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第十話 離れていた十日間の出来事

 些細な日常は当たり前過ぎて、ずっと続けばいいと思っていても、強くそう願うきっかけは寂しさを感じた時に起こるのだと、初めて気がついた。

 伝えたいことが、知ってほしい事ができた。

「早く帰ってきて……」


***


 元部下であり、現王宮魔法師団長であるルーフィル・オトと共に、王宮内にある転移室へヴィルは転移した。

 9か月ほどぶりに足を踏み入れた王宮内は、肌にねっとりと纏わり付くような魔力と漂う腐臭に覆われていた。

 ヴィルは迷うことなくそれら澱みの中心へと向かい廊下を走る。その後ろからオトが続いた。

 ヴィルは硬質な声音で問う。

「結界の綻びに気付いたのはいつです?」

「30分ほど前です。第3結界まで崩れています。現在第2師団で崩壊の食い止めと補強、第3師団で補助、第1師団2班で魔法師以外の避難誘導及び1班は待機しています」

「第1,2階梯者以外は結界半径百メートル以内に近づけないように。あれの魔力にやられます。第1階梯者は中心部で結界の修復、第2は補助、第3は王宮の結界の強化、その他は各師団長の指示で城に残っているもの全員の退避誘導急いで下さい」

  師団ごとの動きではなく魔法力の強さでの指示を出され、オトは微かに表情を強張らせた。

「ヴィ」

「説明は後で。先に直接状況を見ます」

  退役し軍属ではない男は目を細めて早口に言い、走る速度を上げた。


***


 窓から差し込む朝日に目が覚めた。

 シェスカはぼんやりとした頭で今日は天気がいいのねと思い、のろのろと寝台から起きだした。

 うんっと伸びをして欠伸を1つ。まだ眠い目はがんばって閉じないようにする。

 寝巻きから橙色のワンピースに着替え、長い髪を高い位置で1つに結わう。

 堪えられずもう一度欠伸をして、前掛けを手に自室を出た。

 階下へ行くとすでに暖炉には火が入れられ、台所の竈の前では家人の中で1番早起きの祖母クレンが椅子に座ってじゃが芋の皮を剥いていた。

「おはよう、おばあちゃん」

「ああ、おはようシェスカ。起きたなり悪いけど裏から薪取ってきておくれ」

「うん。顔洗ったら取ってくるね。母さんは?」

「子供ら起こしに行ったよ」

 クレンの言う子供らとはアパートの2階にいる学生たちの事だ。ほぼ毎朝カシェが起こして回っていた。

 シェスカはわかったとクレンに返事をし冷たい水で顔を洗って頭をすっきりさせてから、母屋の裏戸を開けて薪を置いている小屋に行った。

 両手で抱えられるだけ薪を持って小屋を出るときに、中庭を挟んだ所にある石造りのアパートに目をやる。

 正確には、その1室に――。

「…………」

 昨日、突然彼は軍服を着た青年と何処かに行ってしまった。

「本当に、どこ行ったのかしら?」



 シェスカが朝食の支度を手伝い始めたその頃、ラインザル町から遠く離れた王宮の最下層部では50人の上位魔法師たちの手によって崩れかけた結界の修復作業が不眠不休で行われていた。

 オトは「もう退役している」と言い、軍服に袖を通そうとしないヴィルに食い下がりどうにか魔法着であり守護の術が施された軍規定のマントだけは羽織らせた。

 軍内にヴィルの顔を知らない者はいないが、平服で指揮を執らせるのには抵抗があった為なのだが、ヴィル本人は面倒臭げな顔をしただけだ。

 白いシャツに黒いズボンに軍服のマント姿は見慣れない分違和感はあったが、着ている本人はやはり気にした風もなく、各部から集められた報告書と随時もたらされる施術の進行状況、自身の退役後この結界に携わった者のリストに目を通している。

 黒の魔法師は知っているのだろう。この王宮深くに施された結界の正体を。

 オトはいまだに知らされていないのだ。ヴィルの後を継ぎ魔法師団全団を指揮する権限を与えられる地位に着いたというのにだ。

 施術にあたっている魔法師たちも誰1人として知らないのだろう……。


 王宮の結界は城に施されている結界の要。そう聞かされていて、違うなどと疑う事は今まで1度としてなかった。

「…………」

 オトは考え込む様に紙を繰るヴィルを見る。

 今、軍属ではないヴィルが指揮を執っているのはザイチャ国王の決定があったからだ。

『ヴィルブライン・ヴァン・カフカに今件に関しては全指揮権を与える』

 王の言葉に集まった大臣たちは誰1人、反対しなかった。

 ヴィルの魔法力が桁外れに、化け物じみている事はよく知っている。

 それでも当たり前のように軍を辞めた人間に全権を与えた事には首を捻ざるを得ない。

 この結界の中には何かがあるのか?

