心残り
西暦20××年12月第2週目の日曜日
日本国北関東地区某県某市
夜と朝の狭間、冬の澄んだ空気の中を、バックパックとガンケースに入った空気銃を背負いスクーターで疾走させ、通いなれた農道を通り実家へ急ぐ。
微妙に広い庭の一角、コンクリート作りの駐車スペースに愛車を置く。
「わん」
頭部から背にかけて茶色、鼻先から腹部や四肢が白い毛並みの秋田犬が、巻き尾を振りながら嬉しそうに寄って来る。
「お~、ラッシュお出迎えか、今日も土産が有るぞ」
バックパックから、犬用ジャーキーを取り出し、ラッシュの前に置く。
「よ~し、待て、まだだぞ」
「わん」
ラッシュの視線は、犬用ジャーキーに釘付けで、涎を垂らさんばかりだが、いきなり食べ始めたりはしない。
「お座り」
「わん」
声にあわせて行儀よく座る
「お手」
「わん」
差し出された右手に、左前足を乗せる。
左前足を戻して、座る体勢に戻ったのを確認する。
「おかわり」
「わん」
再び、差し出された左手に、右前足を乗せる。
最後に手を離し、お座りの姿勢に戻ったのを再び確認して
「食べて、よし」
「わん」
ラッシュは、嬉しそうに一鳴きして、食べ始める。
その様子を、楽しそうに、しばらく眺めてから実家に向かう。
「ただいま」
合鍵で、玄関を開けて挨拶しながら入っていく。
いつもの様に靴を脱ぎ、玄関から廊下、客間を抜けて居間に入る。
「いただき……あれ?」
コタツに足を伸ばし、パジャマ姿で早めの朝食を摂ろうとしていた竹島武蔵が、自分の兄(竹島大和)に気づく。
「おはよう。起きてたんだ」
食卓に上っているご飯と味噌汁、漬物、生卵。
そして、大好物の納豆 (パック未開封)が目に入り、露骨に渋い顔をしながら、朝の挨拶をする。
「あっ、おはよう。と、お帰り~」
「あぁ、ただいま。」
兄の視線に気づくと、弟は箸を置き、納豆パックを兄から遠ざける。
「で、兄貴なんか用?」
「いや、用って言えば用だけど、なんか用がなければ帰ってきちゃいけない言い方やめい」
ちょっとだけ苦笑いしながら兄弟同士の何時もの会話が始まる。
「ちゃうよ~、兄貴、この時期メッチャ忙しいじゃん。しかも納豆ダメたし~、あ、茶飲む?」
電気ケトルと急須を手に兄に問う。
「ん、あぁ、ありがとう。うん、確かに忙しいし、今の俺は納豆厳禁だ」
置手紙でも残して、借りていこう。と、思っていたが、喉も渇いていたので荷物を降ろし、コタツに入る
「だよね~、杜氏さんは辛いね。何週間ぶりの休みなん?」
弟は、手近かに会った逆さにしてあったマグカップを、コタツの上に置き手早く茶を一人分入れ、片方を兄の前に置き。
「何週間ぶりだったかな? 今日も半休だし」
「相変らず、ブラックだね~」
話しながら、余った茶を自分の湯飲みに注ぎ足す。
「その分、サマーバケーション貰ってるから、文句言えないけどな」
「ん~、社会人で夏休みは羨ましいけど、この時期の兄貴見てるとマジで引くわ~」
二人で、漬物を茶請けに茶を啜る。
「まぁ、冬はイベント盛り沢山だしな」
「……いや、兄貴のイベントと世間一般のイベントは違うと思う」
目を輝かせている兄を、冷めた目で弟は見る
「勿論、狩猟解禁だろ、仕事で麹作り、新酒の仕込みに、あっ自家製の味噌と醤油を……」
「いや、兄貴わざと言ってるだろ」
スナップを利かせて手の甲で軽く突っ込む。
「あ~、クリスマスとか、バレンタインデーとかだろ。でも、俺に関係ないし、いや冬至の南瓜と柚子湯、それに初詣に節分は関係あるな。日本人としてあれ欠かせない。海外でもやったし」
「いつも思ってたけど、兄貴は一人で好きなことだけして生きてるよね」
