。そして「行こうと」柔らかな手を取って歩いた。


 市場と呼ばれるここはマルティナの目には不思議で一杯だった。

 布を売っている店、代筆屋、菓子を売る店、果物が並んだ店。怪しげな薬屋の前では淫薬はいるかい? と片目を瞑られ、何だろう? と悩んでしまった。ケフマンに肩を引かれてその場を後にしたが「なにに使うお薬なの?」と聞いても「知らなくていい」と言われ首を傾げた。

 そしてケフマンから手渡された温かい食べ物にマルティナ目を丸くした。これは? と思いケフマンを見上げると美味しそうに頬張っており、マルティナはますます目を大きく開いた。

 歩きながら食べるなど考えた事もなかったが、仄かに漂ってくる甘い香りに食欲をそそられ口にした。

 薄く焼いたパン生地に木苺のジャムを塗った素朴な味わいの菓子は、マルティナのお気に入りになった。


 1時間ほどの逢瀬は幸福な時だった。

 初めて逢った時と同じ馬車を見つけて、ケフマンに手を貸され乗り込む時に、もう帰らなくてはいけないと、胸の奥が萎れたように痛んだ。

 大きな手を離す時、無意識にぎゅっと握り返した。


「明日と明後日、仕事休みなんだ」

「お仕事? そういえば何されているの?」

「鉄の細工。実家は鍛冶屋だけどな。今は修行で他所で働いてる」

「まあ、鉄を作っているの?」

 凄いと目をぱちぱちと瞬くマルティナにケフマンは口元を緩める。

「製鉄は別。今度、話すよ」

 今度、という、だたそれだけの言葉にマルティナは微笑んだ。

 ケフマンはマルティナの次の言葉に目を細め笑った。

「明日は家庭教師が見えられるの」だから「明後日に……」

 逢いたい。



 それから2度、ケフマンとマルティナは落ち合い、今日の様に市場を見て回ったり公園を花を見て歩いた。

 深くなる気持ちに抗う術は無かった。



   ***



「クライン。お前最近なんか良いことあったのか?」

 仕事終わり、同僚の工員に誘われて寄った酒場で言われた指摘に、ケフマンは「え?」と麦酒を呷る同僚に目を向ける。

「えって、お前最近楽しそうだぞ? あれか、やっと女出来たか?」

 揶揄かう様ににや付く同僚の男にケフマンは「そんなんじゃない」と答え酒を飲んだ。

 どうにかしたいとは、多分思っていない。彼女はまだ14だという。

「そんなんじゃない」

 もう一度、独り言の様に呟いた。

 それに彼女は、住む世界が違う人だ。本来なら逢うことすら叶わないというのに。


 世間、常識、分別、頭のどこかで鳴る警鐘。

 それでも、逢いたいと、ひたすらに想い合う事すら出来ないのなら、己の全てを海に深く沈められるほうがいい。

 路地裏での初めての出会い。それから5日後の再会。約束した逢瀬。

 全てが、喜びでしかなかった。

 一目で恋に堕ちていたと、気付かされたのはいつだっただろう?

 そんな事を考えてケフマンは苦笑する。

 出会ってまだ1月も経っていない。逢った回数もたった4度だ。

 それなのに、離れているこの時が、体を切り裂かれる様な痛みが、傍に居てほしいと懇願している。

 覆すことの出来ない愛の始まりは、何処に向かうのだろう?



   ***



 5度目の逢瀬も路地裏で。ケフマンは壁に持たれて少女を待った。

 ぱたぱたと軽い足音が聞こえ出すとケフマンは目を細め、顔をそちらに向ける。

 装飾の少ない簡素だが上質な仕立てのドレスの上に、ケフマンが買ってやった麻の外套を被っている少女。

 マルティナは路地に入った瞬間、花の様に微笑んだ。

 お互いが、ただ愛おしかった。

 