 オトは視線を結界へと向けた。


***


 アパートの庭にちらほらと春の訪れが感じられてきた。

 融け残っている雪の間から野花の芽が出始めている。

 シェスカは屈んでそっと芽の周りの雪を除けて口元をほころばせる。

 薄紫の可憐な花が咲くまでには早くともまだ1週間は掛かるだろう。

「さてと」と呟いてシェスカは立ち上がる。

 午後からはビアンカの家に遊びに行く約束をしていたので手土産の焼き菓子を持って自宅の庭を後にした。


「もう階段を上がり降りしても痛くはないですわ」

 しばらく前に左足首を捻挫したビアンカは頻回に見舞いに来る友人2人にそう言って、シェスカが持参した焼き菓子を摘んだ。

 ビアンカが怪我をした経緯はシェスカもミルレも聞いている。狼に襲われそうになったと聞かされた時は肝を冷やしたが、ディクリスの助けが間に合ったと知り胸を撫で下ろした。

 シェスカは紅茶のカップに口を付けながら、ビアンカのディクリスに対する態度が軟化した理由は危ない所を助けてもらったからだろうと考えた。

 そしてふと思い出したように口を開く。

「そういえば10日以上経つのにディケンズさん来ないね?」

 シェスカの言葉にミルレもそうですねと、相槌を打つ。

 ビアンカは2人が気づかない程度に眉を上げる。

「平和で良くってよ」

 ビアンカはつんと顎を反らしてお茶を飲み、シェスカの様子に首を傾げた。

「どうなさったの? シェスカ、眉間に皺よってますわよ?」

「え? よってる?」

 言われシェスカは眉間に手をやって何となく揉んでみた。

「ディケンズさんがどうかしたんですか?」

「あの馬鹿者何かしでかしましたの?」

 ミルレとビアンカ、それぞれから言われた言葉にシェスカは少し考えるように。

「ディケンズさんじゃなくて、ヴィルさんがね」

「不謹慎な事されたのなら、行って殴ってさしあげますわよ?」

 ビアンカの言葉にきょとんとしてから、シェスカは慌てて顔の前で手を振った。

「ち、ちが、何もされてないわよ! ヴィルさん変な人じゃないもの。部屋に泊まった時だってな」

 途中まで口にして、友人2人の反応に不味い事でもいったのか? とシェスカは一旦口を噤んで、恐る恐る続きを言う。

「え、っと、お兄さんみたいな人だし? 何にもないわよ? だって、ほら、ね?」

 自分で言っていて何が「ね?」なのか分からないが、シェスカは気まずい空気に冷や汗が出そうになった。

 結局、ヴィルの実家の彼の部屋で泊まった時の話を洗い浚い聞き出された後で、ビアンカとミルレから自覚が足りない危機感がない等さんざん叱られた。


 ビアンカの部屋の戸を叩こうと、手を上げたまま廊下で動きを止めた者がいた。

 もれ聞こえた内容にまだ少年らしさが残る顔をダルビーは歪めた。


***


 魔力の澱みは腐臭となって空気を穢す。

 結界の修復作業は交代で休憩を取りながら丸2日間行われている。

 崩壊は食い止められたが元の通り結界を張るには後3日は掛かるだろう。

 ヴィルは一旦区切りが付いた現場を離れ、王の執務室へとオトを伴い訪れ進行状況を報告した。

 聞き終えた王は頷き「ディケンズ中将がもうすぐ来る。聞いていけ」そう短くヴィルに言った。


 ディクリスからもたらされた報告書は半ば予想していたものだった。


 ファイゼン王国南部に国境を構えるグーナ国。

 4年ほど前まではファイゼン王国の同盟国であったその国は、王権交代時に起こった内乱が収まりをみせたのち、同盟関係を破棄し南西諸国連合への加盟を行った。

『神の理を貶める魔法師を擁する愚かなる国と同盟を結び続けることは愚政である』

 現グーナ国元首はそう宣言し、まずは自国内にいた魔法師を追放あるいは抑留した。

 当然、各国にある魔法師協会は魔法師の人権を訴えたが、グーナ国内のみの件であり無差別な殺戮が行われているわけでもなく、訴える以外は出来ずにいた。

 グーナがきな臭くなっている。以前、ディクリスから聞かされた事だ。

 反魔法師である国だ。魔法師協会に対して何か行動を起こす気かと考えていたヴィルは、いつになく低い声で呟く。

「グーナが関与していることは確かだとして、、協会ではなくビュードガイアを標的にした。 だからと言ってファイゼンを捨て置いているとは考えにくい。同時に事を構える戦力がグーナにあるとは考えにくい。――― 城の地下結界に手を出して大半の魔法師の足止めを狙った?」

