Ⅰ
三月二日
春だった。
「春」という名にふさわしい日だった。
僕は静かな住宅街の一軒家に住む
櫻は今年も晴れ晴れしく開花し、河の水はきらきらと光を放っている
窓から見える光は視界だけのあたたかさで熱はこれしきもない
この町に生まれこの家で育ち、もう年も二十だ
十代との別れは予想以上に淋しく、大人に成りたくないという心情が浮き彫りとなり、
俗名も付けられている軽い病にかかってしまったように思える
そんな鬱々とした気分の中、その心を癒すのは、恥ずかしくも、学生時代に
恋をした同級生の姿を思い浮かべることだった
制服を着た日々へ熱い想いを寄せる今
かつて少年だった僕が見た風景を思い出すのが、なんだかこの病の痛み止めのようなものになっていた
「お邪魔します」
ふとした声に顔を向ける
入口の戸を開けたまま足をぴたりと揃え黒い髪を靡かせる
十五、六の少女が、そこに立っていた
「あら、どうぞこちらへ」
母が中へ招き入れる
少女は脱いだ靴を整え、礼儀正しく僕に会釈した
つい最近、ここに越してきた家族がいたらしい
彼らが挨拶に来たとき、長女である彼女も居たそうだ
母は昔から黒髪の、色の白い人形のような少女がとても好きだった。
そのような少女の世話を焼くのが、母の趣味であった
子供は僕を含め三人とも男だったから、よく知り合いの娘を見つけては
人形のような娘を家へ連れ出し、ピアノを教えた
大抵そのような娘は高貴な家の一人娘が多く、
ピアノを習わせたいと思っている親を持っているため
都合も良かったのだ。
今そこに立っている彼女もそのひとりだ
ここに越してきたばかりだが、僕の母と彼女の母は偶然
学生時代の友人で、以前から互いの話は聞いていたので
かなり早い段階から、母は狙いをつけていたと思われる
「失礼します」
透き通ったみずみずしい声が響き渡った
僕より四、五歳程下というのに、既に地に足がついており
どこに行くにも変わらずまっすぐ前しか見ていないような
そんな印象を受けた
この時、僕の中でぼんやりとしていた十代の想い出の一部が、
急に鮮明に蘇った
穏やかな風の感触
靴下の痕がついた脚
黒い炭素の香り
水面に一滴、雫が落ちて波紋が広がったかのように、それはそれは瞬発的な衝動だった。
閉まった扉から、どこかで聴いたことのあるメロディが
弦を叩く音とともに鼓膜を刺激した