やさしい罠
茨の海で、対峙するひおと、謎の刺客・紫嵐
目に傷を負った紫嵐は、氷魚の前から一時、姿をくらませ、市井に潜伏した。
自分は、狙われている!
誰かは分からないが、自分を狙う者がいる!
走って、どのくらい走ったのか分からなくなった頃、氷魚は、足を止めて息を整え、顔をあげた。
そこは、鋭利な棘を持つ茨が茂る、草原だった。
どこなのかは、全く分からない。
けれど、かなり、瑪瑙の村から離れたのは確かだろう。
「ふん、あの邪魔な男も、今はいない。この間の続きといこうか」
「あんた…どうしてあたしを狙う!?」
氷魚は一歩、後じさる。
目の前にいるのは子猫だが、油断はできない。
「どうして、ね…訳も知らないで、死ぬんじゃ可哀相だから教えてやるよ。あんたが邪魔なのさ、憎んでいるお方がいる。あたしは、その命令に従っているだけさ」
猫は、ニヤリと顔を歪ませて言った。
「あたしが、邪魔!?」
「そうさ!だから、さっさと終わらせておくれっ」
子猫は一瞬にして、まるで、伏せていた場所から起き上がるようにして、茶色の毛皮をした豹に変わっていた。
それは、間髪入れずに飛びかかってくる。
「くっ!」
氷魚は、背を向けて逃げる、生憎、まわりに武器になりそうな物は、一つも見当たらなかった。
彼女の白い頬に、手足に、無数のかぎ裂きができていく。
(なにが、なにが剣士の血よ!こんな時にこそ、役に立ってくれたっていいじゃないのっ!)
「っ痛!!」
氷魚は転んだ、足に、鋭い痛みが走る。
「もうお終いかい?手間どらせやがって、フン…もう、逃げる力も残ってないってのかい」
氷魚は、じっと豹をにらみ据える。
もう、後戻りはできない、やるしかないのだ。
彼女の中を、急速に、走馬燈が巡っていく。
氷魚は、豹に向かって走り出した。
「なっ!?」
豹は一瞬、身を低くしたが、間に合わなかった。
氷魚は、豹を殴り倒すと、とんぼを切って、離れた場所に着地した。
両者は、じりじりと間合いを狭めながら、対峙する。
「殺される…ここで、死ぬわけにはいかないんだ!」
「貴様ァ…よくも顔を剥いたな!」
グルル、と豹が牙を剥いて唸る、身を低くして構え、腕を振り上げたのは、両者ほぼ同時だった。
いや、氷魚の方が、数秒か豹を上回っていた。
「うっ!」
氷魚は、豹の、鋭利な爪ににはね飛ばされ、茨の上に倒れ込む。
「ぎゃぁぁ――――っ!目がっ、目がぁぁ!?きっ、さまあぁ…いつか、いつか絶対に覚えておいで!」
砂嵐を起こし、豹は、一瞬のうちに消えた。
「いた…痛っ、ここ…どこなんだろう」
痛む足を引きずり、氷魚は、茨の原を離れた。
彼女の手足の傷は、すでに、かぎ裂きと呼べるものではなくなっていた。
彼女の歩いてきた後には、夥しい血糊が、跡となって続いていた。
「瑪瑙…たすけ、て…誰か、誰、か」
ついに、氷魚は座り込み、彼女の傷だらけの頬を、涙が伝った。
擦り傷だらけの頬に、涙がしみた。
「瑪瑙…」
氷魚は、滑り落ちるように、弧を描いて崩れ伏した。
その脇腹は血で濡れ、止めどなく、彼女の命が流れ出している。
「あたしは、死ぬ、わけにはいかない…まだ、やることがある」
眩しいほどの空の青が、目に、痛かった。
丁度、同時の、とある衙外れ…
「たすけて、助けてください…」
血まみれの、裕福そうな身なりの娘が、道ばたで泣いていた。
目を押さえて、泣いているところに、声をかけた男がいた。
「どうしたね娘さん…ケガをしているのかい?」
「目を…どうか、助けてくださいまし」
「さ、早く掴まって、でも、一体何に!?」
「狼ですわ…赤い狼に襲われて」
「赤い、狼?と、とりあえず、ここからすぐに、私の家があります。私の家に行きましょう」
「…ありがとう存じます」
「いいえ…」
娘を助けた男は、衙はずれに住む医者だった。
「これはひどい…残念ですが、失明していますね」
「そうですか、ありがとうございました…」
「いいえ、命だけでも、助かってよかったですよ…」
「まぁ嬉しい、そう言ってくださるのね…なんて優しいお方」
「いや、そんな…」
日が差し込み、彼女の髪を照らす。
茶色の髪は、日に透けて、金色にも見えた。
「あの、お願いを…聞いてはいただけません?」
「ええ、もちろん…なんです?」
男が、茶髪の娘に、好意を持ったのは明らかだった。
「あなた、とてもきれいね、私、きれいな物が好きよ」
「え…あの?」
抱きつかれ、男は慌てる。
「あの、そういうことは…」
「私…欲しい物がありますの」
「なんです?あなたが望むなら、何でも」
「本当?嬉しいわ」
「あ…」
唇を奪われた男の、目の焦点がはずれ、男はがくり、と膝をついた。
「神経毒よ…えぐられても、痛みは感じないの。言ってもムダよね、聞いてないんだもの」
男は、事切れていた。
「まだ温かいうちにね、あんたの目を貰うわ。しばらくは代用で我慢するしかない、バカな男よ…わざわざ声なんかかけなきゃ、死ぬこともなかったろうに。さぁて、目も戻った、あの女、今度こそ息の根を止めてやる!」
男の、部屋の窓の隙間から、茶色い毛玉が落ち、それは、小股で歩いて角を曲がる。
しかし、そこに子猫の姿はなかった。
氷魚の意識は、急速に浮上した。
どうやら、自分は走っているようなのだが、ここが、どこなのか分からないのだ。
ひどく、殺伐とした景色ばかりが過ぎていく。
まわりには、草はおろか、生き物の気配すら、感じられなかった。
帰らなければ―――‐
帰らなければいけない…瑪瑙の元へ。
今の彼女が願うのは、ただ、それだけだった。