「大半の、ってーより主に黒の魔法師の、だと思うけどな。結界に手を出したって事は何があるのか知ってる奴がグーナに抱き込まれて情報流してってとこか?」

 ヴィルの呟きをディクリスが引き継ぐ。

 ディクリスは両手を頭の後ろに組んで、だるそうに首を鳴らした。

 王の御前だというのに不敬とも取れるディクリスの態度にオトは眉を顰めた。

 しかし今は彼の態度よりも、その内容を咀嚼しなくてはと思い、背筋を伸ばした。




 すれ違う者たちは必ず立ち止まり頭を下げる。

 それは当然の事であり、然るべき規律だ。

 第一階梯者である事を示す赤い徽章を濃紺の軍服の襟に飾る男は暗い眼差しのまま、口元を歪めた。

「粛清されるべきはどちらか――」


***


 食べれる時に食べる。それも出来るだけ早く。有事の際の鉄則だ。

 ヴィルは用意された仮眠室でディクリスとオトと冷めた料理を胃に押し込み、冷えた茶で喉を流した。

 温かい物がほしいとは思うが仕方がない。一々給仕を呼ぶのも面倒だ。それに今はかなり眠い。

 確認だけをして寝ようと、ヴィルは口を開く。

「大まかな今後の動きとしては、結界修復。謀反人の特定・拘束。グーナとファイゼンの情報収集。ですね」

 だなと、答えるディクリスに比べオトは渋面な表情をしている。

「地下の結界は王宮の守護結界ではないのですね? いったい何があるのです?」

 硬い声でオトは2人に聞いた。

 ヴィルとディクリスは、驚いたような、呆れたような顔をして。

「知らなかったのですか?」

「地下のは封印結界。300年前の魔法実験体が殺すことが出来ずに眠らされてる」

「……は?」

 呆然とするオトを気にする様子もなく、ヴィルは欠伸をかみ殺しながら。

「人工的に魔法耐性を植え付けた動物と人間の実験体を掛け合わせて魔法生物兵器を作ろうとして失敗、けど強すぎて眠らせて封印するのがやっとだったようですね。

 今となってはどういう状態で封印されているか分かりませんからね、あれの生命反応が消えるまで封印し続ける事にしているのですよ。

 他国に知れたら問題があるので国家機密で本当に一部の者しか知りませんけどね」

 そういう事で寝ますと言ってヴィルは靴を履いたまま簡易の硬い寝台で横になる。

 呼び出されてからほとんど眠っていなかった所為か、すぐに寝息を立て始めたヴィルを見てディクリスは肩を上げる仕草をし。

「ま、そういう事で、なんかあった時にあれに対抗できる魔法師がヴィルしかいねぇから今指揮執ってるわけ。自然発生した化け物だからなこいつ」

「……化け物には化け物。機密事項保持者だからという名目で監視下にいた理由はこれですか……?」

「怪物ほっとく訳にもいかないからってのも多少はあるけどな」

「悪かったですね化け物じみてて!? 2人とも雑談するなら出てって下さい。2日ろくに寝ていないんです寝かせろっ」

 珍しく語尾を荒くしてヴィルは思いきり枕をディクリスに投げつけた。


***


 赤と青と紫。葡萄の実を刺繍で描く時は3,4色の糸を使い色合いに深みを出す。

 布の目を読んで一刺し一刺し針を通す。普段ならば意識せずとも出来る事なのだが……。

「ふぅ」

 シェスカは息をついて針を針山へ戻す。

 どうも上手くいかない。針が布の糸に引っかかってしまう。

 今のところ急がなくてはならない注文は無い。シェスカは道具をざっと片付けて階下へ行き散歩に行くと母に告げて家を出た。


 シェスカは気分転換に町の市場へと足を運んだ。

 賑わいを見せる露店を見て回ると少しは気分は晴れた気がする。

(何なのかしら……?)

