四つ葉のクローバーが幸運なんじゃない。きっと、幸運を持ってたから見付けられたんだ。
暗闇の中に降って来る、赤、青、黄、緑に桜色。かわいらしいハート。
既に両手にいっぱいのそれは、間を開けながら、後から後から降って来る。
頭上高く三日月の様に射す光から。
こう書くと何やらメルヘンだが、僕は現在落ちた井戸の底で救助待ちだ。
落ちて来るハートは小さな女の子が手すさびに折紙で折ったもの。どうやら僕をなぐさめてくれているらしい。
かくれんぼをしていて誤って井戸にはまった僕は、助けを呼んだ。だが、遊んでいた友達とは少し離れてしまっていた為か、誰も来てくれない。
石組の井筒はでこぼこしているが、指を掛ける取っ掛かりはなく、あったとしても身体を持ち上げられる程ではない。
朽ちた井戸は鳥が運んだものか、あるいは獣か、木の枝や根が張り出している。茂ったそれらのおかげで落ちる勢いが殺されて擦り傷と軽い打ち身だけで済んだが、深い井戸の底はかげり、暗い。そして細かなそれらにすがっても、身体を引き上げるより先に千切れてしまう。
自力で上がるのは無理だった。
中学に上がりたての僕が膝を抱えてもまだ少し余裕はあるくらいの、多分一メートルあるかないかという直径の井戸は、上は高く開いているが、窮屈で息苦しい気がする。
コケ蒸してジメジメした井戸の底はカビ臭く、何かが腐った様なにおいもして閉塞感に拍車を掛けた。更にはおそらくは鳥か獣が誤ってこの中で……、と考えてしまえば、助けが来なければ自分も、とぞっとした。
どれくらい経っただろうか。声が枯れるくらい叫んだ頃、頭上の三日月が不意に欠けた。
丸いコブが二つ並んでいる。
「だあれ?」
子供の高い声だった。はふはふという獣の息づかいもして、多分大型犬も一緒にのぞき込んでいる。
「かくれんぼね?」
無邪気な声が笑う。天使に見えた。
「そうだよ。でも、出られなくなっちゃった」
「たいへんね?」
声には言葉程の緊迫感はなく、だが少しだけ気の毒そうに女の子は首を傾げる。
「そう、大変なんだ。ねえ、大人は近くにいない?」
彼女はゆるく首を振った様だ。
「誰でも良いんだ、大人じゃなくても。誰かいない?」
彼女は再び首をゆるゆると左右に振る。
友達は帰ってしまったのだろうか。僕が見つからなかったら彼らはどうするだろうと考えて、多分帰ってしまうだろうなと思う。僕が帰ったとでも考えて、メールで文句を言ってくるだろう。その内の何人かは携帯に電話をくれるだろう。
だが、僕からの応えはなくて、きっとなじるだろう。彼らは僕が空き地の裏の古民家で腐った木の板を踏んでしまった事を知らない。ましてや、それが朽ちた井戸の覆いだなんて、僕ですら知らなかったわけだし。
井戸の中は圏外だ。携帯が使えたら助けを呼べたのに。
家電に掛けてくる友達は居ない。居ても両親は共働きで、兄は県外。両親が帰るのは遅い。仕事で出掛けるのは早い。食事代を貰っているのが裏目に出て、しばらく気付かないかも知れない。いつ僕が居ないと気付くだろう。
僕は女の子を見上げる。話した感じ、この子では助けを呼ぶのは難しい気がした。
返事ではなく首を振って応える辺りも幼い。
「アリスはね~」
アリス。ウサギを追いかけて穴に落ちた少女の名前だ。
「まいごなのね」
迷子。まあ、迷子と言えなくもないが。むしろ迷い込んだというより、自分から飛び込んで好き放題引っ掻き回したという印象がある。
「でも、ライアンがいるから、だいじょぶ」
女の子の手がかたわらの犬を撫でた。
ちょっと待て。
「アリス、ちゃん……?」
「なぁに?」
女の子は身を乗り出して首を傾げる。
「待って、落ちちゃうから身を乗り出しちゃダメ!」
はあい、とアリスは首を引っ込めた。素直な良い子で良かった。
だがしかし、である。
何てことだ……。
つまり、今の話はイギリスの童話ではなく彼女自身の話なのか。彼女の名前はアリスちゃんで猫のダイアナではなく犬のライアンを従えていると。危うくリアルに穴に落ちちゃうところだったが、夢落ちな救いはないのだから頼むから早まってくれるな。
そう、現実はいつだって過酷である。遭難者が二名と一匹に増えた。
助けを呼んでもらう事も出来ない様だ。まあ、望みは最初から薄かったわけだが。
「ライアンはいいこ。おうちがわかるの」
はうす、と言うのが聞こえた。
オン、と吠えた犬がふっと消え、草を踏み鳴らす音が遠ざかっていく。
「ママがきてくれる」
アリスの背後に文字通り光が射して見える。
訂正。アリスまじ天使。救助が来る様です。
アリスは鼻歌を歌いながら手遊びに折紙を折り始め、冒頭へとつながる。
このハートは、別に色めいたものじゃない。まあ、色とりどりではあるけれど。
他にもツルにヨットにネコにキツネと、アリスは実に折紙がうまかった。いや、形は少々いびつだが、そこはご愛嬌。アリスは本当に様々な折り方を知っていた。
そして、今は何故かお気に入りのハートを大量増産中。正直、両手の平にいっぱいのハートをプレゼントされるとか、ハートがゲシュタルト崩壊しそうだ。
そして、出来ればその鼻歌はヤメて。その曲なんでチョイスした。歌詞の意味知らないからですね解ります。でも僕には不吉に響くから別の曲でお願いします。
「アリスちゃん」
「なぁに」
「別のお歌うたおうか」
「コレがいいの」
素直な天使のまさかの即答。
そんなにお気に入り!? まあ熱烈なラブソングと言えなくもないし、曲調もポップで楽しいかも知れないけども。
怖い単語も散りばめられている。
おにいちゃんがこわくないように、いっぱいおるね、と言ってくれたのに。BGMが怖いのは何故だ。何故なんだ。うん、歌詞の意味が解らないからだよね……。
「おにいちゃん、おなかすいたの?」
何でそう思ったの?