「ねえ。今日は何処に行くの?」

「時間あるのか?」

「それが、あまりないの。ピアノの授業があるから。ケフマンも夜勤明けなのでしょう?」

 眠くない? と心配そうに見上げてくるマルティナの頬に、ケフマンは手を当てた。

 身動きもせずに、マルティナはケフマンを見つめる。

 こうしている事は、とても自然に思えた。

 本当は屋敷を抜け出す事は親に、家に背く行為なのだが、止められなかった。

 ケフマンには話していないが、外壁を直している作業員に頼み内緒で出入りしているのだ。

 町を歩く事に必要な現金は前にケフマンに頼み、ブローチを1つ売って手にした。

 初めて自分の手から銅貨を支払い菓子を買った時は嬉しかった。

 子供のようににこにこ笑うマルティナを、ケフマンは目を細めて見つめていた。

 そう、今の様に……。


「見てみたい所はあるか?」

 と、ケフマンが聞いた時、その後ろから「クライン?」と怪訝な声を掛けられた。マルティナを庇う様に背にし、振り向いた先に居たのは鉄細工工場の親方だった。

 イーカイはケフマンの後ろにいる少女に気付き眉を寄せる。

 外套で隠しきれていない少女の足元は、庶民では到底買えそうに無い繻子の靴。

 ケフマンの苦い顔に、しばらく動けなった。



   ***


 

 ケフマンの勤め先の長だというイーカイと名乗った男性に連れて行かれたのは、彼の自宅だった。あの場では目立ち過ぎると、硬い表情で言われた。

 古びた木で出来た家はオートナー男爵家の馬小屋よりも狭かった。マルティナは珍しそうに家の中を見回した。

 普段ならば絶対にしない所作だ。

 イーカイはマルティナの様子に苦笑しつつ椅子を勧めた。

「あばら家で悪いな。クライン、裏に家内が居るはずだ、呼んで来てくれ。茶が欲しい」

 頼まれて、ケフマンは渋い顔を向けた。

 大人しく椅子に腰掛けているマルティナを横目で見て、溜息をつき「わかりました」と裏口に向かった。

 ぱたんと軽い戸の閉まる音を確認し、イーカイはマルティナに向き直る。

「お嬢さんは、見た所貴族の令嬢のようだな?」

「はい。オートナー男爵の娘です」

 恥じることも、臆する必要もなく、マルティナは答える。

 イーカイはふうと深い息を付きこめかみを揉んだ。

 一時期、顔色が悪かったクライン。休みを取らせてからは血色も良くなり、普段通り真面目に意欲的に働いていた。

 女が出来たみたいだなと、おどけた様に聞いたのはどの工員からだったか……。

「貴族の娘と逢引など……身の破滅だ」

 呟かれた言葉にマルティナは体を強張らせた。

「なあ御令嬢。惚れたはれたの事情を聞く気はないが、あれの事を思うならもう会うのは止めてくれ」

 硬質な声音にマルティナは混乱する。

 どうしてでしょうか? とは聞き返せない。

 イーカイはこめかみを揉んだまま話を続ける。ケフマンが戻る前に終わらせなくてはいけない。

「貴族の令嬢に、俺ら労働階級が手を出したとなればただでは済まん。見た所そう深い関係ではないだろう? 御令嬢、目を覚ましなさい。こことは生きる世界が違う。娘に送らせる。男爵様にばれる前に止めなさい。それがクラインと、御令嬢自身の為だ。あれは俺の工場の大事な職人だ。貴族といざこざを起こさせる訳にはいかん。」

 分かってくれと、早口で畳み込まれ、マルティナは動けなかった。


 程なくして、ケフマンが戻ってきた。

 沈んだ空気に胸騒ぎがした。そして。

「彼女は?」

「……娘に駅馬車まで送らせた」

 その答えにはっとして、ケフマンは玄関に急いだ。

「クライン!」

 制止の声に唇を噛む。

「あの子は貴族だ。生きている世界が違う。あの子はまだ若いだろう? ただ市井が珍しかったに過ぎん!」

「…………」

「温室育ちの人間の気まぐれに付き合って身を滅ぼすつもりか?」

 諦めろと、静かな言葉が耳に付いた。

「諦める?」

 繰り返し聞き返された言葉にイーカイは頷く。

 ケフマンは、握り締めた拳を、壁に叩き付けた。

 血が滲んだ拳は、じんじんと現実の痛みを教える。

 体の奥に澱のように沈む痛みは、何を伝えるものなのだろう?