 自分の不調の原因がいまひとつよく分からない。

 今日はビアンカは家庭教師が来る日でミルレは本の仕入れの為に父親と出掛けている。1人で過ごすしかない。

 他愛無い話の1つでも出来れば気が紛れるというのに。

「何から気を紛らわせたいのかしら――」


***


 疑問を持ったのは教会の書架で見た1つの資料だ。

 閲覧者を限定されているそれに書かれていたもの。

 疑問や疑惑。戸惑いと不安。悩み抜いて考えた結果がこれならば、自身にとっては正義だ。たとえ他者から悪と見なされようとも。

 ゆっくりと第一階梯者である男は歩を進める。

 がちゃかちゃと金属が触れ合う音が聞こえてきて男は後ろを振り返る。

 魔法具を入れた箱を運んでいる下士官が廊下を走ってきている。

 触れ合って不快な音を立てる魔法の道具。使われているのは魔法師の血肉。嫌悪に、目の前が暗くなる。

 まだ若い20歳ほどだろう青年は急ぐ廊下の先に上官の姿を見つけ立ち止まり敬礼する。

 所属と階級と名前を告げるために青年は口を開く。が、男のほうが先に言葉を発した。

「暗黒の水面にたゆたいし純然たる力よ」

 陰鬱と紡がれる呪文。青年は理解出来ずに上官である男を見返す。

「我が血は祖を制するものである」

 甲高い音を立てて青年の腕から魔法具を入れた箱が落ちる。青ざめた顔で防御結界の呪を唱えだす。

「我に従え・爆鞭蠢破ガラク

「っタモナさ」


 青年の言葉は最後まで続くことは無かった。


 男は―― タモナと呼ばれた魔法師軍の将官である男は、生温かい、飛び散った赤黒い液体と肉片を侮蔑を込めて見下ろした。

「粛清されるべきはどちらだ……?」



 全力疾走が出来ないことに苛立ちを覚える。

 息が上がってしまうと呪文が途切れてしまうのだから仕方がないのだが、焦りを抑えることが出来ない。

 城内で兵の他殺体が発見されたという知らせを受けヴィルたち3人は、魔法生物を封印している地下へと足早に向かっている。

 魔法師の殺害が目的では無い事は明らかで、結界崩しを行った者と同一人物である可能性が高い。

 地下に転移不可の呪具さえなければ一瞬で移動できるのだが、ヴィルは舌打ちを堪えて口をきつく結ぶ。

 戦闘になることは必至だろう――。


***


 シェスカは手のひら大のパンケーキに蜂蜜をかけた菓子を1つ買い、市場近くの公園で休憩をすることにした。

 1時間ほどは歩いただろうか? 人ごみの中という事もあって少し疲れた。

 駆けっこをし遊んでいる子供たちを何となく見て、ぼんやりと息をつく。

 昨日からため息が増えている気がする。

「……お茶も買えば良かった」

 甘くて美味しいのだが、少し喉に引っかかる菓子をまた1口齧る。


 食べ終わって菓子を包んでいた紙をくしゃりと丸める。

 そろそろ帰ろうかとした時、よく知る声に呼ばれてシェスカは声のしたほうを見上げる。

「ダルビー。どうしたの、散歩?」

 駆け寄ってきたビアンカの兄にシェスカは「すごい偶然ね、こんな所で会うなんて」と続けた。

 走って来たためかダルビーは数度深呼吸して息を整えてから口を開いた。

「こんにちはシェスカ。偶然じゃないよ、探してたんだ」

 ダルビーの真剣な眼差しに、シェスカは本能的に身を引きそうになった。

 普段の陽気な彼とは違う表情に、分からない不安が胸を過ぎる。

「そう、なんだ。何? ビアンカの事?」

 不透明な不安を隠すためにシェスカは笑って聞いた。

 ダルビーは目を逸らさずに微笑み返す。

「違うよ。シェスカに聞いてほしい事があるんだ」


***


 地下室へと続く階段前で見張りをしていた兵3人が血溜りの中で倒れている。

 今度こそ舌打ちをしてヴィルたちは階段を駆け下りた。

 ディクリスが怒鳴るように言う。

「相手何人いるんだ?!」

 ヴィルは前を見据えたまま答える。

「人数はそういないでしょう。多ければ気づかれやすい。城外に何人いるかはわかりませんがね」

「俺ぜってぇこの騒動終わったら休暇取るぞ! ビアンカに愛にいけてねぇ!」

「どこかおかしくなかったですか?」

「間違ってはねぇからいいんだよ。お前は毎日会えてるからいいかもしんねぇけど! こっちは時間作るのにも必至だって」

 言われヴィルは目線だけを一瞬ディクリスに向けた。

 やりきれない視線の意味を感じてディクリスは呆れた声を上げる。