「アリスもおなかすいたけど、じゃあ、はんぶんこね」
ああ、アリスちゃんお腹空いちゃったのか。
彼女がまだ言い終わらない内にキラキラした何かが落ちて来た。
受け止めると、飴だった。光を弾いた正体は飴を包むセロファン。
何か凄いものが落ちて来た錯覚をした自分を恥じる。そりゃそうだ、アリスは小さな女の子なのであって、本当に天使だったりはしないのだし。
だが、貴重な彼女のおやつをわけてもらってしまった様なので礼を言うと、どういたまして、と間違った日本語で返された。
わ、笑っちゃダメだ、多分アリスは超ドヤ顔で言ってるけど、笑っちゃ失礼だ、凄い得意げな声だったけど耐えろ僕の腹筋!
己の笑いの沸点の低さをうらめしく思いつつ、僕は耐えきる。
彼女は幼く、よくこうして言い間違った。歌詞も間違えていて、本当にどうしようもなくおかしいし、可愛い。
自分は井戸の底に腹筋を鍛える修行でもしに来たのだろうか。
全身を包む疲労に、何かもうやりきった感がある。
アリスは素直で優しい良い子だった。
迷子の不安感が全くない。幼い為か、ライアンが親を呼びに行った為か、僕という話相手がいる為か。
女の子はいくつであっても母性愛があるという。ペットに対してであったり、人形遊びであったり、そして、窮地の人間に対してであったり。
ピンチの僕に、アリスが憐れみを感じたのは確かだろう。それで鼻歌を歌ってみせたり、折紙でなぐさめたり、自分もお腹が空いているのにおやつを分けてくれたりするのだ。
そうする事で、己の中の不安感を和らげてもいるのだろうか。
だが、ありがたかった。
暗い井戸の底で一人は、情けない事に耐え難かったと思う。
アリスが居る三日月に切り取られた光は、救いなのだ。まるで本当に光る羽を背負っている様に見える。
それがじわじわと細くなるごとに、僕の中で不安がふくらんでいく。
陽が傾いている。
落ちてからどれくらい経った?
ライアンがここを離れてからは?
知らずぐっと握る拳を開かせる様に、アリスはハートの折紙を僕に降らせる。歌や会話で僕の心に希望を注ぐ。
「おりがみ、もうない」
ごそごそポケットを探すアリスだが、もう充分だ。これ以上のハートはゲシュタルト崩壊します。
「じゃあね、おはな!」
アリスは手近の花を摘んでは井戸に落とし始めた。中には草も混じってる。子供らしい遊びにほっこりしつつもコレどうしようと思う。
ハートに引き続き今度は花がゲシュタルト崩壊の危機に。
取り敢えず貰ったハートはポケットに入れた。どこの怪盗だ。もちろん他の折紙も一緒に。
花はいいとして、草は……そういえばクローバーって食えるって聞いた事あるな。非常食になるか?
「あ。よつば!」
アリスの嬉しそうな声に、オンッと犬の鳴き声が被った。よつばパネェ!
「ライアン! ママ!」
アリスが井戸から離れ、その拍子に彼女が手放したのだろうそれがひらひらと舞い落ち、僕の手に落ちて来た。
そして大分やせた三日月にコブが三つ並んだ。
ああ、違う。四つ葉が凄いんじゃない。四つ葉を引き当てるアリスが凄いんだ。
「助けて下さい!」
そうして僕は、三日月の浮かぶ暗闇から、赤金色に染まる空の下に引っ張り上げられた。
「アリスちゃん、ありがとう!」
お礼を言うと、どういたまして、とアリスは笑う。蜂蜜色の髪を春風になびかせて、薄青の目をきらきら得意げにきらめかせて。
どうしよう、アリスちゃんまじ天使だった。
いや、人間だけど超美少女だった。
「アリスちゃんのお母さんもありがとうございました……サンキューベリーマッチ」
つたない発音に、ネイティブな英語でどういたしましてと返された、と思う。
アリスは幼いばかりでなくハーフだから日本語ちょっと間違ってたみたいだ。
母親に手を引かれライアンにまとわり付かれながら去る彼女にバイバイと手を振ると、「また、あそんでね」と手を振り返された。
「うん。でも、かくれんぼはもうこりごりだから、別の遊びでね」
きゃらきゃらとアリスは笑ったが、笑いごとではない。
きっと、笑いごとではなかった。彼女がいなければ、と見送りながら僕は思う。
僕にとって彼女がいた事は幸運だった。この四つ葉のクローバーの様に。
けれど、では彼女がいるからと言ってまた危地におちいってもいいかと聞かれたら、二度とごめんだ。
今度は普通に遊ぼう。
彼女の乗った車が見えなくなるまで見送ってから、僕は四つ葉のクローバーも折紙のハート達と一緒にポケットにそっとしのばせた。