「最初からそんな事は分かってる」


 5度目の出会いで、世界が消えてなくなった。



   ***


 

 薔薇が咲き乱れる庭園にテーブルを出し午後のお茶を口にする。

 風が吹くたびに舞う紅い花びらを、ぼんやりと見やる。

 マルティナはただ緩慢に日々を過ごした。

 イーカイが語った事は、漠然と不安に思っていた事柄だ。そして、考えないようにしていた事柄だ。

「身の破滅……?」

 傍に居たいと願う事が、ケフマンを窮地に追い込むことになるのなら、動けない。 

 むせ返る薔薇の香りに、このまま眠りに尽きたかった。


 父から、婚約が決まったと聞かされたのは、その日の夕刻だった。

 1週間後には見合いの席が設けられるという。

 相手はギルバ伯爵家の次男だという。


 マルティナは、ただ、絶望を感じた。


 彼の、ケフマンの。

 目を細めて笑う姿が恋しかった。

 壊れ物に触れる様に、優しくそっと頬に当てられるごつごつとした掌が恋しかった。

 生を刻む全てで、彼が恋しかった。


「…………」

 

 婚約が決まったという事は、余程の事が無い限り白紙に戻す事は出来ない。

 逃げる様にイーカイの家を出た。さよならも言っていない。

 マルティナは両手で顔を覆った。悲しくて悲しくて泣く事しか出来ないというのだろうか?

 もしも、本当に神がいるのなら。

「逢いたい……っ!」

 どうかこの願いを聴きいれてください。

 ひたすらに愚かで、曇りのない想いを重ね合わせる事を許して欲しい。


 

 泣き疲れて体が重かった。ずきずきと痛む頭をマルティナは軽く振る。

 そして、ペンを手にした。

 これしかない。と、この時は思った。後に激しい後悔とともに激情を呼び起こす事になるとは、まだ、知らなかった。

 マルティナはただ一言を書き記し、庭へと足を向けた。


 顔なじみになった作業員たちは、やってきたマルティナの、泣き腫らした目にぎょっとした。

 マルティナは小さく苦笑し。

「これを、イーカイという方の鉄細工工場に勤めているケフマン・クラ――」

「マルティナ、何をしているのだ?」

「……っ!」

 息を止め、振り返った先にいたのは、不思議そうに首を傾げている父オートナーと見知らぬ青年だった。



   ***



 粗末な馬車に乗せられて、連れて来られた所はケフマンの予想通り知らない所だった。

 

 仕事に向かおうと、家を出た途端に取り囲まれた。

 相手は3人。下町育ちで喧嘩には慣れている。腕力にも自信がある。どうとでも、逃げる事も出来たと思う。

 女字で『逢いたい』と書かれた手紙を見せられるまでは。

 引き立てられる様に、馬車に乗せられて直ぐに後ろ手に縛られた。まるで罪人の様だと、ケフマンは苦い笑みを浮かべる。

 笑うなと、男たちの1人に頬を殴られた。

 ケフマンは何事も無かったかのように、腕を振り上げる男を見上げる。

「男爵の使いか?」

 ケフマンの言葉にぴたりと振り下ろそうとしていた手が止まった。

 狭い馬車の中で男たちは薄く笑う。

「下民の分際で貴族に手を伸ばせばどうなるのか、身を持って知ろ」

 後ろから首の付け根を殴られて、ケフマンは崩れる様に倒れ込んだ。

 霞がかかった意識の中で、思う事は少女の事。

 自分と逢っていたと男爵にばれたのなら、何か仕打ちを受けてはいないだろうか?

 数十分後に放り込まれた物置小屋で始まったのは、力でねじ伏せるだけの行為だった。


 土が剥き出しになっている床は淀んだ湿気を伝えてくる。

 抵抗する事は出来ない。棒を、皮の鞭を、針を手にする男たちは、男爵からの命令を遂行しているに過ぎない。

 ッゴギュッ! と低い音が腕から脳髄に響いた。

 剥がされた爪。肉と爪の間に忍び込まされる針。

 浴びせられる罵声。背を打つ熱。

 これで十分懲りただろう? 高貴な貴族に集るしか脳のない下民がっ! と怒鳴っているのは誰なのか。

 額に強い衝撃を受けた。眼前が血で染まる。

 ケフマンは、ゆっくりと意識を手放した。

 青い瞳の微笑を、もう一度見たかった。それだけを思った。



   ***



 作業員に託そうとした短い手紙。

 何事か? と眉間に皺を寄せ取り上げようとする父を、マルティナは手で制し叱責された。

 取り上げた手紙を目にした瞬間、オートナー男爵の顔色が変わった。

 怯えたように青白い顔を向ける娘の腕を引き掴み、作業員の責任者を呼ぶ。

 男爵は連れ立っていた青年に詫びを入れ、マルティナを引き摺る様にして屋敷へと歩いた。


 マルティナはただじっと身動ぎもせずに椅子に腰掛けていた。

 時間はどれ程経っただろうか? 半刻? それとも1時間?