茶を啜りながら興味無さげに答える兄。そんな兄を弟は、溜め息混じりで評する。
「そっか?」
「大学出たと思ったら、勝手に青年海外協力隊に入って海外行っちゃうし、帰国したら大学院入って、地元帰ってきて酒造会社に就職して落ち着いたかなと思ったら、狩猟免許とって猟友会に入っちゃて、また一人暮らしを……」
ちょっと遠い目をしながら、弟は兄との過去を思い出す。
「まあ、いいじゃん。ちゃんと働いてるし、好きな事してるだけだし」
「好きな事だけ、やり過ぎだって」
兄の行く末を案じ弟は、ため息を吐きながら目頭を押さえる。
「あっ、そうそう。今日は軽トラ借りに来たんだった。午前中だけでも猟を……」
「って言うか、用って猟関係かよ」
再びスナップを利かせて手の甲で軽く突っ込む。
二人そろうと、ボケとツッコミは、日によって入れ替わるが、いつもだいたいこんな会話が兄弟の日常だったりする。
「なんだ、うっせぇな」
障子を開く音と、くぐもった声が聞こえる。
奥の部屋で、寝ていた祖父が二人の会話で目を覚まし、起きだしてきたのに、二人は気づく。
「あっ、祖父ちゃん。おはよう、お茶飲みます?」
「おはようございます」
やや不機嫌そうな祖父に、兄弟そろって挨拶をする。
「おはよう。ああ、貰おうかな」
祖父の反応を見て、弟は祖父の湯飲みを取りに、台所へ向かう。
「大和か、どうしたんだ。こんなに朝早ぐ?」
祖父は、こんな時間帯に実家に帰ってきた孫に興味を持つ。
「猟に行くので、軽トラを借りに」
バックパックとガンケースに触れながら、祖父に答える。
「猟か。いいか、くれぐれも蓮田さまの神域に入っちゃなんねぇぞ。昔は、神隠しがあったぁちゅう話だ、なんとか帰ってこれても……」
「大丈夫です。蓮田神社の神域には入りませんから」
祖父のいつもと同じ話に、微妙な顔しながら応答して茶を啜る。
「兄貴、鍵」
弟が、勝手口から軽トラのスペアーキーと、祖父の湯飲みを持ってくる。
「ありがとう。では、行ってきます」
すぐ受け取って、荷物を抱えて玄関に向かう。
最近は話が長くなって、しかも兄弟の結婚関係の話に脱線するのは、いつもの流れなので、早々に避難する。
「……大和、話が終わってねぇ」
祖父が、大和に更に話しかけようとする。
だが、
「はい、祖父ちゃん、お茶。」
「あ、あぁ」
手早く番茶を淹れて祖父の前に置き。
「俺も早く食って出かけないとね~」
武蔵は朝食を開始する。
「まっだぐ、最近の若者は……」
ブツブツ言いながら、祖父は茶を啜る。
その声を後にして、大和は猟に出かける。
何時も、何度も、繰り返していた掛け替えの無い、もう戻れない日常だった。
某刻
某所
背中を優しく叩く感覚。
時を措かずに、彼の口から、胃に溜まった空気と不快な音が小さく洩れる。
気がつくと、口の中に乳の匂いが満ちている。
「あうぇう」
『夢か』
ゲップの補助だったのだろうか、椅子に座った赤毛の乳母に、肩に掛けられる様な姿勢で抱きかかえられたまま、意識を取り戻す。
『神隠しだったのか?』
夢で見た日常の後、山の中、濃霧に包まれて気がついたら、仄暗い空間に居た。
あの空間で起こった理不尽な出来事は、思い出したくなかった。
何となくだが、目の奥が鈍く痛む感じがする。
視線を落とすと、いつも一緒の飼い犬が彼を見上げるように、お座りしている。
一瞬、ラッシュの事が脳裏に浮かび、続けざまに、兄弟、両親、祖父、仕事や猟師仲間の顔が浮かんでは消える。
『あれが最後って解ってたら祖父さんに、もう少し優しくしてあげればよかったな』
頬を、一滴の涙がつたう。
「ワゥン?」
白い犬は心配そうに一声鳴く。