「何? お前未だに行動1つ起こしてねぇの?! かあっ面倒臭がって玄人とばっか遊んでっから恋愛の機微わかんねぇだよ! へたれ」

「今言うことじゃないでしょう?!」

「お2人とも!!」

 今まで黙っていたオトが内容に堪り兼ねて口を挟む。目が本気で怒っている。

「状況を考えて下さい! 真面目になさって下さい。でなければ。お相手の方たちに告げ口しますよ。私が知っている事全部」

 オトは狭い階段を駆け下りながらにっこり笑って言った。


 むせ返る血の匂い。

 地下結界の間に足を踏み入れて、ディクリスとオトは口元を手で覆った。

 ヴィルは無言で周囲を見渡す。

 20人分ほどの肉塊―― おびただしい赤黒い液体―― そして、結界の中心近くには。

「……タモナ魔法師長」


 ヴィルの小さな呼びかけに、赤く染まった軍服姿の男は、感情の量れない面を向けた。


***


 澄んだ空の青に雲の白さがよく映えている。

 蔓薔薇で覆われた公園の東屋にシェスカとダルビーは腰を下ろしていた。

 シェスカは小さく硬い蕾を指で撫でる。

 肌に感じる緊張に何かしていないと落ち着かない。自身から声を掛ける頃合いが掴めない。

 数分の無言が何時間にも感じた。

 ちらりとダルビーを見ると熱っぽい眼差しでこちらを見ていて、シェスカは気まずさに俯いた。

 シェスカと、名を呼ばれてダルビーを見上げる。

 ダルビーは緊張から乾いた唇を舐めてから話した。

「シェスカは、今好きな人がいる?」

 シェスカは見上げた目を丸くした。

「え?」

 ぽかんとしたシェスカの反応にダルビーは苦笑する。

「俺は、シェスカの事が好きだ」


 聞かされた告白に、体の何処かが痺れた気がした。


「言っておくけど、友達としてじゃないよ? 交際を申し込んでるんだ」

 ダルビーは不安げな、けれども熱の消えない目で続ける。

「俺の事を友達としてじゃなく、好きになってほしい」


『ヴィルの事は好いているのかしら?』

『異性としては?』


 シェスカはアスティリアから言われた言葉を、思い出した。


***


 急速に崩れだした結界を前にタモナは暗い笑みを浮かべる。

 施術に当たっていた……生き残った魔法師たちが必至で結界を張り直す為に呪を口にする。

「無駄だ」と、タモナは抑揚のない声で言う「この結界は100人の魔法師の妊婦の羊水を核にしている。ここまで崩れれば同じように胎児を引きずり出して羊水を100人分核として用意しなくては元には戻せん」

 タモナの言葉を聴きつつヴィルはオトに小声で指示を出した。オトは頷き踵を返し降りてきたばかりの階段を駆け上がっていく。

 タモナはそれには関心を示さず、結界内に目を向けた。

 そして、独白を、誰に聞かせたいのか分からない告白を続ける。

「魔法師とはなんだ? 魔法とは? 遺伝であればそれは人の進化か? ならば何故今魔法師の数が減っている?

 不必要だからだ。生の理に背いている。いずれ世界からは魔法が消えるだろう」

 タモナはゆっくりとヴィルに見る。ヴィルはじっとその暗い瞳を見据えた。

「生まれる事が理であれば、滅びもまた理。しかし、私たち魔法師は背いている。ここに何百年と封印されつつも生き残っている者も魔法師の成れの果てだ。

 ヴィルブライン、君はどうする?」

「何をでしょう? タモナ魔法師長殿」

 そう答えるヴィルの横でディクリスは、いつでも駆け出せるように身を屈めた。

「粛清されるべきものを、どう見極める?」

「……言葉遊びは好きではないのですが?」

 タモナは笑う。声を出さずに笑う。動かされた唇からの言葉はヴィルたちの場までは届かなかった。

 ただ。

「っ! ディクリス!」

「ギヒュナバル! 捕らえよ!」

 ヴィルの合図にディクリスが掛けながら捕縛の呪をタモナに向け放った。

 タモナは軽く腕を上げ、たったそれだけの動作で術を無効化にした。

 慌てたのはディクリスだ。破られるとは思ってもいなかった。いや、それはヴィルもだろう。険しい顔をタモナに向ける。

 タモナは興味がなさそうに呪を紡いだ。

肉腐溶蒸滅ガルビアル

 放たれた攻撃魔法をディクリスはとっさに床に流れていた、魔法師だった者の血を核に防御結界を張りやり過ごした。

 タモナは笑う。

「仲間の死体も呪の道具か」そう言って笑う。

「さあ、粛清を―――。

 暗黒の水面にたゆたいし純然たる力よ・我が血はそを制するものである・我に従え・爆鞭蠢破(ガクラ)