 見張り役として侍女と下男が戸口に立っている。

 マルティナは自身の軽率な行動に悔いた。ぎりっと歯を食いしばる。彼に、ケフマンに迷惑は掛かっていないだろうか? それだけが気懸かりだった。

 苛立ちを体現したかのように扉が開かれる。

 憤怒に顔を染めたオートナー男爵がマルティナへと歩み寄る。

 マルティナは震える足に力を込めて立ち上がった。父親から発せられる怒りにマルティナは怯えた。しかし、確かめなくてはならない事がある。

 マルティナは震える声で男爵に問うた。

「お父様。何をなさったのですか? あの手紙は――」

「なんという恥さらしな娘だっ! 貴族の誇りを忘れ愚民どもと馴れ合うとは。恥を知れっ!」

 荒い罵りの言葉にマルティナは身を竦めた。

「修理中の外壁から抜け出していただと?! 我が男爵家に泥を塗る気かっ!!」

「私は」

「口答えまでする気か? 貴族の娘は大人しく家長に従っておれば良いものを」

 忌々しく顔を歪める父男爵に、マルティナは、その場から動けなかった。

 町を散策していただけだと、片手で足る回数だと、彼はただ自分の我が儘に付き合ってくれただけだと、そんな言葉すら口に出来る雰囲気ではなかった。

 沈黙する娘を見下ろし、男爵は舌を打ち執事長を呼んだ。

 恭しく頭を垂れる老執事に男爵は怒りを隠しもせずに、汚らわしいものを見る目をマルティナに向けて言い放った。

「医者と尼僧を呼べ。一月足らずといえどな、孕んでおれば処理しろ」

「っ!!」


 目の前が暗くなった。眩暈がするほどの怒りがある事を、少女は初めて知った。


「自室ではなく西の客室に連れて行け鍵と見張りを付けておけ」

「お父様っ」

「これ以上、この家と自身の価値を下げるな」



   ***



 閉じ込められた客室で、マルティナは怒りと悲しみで泣いた。悔しかった。

「ケフマン」

 どうしている? 何処にいる? 自分の様に閉じ込められてはいないだろうか?


 逢いたい。曇る心は慟哭を生み、緩やかな絶望を呼んだ。

 このまま、もう2度と逢う事はないのかもしれない。そう、絶望しかけたとき、ガチャリと部屋の鍵が開いた。

 お父様? 医者がもう来たというのか?

 好きなだけ調べれば良い。恥じる事などしていない。好きにすれば良い。

 聞こえて来たのは父でもなく、若い男の声だった。怪訝に眉を顰めたままマルティナは男を見やる。

 庭で父と一緒にいた青年だ。

「初めまして姫。知らされてはいるのかな? 君の婚約者のダグラスだ」

 だから何だというのだ? マルティナは冷ややかに婚約者と名乗る青年に目を向ける。

「入室の許可をした覚えはございません。お引取りを」

 マルティナは背を伸ばし硬質な声音で言い付ける。

 全身で自分を拒む婚約者の少女にダグラスは気色ばんだ。

 ソファーに腰掛けるマルティナに無遠慮に近づく。

「高貴で汚らわしい姫君。貴女の玩具は今頃きっと壊れているよ?」

「何を?」言っているのだ、この男は――。

 青年の見下した下卑た瞳に、マルティナは吐き気を覚えた。きつく睨み付け、近づいてくるダグラスから身を引いた。

「愛らしい乙女の様な姿で、男を取り込んだ? それとも野蛮人の体がお好みだったのかい?」

 伸ばされた手に感じた本能的な恐怖からマルティナは逃げた。

 ダグラスは苛ただしげに舌打ちし、口元を歪める。

「とんだ婚約者だ。跡取り娘で無ければ破談にしていたところだよ」

 また、伸ばされた手に全身に悪寒が走る。

 マルティナはテーブルに置いていたグラスを割った。

 その破片を掴み、己の喉下に突きつけた。

「私に近づく事は許しません」

 毅然と、凛と冷えた空気の中でダグラスに言い放つ。

 少女の本気を感じ取り、ダグラスの顔色が一瞬青くなった。唾を飲み込み、肩を竦めて見せた。

「本当に困った姫だ」小柄な少女に怖気づいたなど気取らせない為に、さっと踵を返した。マルティナを見ないままダグラスは先を続ける「あの下民も今頃は貴族を汚したことを悔いているでしょうね」