 ヴィルもディクリスも結界を張っていた。生き残った魔法師たちも―――。

 だが、意味はなさなかった。


 タモナは自身に向け、魔法を放った。

 ずたずたに裂かれ肉から血を噴出しながらタモナは笑う。

「粛清を」

 そして、結界の中心へとその身を投じた。


***


 思い出すのは優しいはしばみ色。

 話をする時、時折髪を撫でるようになった彼。

 ふとした時に目を細めて笑う姿。

 シェスカと呼ぶ彼の声。


「………あ……」

 シェスカはダルビーからの告白に小さく声を上げた。

 どうして今、思い出す人が彼なのかが思考がついていけない。

「どうして……?」

「どうしてって、ずっと好きだった。妹から友達だって紹介されてから、ね」

 シェスカの呟きを、ダルビーは自分なりに拾って言葉を返した。

(好き? あたし……)

 黙ったシェスカにダルビーは微笑む。

「答え、急がないから。真剣に考えてほしい」

  その言葉にシェスカは現実に引き戻る。

「ダルビー」

 混乱する。している。それでも、答えを今度には出来ない。してはいけない。

 好きと言ってくれたダルビー。交際をしたいと、異性として好きだと伝えてくれた、友人。

 気持ちをくれたのならちゃんと、嘘を付かずに返さなくてはならない。

「ダルビー。びっくりした。ありがとう。あたし」

 過ごす時間が当たり前過ぎて気づけなかった。なんて。

(なんて馬鹿なんだろう、あたし)

「好き、な人、いるから……気持ち、返せない……ごめんなさい」


 長く感じられた沈黙の後、ダルビーは落ち着いた声音で「ヴィルブラインさんの事?」とそっと聞いた。


 シェスカは、自分の感情に戸惑いながらも、頷いた。


***


 立っていられないほどの突風が吹きすさぶ。

 結界を完全に消すために身を投げたタモナを助ける事はもはや出来ないだろう。

 ヴィルは声を張り上げる。

「簡易結界でいい! あと少し持ち堪えてくださいっ!」

「ヴィル! ここで遣り合う気か? 城が消し飛ぶぞ! なんなんだこの圧力は」

「吐きそうなくらい濃い魔法力ですね。ここまできたら瘴気ですね」

「案外落ち着いてるな。やれるのか?」

 ディクリスの言葉にヴィルは口の端を上げた。

「さあ?」

 簡便してくれ、とディクリスが呟いた時、瓶を数個抱えたオトが戻ってきた。

 状況を見て最悪な展開になった事は聞かずとも知れた。

 オトはヴィルに駆け寄り抱えていた瓶を手渡した。

「5つだけですか?」

「修復作業時にも使いましたから。城内に残っていたものは8割方退避完了。タルズ元帥が総括しています」

 短い報告にヴィルとディクリスは頷いて返す。

「元帥も魔法師ならここも任せられたんだけどな」

「仕方ありません。あれを転移させたら後始末の指示は元帥に任せます」

 ヴィルはそう言いながら手のひら大の瓶をマントのポケットに仕舞い、うち1つを手に結界へ―― 魔法生物へと近づく。

「ここで戦闘に入るわけにはいきません。ゼダ島まで転移させます。管理基地に連絡して僕らが転移したら島に結界張るように」

 ヴィルの言葉を聴きディクリスたちは頷きオトが島の基地に通信具を使い指示を出した。

 ゼダ島はビュードガイア海域にある小島だ。主に軍の演習地として使用されている。

 そこでなら多少の戦闘も他国に知れたとしても演習だと言い切ればいい。

「ディクリスとオトは僕の援護を、残ったものは瘴気の中和を、では、行きますよ」

 ヴィルは魔法媒体用の自身の血液が入った瓶を、結界の中心、目を覚ました魔法生物へと投げつけ転移の呪文を唱えた。


 視界が広がった先に見えたのは、赤黒く爛れた皮膚とぶくぶくと醜く腫れ上がった肉を持つ体。目と思しき場所には眼球は無く穿った闇色の光があるだけだ。

 外に出たためか、押し込められた魔力で出来た瘴気は幾分かましになった気がした。

 人の大きさのゆうに数倍はあるだろう、魔法生物をヴィルたち3人は緊張の面持ちで見上げた。

「でけぇな」

「魔法力もかなりですね」

 緩慢な動きでそれが身を震わせた。人でいう額あたりに魔力が集結されていく。

「結界っ!」

 ヴィルの叫びにディクリスとオトが瞬時に防御結界を張る。

 ごうっという爆音と共に数秒視界が閉ざされて、そして見えたものは。

「っ! っだよこれ?!」

 ディクリスが毒つく。

 3人がかりで張った結界の周りは、木々1つ残らず、消滅していた。

 魔法生物は小さく震えて咆哮を上げた。


***


 家に帰ると普段と違うシェスカの様子に、祖母と母がお互いの顔を見合わせた。

 何かあったのかを聞いても「なんでもない」とか答えない1人娘を心配そうに見やる。

 その気遣いがいたたまれずにシェスカは自室へと逃げた。

 硬い木の寝台。古びた箪笥と小さな机。小物を入れている棚に刺繍の道具を仕舞っている木箱。

 歩くと床が軽く軋んだ。

 窓に近づいて、アパートを見る。誰もいない部屋。

 シェスカはほうっと息をつく。

 気を、落ち着かせなくては。

 ぎゅっとカーテンを握る。

「……早く、帰ってきて」

 顔を見ればきっと、この、わけのわからない不安や戸惑いは消えてなくなる。

 伝えたい事が、知ってほしい事が出来た。


 この感情を、受け止めてほしいと。


***


「時の悠久・無常なる刻み・慈悲無き印を結び・愚かなる者に滅びを与える・速廃腐肉枯(ヴォルベルク)!」

 振り下ろしたヴィルの指先から閃光が走る。

 間を置かずディクリスとオトの術も放たれた。が、咆哮1つでほぼ無力化される。

 魔法生物は瘴気を撒き散らしながらヴィルたちに断続的に攻撃を放つ。

 それを結界で防ぎ、あるいは空中へ飛び攻撃をかわしてヴィルたちは怪物の弱点を探る。

 転移させた場所から動かなかったそれが急に移動し始めて、ヴィルたちは背を向けないように距離を取る。

 ディクリスは冷や汗を流しながら言う。

「歩いたぞ?!」

「まあ、足みたいなのありますから歩くでしょうね。飛ばれないだけましでしょう」

 そう返してヴィルは新たに呪文を唱えだす。

 オトは防御結界を張りヴィルたちへの攻撃を防ぐ。

「先ほどの攻撃は連続しては出せないようですね」

 3人がかりで防ぐのがやっとの攻撃をそうそうされたら堪らない。

 飛行能力が無いことと合わせて、その点も助かった。

 呪文が放たれる度に島の地形が変わりはしないかと、オトは懸念するが、手加減などしていられない。

 ヴィルもディクリスもシェファ大戦時ですら使わなかった攻撃魔法を、最初からそれしか、使っていない。

 にも関わらずほとんど傷を与えられていないのだ。

 攻撃力・防御力。この封印されていた兵器の能力はどれほど高いのか……。


 ヴィルは数度目の魔法を打ち込んだ。


 耳障りな、腹に響く化け物の凶声に3人は耳を塞ぐ。


 うんざりしながらディクリスが言う。

「魔法防御力がありすぎるぞ? 物理攻撃にも強そうだし、どーするよ?」

「内側からの攻撃は? どうにかできないでしょうか?」

 続けてオトが言う。それにヴィルが考え込む様に目を凝らす。