「待って!」

 どういう意味ですと、マルティナは声を荒げる。ケフマンに汚された事など無い。例え深く身を重ねていたとしても、穢れではない。それはきっと喜びでしかない。

 父にもこの男にも、理解を示したくない。

 どういう意味?とダグラスはマルティナの言葉を取って返す。


「貴族の娘に手を出して何の咎もないと? ああ、心配はいらいよ、死んではいないはずだから」

 血の気を失ったマルティナの顔に、意趣返しが出来たとダグラスは口の端を歪めた。

 そしてわざとらしく音をたて扉を閉じて、がちゃんっと鍵を掛けた。



   ***



 暗闇の中、マルティナは目を開けた。

 広い室内には1本の蝋燭すらない。グラスを割った事で割れ物や先の尖ったものは全て侍女の手で持ち去られてしまった。

 罰として明かり一つ与えられず、屋敷の1室に閉じ込められ、今は深夜を回ろうとしていた。

 マルティナは立ち上がり、室内を物色しだした。

 暖炉の隅で見つけた物をぎゅっと握りしめる。

 カーテンを結んでいた飾り紐で、どうにかこうにか長く艶やかな金の髪を結ぶ。直にでも解けそうだが、屋敷を出られるまででいい。

 マルティナはごとごとと小さい椅子を窓際に置き、暖炉で見つけた火打石でカーテンに火花を移す為に必至で打ち付けだす。

 自身で髪を結んだことも、火打石を手にしたことも初めてだ。

「痛っ!」

 石を打ち損ね指が傷ついた。それでも痛みに構うことなく、マルティナは石を打ち合わせた。


 カーテンに火が移り、暫くして一気に燃え出した。マルティナは小さい椅子を窓へ向けて振り落とした。



   ***



 最初に見つけたのはイーカイだった。

 時間になっても姿を見せないケフマンに不審に思い、手すきの物にケフマンが借りているアパートまで見に行かせた。

 誰も居ないという報告に、イーカイはただ待つしかなかった。

 自宅裏から物音がしたのは日が落ちてからだった。様子を見に行くと、血に塗れてぐったりと意識を失ったケフマンが投げ捨てられていた。

 ぴくりとも動かない身体に死んでいるかと思った。急ぎ医者を呼んだ。

「だから言ったんだ! 貴族なんかと関わるなとっ」


 鍛えられていた肉体のお蔭か、暴行を加えた連中が命までは奪う気が無かったのか、命には別状はないと言われた。

 貴族とのいざこざだと知った医者が隠れられる空き小屋を用意してくれ、ケフマンはイーカイの家からそちらに運ばれた。

 薬が効いているのか、落ち着いてきた呼吸にイーカイは胸を撫で下ろした。

 水で絞った手ぬぐいで浮かぶ汗を拭いてやる。

 

 夜半過ぎ、硬い表情をした自身の娘が、1人の少女を連れてきた。

 イーカイは驚きに目を見開く。


 マルティナは薄暗い室内の片隅でうつ伏せに横たわっているケフマンを見つけ息を呑んだ。

「ケフマンっ!」

 駆け寄って、愛おしい青年の顔を覗き込む。

「何をしにきた! もう貴族は関わらないでくれっ。本当に死んでしまう」

 イーカイは苦痛に歪む言葉をマルティナに投げる。が。

「ケフマン! ケフマンっ!」

 と何度も名を呼び、ごめんなさいごめんなさいと、泣き崩れる少女に唇を噛んで言葉を堪えた。

 

 ただ逢いたかった。傍に居たかった。離れたくなかっただけだというのに!

 神よ! これが貴方から下された運命だと、仕打ちだというのなら消えてなくなれ!