「どうにかして残りのこれ」と血液を入れた瓶を示し「飲ませたいのですが」

 ヴィルはそう呟いて、2人を見て首を傾げる。

「あれの口、どこにあるのでしょうね……?」

 雄たけびは聞こえるが、人間なら口がある部分は爛れた皮膚があるだけだ。

「背中、とか?」

 戸惑い気味にオトか答えたら、ディクリスは舌を出しながら「気持ち悪りぃ」と零した。


 魔法生物からの4度目の物質を消滅させる威力の攻撃をどうにか防ぎ、ヴィルは目を逸らさないままディクリスたちに言う。

「攻撃がまったく効かないわけではないですから、こぶし大でいいです。あれに穴、開けられますか?」

「その瓶突っ込めるだけの大きさか? 分かった」

「はい」


 ほんの少しの時間差でディクリスとオトは魔法生物の胸に10センチほどの傷を刻む。

 ヴィルはそこに飛行術で高速で近づき、素手で傷の中に瓶をめり込ませる。

 けたたましく暴れだした化け物から直に飛び退く。

「あと3回!」

 その間にも打ち出された光の矢を、ヴィルは似た術で打ち合わせ攻撃を相殺させる。


 早く終わらせて、帰りたかった。

 身を投げた魔法師の事も眼前の魔法師のなれの果ても、その裏で動いているだろう他国の思惑も、動向も、損得も、どうでも良かった。

 真相など、どうでもいい。

 明日は、シェスカに字を教える日だ。少し難しい商業の専門書の読み解きを始める予定だ。

 彼女はとても勤勉で、学ぶ事に真摯だ。

 その姿勢はヴィルにとても好ましく映っていた。


「10分以内に倒します。いきますよ」


 粛清など、どうでもいい。

 早く終わらせて帰りたかった。


 衝突し合う剥き出しの力は、周りの緑を耐え切らさずに燃やし、腐らせ、消失させていく。

 島全体に張り巡らせた結界のお陰で外に向かう被害がない事は喜ぶべき事だろう。

 今はそんな事柄に構う余裕は無いが、頭の片隅でふと思う。

 ヴィルは素早く魔法生物の体内へ瓶を埋め込んでいく。

 先ほどから制御の難しい高等魔法を使い続けている。集中力と魔法力も体力もかなり消耗してきている。

「終わらせます」

 ヴィルは目を細めて呟いた。


「混沌たる理の根源」


 聞こえ出したヴィルの詠唱にディクリスは顔色を変えた。

「禁呪?! オト! あいつの周りに結界張れ! こっちは俺が張る」

 本来は対個体用の魔法だが、余波として広範囲に数万度の熱風が来るそれは対多数用にも用いられていたが、効果範囲内に何も残らない事から魔法師協会から禁呪扱いを受けている。

 使いこなせる魔法師自体もほとんどいない程の高等魔法だ。


「全てを支配する脈・深き彼方より受け継がれし獄」


 人としての理性など、持ちえていない魔法生物はそれでも危険を悟ってかヴィルに向けて連続して光の矢を放つ。


「祖は共にあるものである・祖は内にあるものである・祖は魂である」


 オトがヴィルの前に障壁を張る。

 ディクリスは敵の気を逸らせる為に火球を放つ。


「紅き闇の煉華(れんか)よ・我が意に従い我に背く者を滅せよ」


 ヴィルは飛行の術を制御して兵器として誕生させられた生物へと一気に突き進んだ。


光愚死授業火塵ゴードヴャヤスファーラっ!!」



 早く終わらせて、彼女の笑顔が見たかった。

 何処へ行くとも言わずに出てきてしまった。

 心配を、少しでもしてくれているだろうか……?


***


 夜、眠る前に自室にある暦表の日付を翌日へと合わせる。

 シェスカはこの数日、落ち込んでいるのか浮き立っているのか分からない感情に戸惑いながら過ごしている。

 ダルビーからの告白から、随分自身の中の想いと向き合ったと、そう思う。

(10日、か……)

 1週間ほど前に彼から手紙で「後3,4日で帰ります」と連絡が着たが、まだ帰って来ない。

 シェスカはぎゅっと下唇を噛む。

 焦らずに冷静に考える時間。そういう意味では良かったのかもしれないが、この感情は考えてどうなる物でもない事も理解している。

 損得抜きで、感情で、好きだと、気付いた。

 初めて持つ心の動きは、心地よい緊張と切なさを自覚させた。


「…………っ?!」

 窓から見える石造りの建物の1階。その1室に明かりが灯った。

 シェスカは跳ね上がる胸を両手で押さえて、駆け出した。



 10日ぶりに戻った自宅は、冷えた空気にしんとしていた。

 ヴィルは角灯 に火を入れて、暖炉にも火を入れるか少し考える。

 首都よりもまだここは寒い。

 しかし体のだるさが酷くて、暖を取るよりも眠りたかった。

 それに、この時間だと流石に会いにはいけない。

 もう深夜だ、あと少しで日付が変わる。

 帰ってきた報告は明日の朝一番にしよう。そう思って寝室へ向かおうとした時、台所の横の、裏庭へと続く戸が叩かれた。


 まさか、という期待と不安。

 裏戸から来るのは、今のところ彼女だけだ。


 ヴィルは気だるさを忘れて、戸を開けた。



 冷えて澄んだ初春の夜の空気。

 その中で佇み、こちらを見上げる少女。

 一瞬泣きそうになった顔が、照れたような、笑顔に変わった。


 シェスカは高ぶった感情を必至で抑えて微笑む。


「おかえりなさい」


 些細な日常は当たり前過ぎて、ずっと続けばいいと思っていても強くそう願うきっかけは寂しさを感じた時に起こるのだと、初めて気がついた。


 顔を見たら全て消えた。つらつらと考えていた事も全部。


 ああ、傍にいたいだけなんだわ。


 微笑むシェスカに、ヴィルは数度瞬きし。


「ただいま」


 そう、笑って返した。


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