 衣擦れの音がした。

 マルティナは顔を覆っていた手から面を上げた。

 薄っすらと開かれた琥珀色の瞳。

「ケフマン? 気づいたの? ごめんなさいっ……! こんな」

 そう言って嗚咽を漏らすマルティナの髪を、ケフマンは撫でた。


 ああ、こんなにも、愛してる。

  

 ごめんなさい、と何度も謝り泣くマルティナにケフマンは笑って言う。

 傷の痛みも熱の辛さも、いとしい娘の姿を見たら何でもなくなった。

 痛みも熱も恋の前では些細なことだ


「笑って……? 笑い皺のたくさんあるおばあちゃんになってほしい、君にはいつも笑っててほしいから……だから結婚しよう」


 ケフマンは目を細めて笑った。



   ***



 出立は早い方が良い。

 辻馬車を使っては足がついてしまう。夜中に動いていても疑われないようにと、イーカイが医者に頼み込み隣町まで医者の馬車を借りた。

 麻袋に持たせられるだけの金と食料、毛布とランプ、ケフマンの怪我の薬を詰め込んで2人に渡した。

 マルティナはイーカイの娘の服を貰い身に纏った。

 夜が明ける頃、隣町へと入りケフマンとマルティナはイーカイと別れた。

 最後に、何も言わずに手を貸してくれた男の姿が見えなくなるまで、2人は頭を下げ続けた。

 

 手を取り合い、国境線へと向かう荷馬車を探した。

 身体の痛みを意思の力で捻じ伏せ、ケフマンはマルティナと共に歩いていく。

 昼過ぎに、荷台に乗せてくれた農家の馬車から何も言わずに降り、山に身を隠した。

 このまま国境を越えようと言うケフマンにマルティナは頷いた。

 繋いだ手は離される事無く、険しい山道へと分け入った。

 

 この手の温もりがある限り、怖いものなど何も無かった。


   ***


 日が沈み切った時、幸いな事に打ち捨てられた山小屋を見つけた。

 風と、何より夜に活動する獣から身を守れる事に2人は安堵した。

 見咎められないように、火を焚く事は出来ないけれど、寄り添って眠れる事は何よりも、幸福なことだった。


 腕の中でまどろむ、柔らかな温もり。

 抱きしめて貰える、力強い温もり。

 泣きながら肌を重ねた。分かち合う喜びは互いが互いにとって唯一の人だと如実に語った。


「寒くないか?」

 と、剥き出しの肩を抱かれ、マルティナは頬を染めて微笑した。

「痛くないの?」

「右腕はちょっとな。後は結構平気」

 頑丈だからと笑うケフマンに啄ばむ様に口付けられ、マルティナは軽く身じろいだ。

 ふと、思い付いた様にマルティナがケフマンに問うた。

「名前、私このままじゃ直に見付かってしまうかもしれないわ」

「―― 落ち着くまで、偽名使った方が良いかもしれないな」

 くすくすとマルティナは笑う。

「なら、貴方が付けて?」

「え?」

「貴方が呼んでくれるのなら、それが私の名前だわ」

 そう囁く様に言い、マルティナはケフマンの胸に顔を埋めた。

 数分考え込んだケフマンは、じゃあと口を開いた。

「マイラ、は?」

 言われ、マルティナはぱちぱちと瞬きをした。

「それが新しい名前?」

「そうだけど、嫌か?」

「言ったでしょう? 私の名前は貴方が呼ぶものよ。あ、ケフマンはそのままでいてね?」

「どうして?」

「秘密。言わない」

 その名を呼ぶ時の幸福は、別の名前になったとしても変わる事はないだろうが、出来ればずっとケフマンと呼んでいたい。

 怪訝な顔をするケフマンにマルティナ―― マイラは悪戯っぽく笑ってみせる。


 遠くに遠吠えする獣の声がした。

 がたがたと風が窓を叩く。


 そっと。2人はそっと、互いの胸に右手を当てた。


 祝福を授ける司祭も、身を飾る花も、何も無い。打ち捨てられた山小屋で、2人はその身体を晒し抱きしめ合う。


「俺は俺の全てをかけて」

「私は私の全てをかけて」



 

 この命尽きても、あなたを愛する事を誓います。




 翌夕刻、2人はギナ皇国へと続く国境を越え、ビュードガイア王国へと渡った。


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