息子を置いて嫁いでほしいなら、最初からそう言ってください
息子が寝るはずの部屋には、きれいな朝食卓が置いてあった。青い皿が二枚。椅子が二脚。窓からは、ニコが楽しみにしていた時計塔のてっぺんが見えた。
「ね、お母さん。ぼくの本は持ってこなくてよかったでしょう」
私が尋ねるより早く、その子が言った。
小脇には、布の表紙が擦り切れた『九人の泥棒と大きなおばさん』を抱えている。泥棒たちが九つの頭を重ねても届かない見張り塔が出てくる。この家なら本物の塔を指さしながら読めるねと、二人で決めた一冊だった。
「どうして? ここで眠るとき、読むでしょう」
「だって、ぼくはヘッダおばさんちで寝るもの」
婚約者のヴィートが食卓に置いた小さな花瓶を窓辺へ移した。青い皿の上へ、房咲きの白い花が影を落とした。
「先にそっちから話すつもりだったのに。マルタ、驚かせてしまったね。ここは朝の食事にいいんだ。二人で少し朝寝をしても、東の窓だからまだ気持ちよく食べられる」
私はニコの頭から帽子を取った。もう落ちそうなほど後ろへずれていた。帽子を持ったまま、気の利いたことが何も浮かばなくて、いちばん知りたいことだけを聞いた。
「この子の寝台は、どこに置くの?」
「だから、当分はヘッダさんのところだよ。ニコには話したよ。おばさんの家がいいって」
ニコは小脇の本を顎で押さえ、私に六本の指を見せた。片手をいっぱいに開いて、もう片方の親指を立てた。先週まで、いくつ寝たら七歳になるかを教えてくれていた手だ。
「六つ、お月様がまんまるになるまで。ぼく数えられるよ」
私は塔の見える窓へ歩いていって、片手で窓を開けた。冷たい風が入ってきた。息をするのが苦しくて開けたのだと、自分でも少し遅れて気がついた。
半年。雨の多い秋も、冬至のお祭りも、正月に寝坊して一緒に食べる蜂蜜パンも、全部この子を姉の家にやって、ここで朝寝をする?
「この話、いつしたの。私、初めて聞いたわ」
「先週、君の店番をしたときだ。君は職人組合へ出ていた。そりゃ、母親が尋ねたら、一緒がいいと答えるだろう? だから僕が聞いてみたんだ。ヘッダさんの家は好きかって。好きだよな、ニコ」
あまりに上手に笑いかけるので、ニコも笑い返した。私の大好きな、何かできたときの得意な顔だった。
その顔で頷かれたら、私はこの子と、どちらの家がどれだけ好きかという話をしなくてはならないのだろうか。
「ニコに聞かないで。新居で三人で暮らそうと約束したのは、私とあなただわ」
窓の下の幅木に鉛筆の線が二本あった。半月前、ここへ寝台を置いたら朝日が顔に当たるかなと、ヴィートと二人で測った幅だった。私が巻き尺の端を押さえ、彼の上着の隠しからニコが鉛筆を取ってくれた。
「荷物を入れる前でよかった。明日の馬車は断ってちょうだい」
「待ってくれ。別にこの部屋でなくたって、いずれほかの部屋を片づけて――」
「ヴィート。私たち、まだ結婚していなくてよかったわ」
言ってしまうと、私の胸にも深く刺さった。
秋のうちにこの人のお嫁さんになりたかった。三週間後には、紙商通りの礼拝堂で誓いを交わすつもりだった。私がこんな言葉を口にする日が来るなんて、今朝、唇に紅を引きながら考えもしなかった。
ニコの本を私が持とうとすると、いいよ、自分で持てるよ、と手を引っ込められた。
「店まで送る。マルタ、君に黙っていたのは悪かったけど、これは三人のために考えたことで」
「いま一緒に歩きたくないの。ニコと帰るわ」
階段をおりるとき、靴の底が二足ぶん鳴った。もう一足ぶんが追ってこないうちに、私は門を出た。
公国の役所裏にあるその家から、私が切り絵の店を出す紙商通りまでは、歩いて四半刻ほどだ。行きはニコと道々、金の尖塔がいくつ見えるか数えた。帰りには一つも目に入らなかった。
いつも毛の長い犬が昼寝をしている橋のたもとで、ニコが私の袖を引いた。
「お母さん。ぼくが帰りたくなったら、結婚はだめになるの?」
冷たい手でいきなり胸を掴まれた気がした。誕生日の絵を朝ごはんより先に描いてもいい? 明日は卵を二つ食べてもいい? 昨夜寝かしつけたとき、この子が私に聞いたのはそういうことだった。いつからこの子の明日の予定に、母親をひとりに戻さない仕事が入っていたんだろう。
「帰りたくなったら、いつでも帰っていいわ。ねえ、帰ってきたらお母さんが結婚できないって、どうして思ったの?」
「お母さんは結婚したいよねって。ぼく、したいと思うよって言ったよ。したら毎日お花を買ってもらって、寝るときも楽しいから。じゃあ少しのあいだおばさんちの子みたいにできるかって」
去年ヴィートが、花を三日続けて届けてくれたことがあった。花瓶が足りなくなってミルク壺にまで挿して、私は毎晩あの子に、一輪ずつ好きなものを枕元へ選ばせた。私があんなに嬉しそうだったことをニコはちゃんと覚えている。その私のために、自分をどこへしまっておけばいいか考えたのだ。
「私が結婚したいときも、花が欲しいときも、そのためにあなたがうちからいなくなる必要はないの。自分のおうちでしょう、最初から」
「六つ数えなくても?」
「今夜も、明日の晩も、そのあとも。私だって帰ってきた家にニコがいるのが好きなんだから、頼まれたって半年も貸さないわ」
ニコは私をじっと見てから、本を渡してきた。重たかった、と言って右の腕をさすった。ずっと我慢して持っていたのだ。受け取ってようやく、私は道端で声を殺して泣いた。
ニコが心配して、結婚したかったからかと聞いた。私は鼻をかんで、そうよと答えた。
「好きだったからね。悲しいんだわ。私、帰ったら鼻の頭が真っ赤だと思うけど、笑わないでね。あなたがおばさんの家へ行っても、この鼻は治らないんだから」
「笑わないよ。お母さん、本は持っててね」
そこは抜かりがなかった。分厚い泥棒の本を片手に、ようやくもう片方の手をつないで、私たちは橋を渡った。
* * *
姉のヘッダはうちの店の奥で、七つの小さな窓をくり抜いた額を磨いていた。毎年ニコの誕生日に一枚、私が息子の横顔を切る。ひとつ、ふたつと増えて、七歳になる今年は、七枚並べて掛ける額を作ってくれたのだ。
「うちの子になる? 初耳よ。いつも通り麦団子を揚げる日なら、顔を出してちょうだいね」
姉はそう言ってニコの鼻先を指でつついた。預かる当人にすら話をしていなかったのだ。ニコは店の戸口から額のところまで駆けていって、いちばん端の穴を指でなぞった。
「これなら、二人入る?」
私がどうして二人なのと聞くと、ニコは姉に向かって、しーっと口に指を立てた。姉は長い人差し指を唇に当てた。二人で内証にしていることなら待とうと思った。
私は階上の押入れを開けた。いちばん前にニコの冬の外套があった。小さく畳んで、荷造り用の赤い紐をしっかりかけてある。襟の隙間から木の犬の尻尾が出ていた。寝るときに枕の下に入れる、不格好な尾っぽの犬だ。
どうやったら外れないの、と昨日聞かれた結び方だった。出がけに帽子を探したときは気づかなかった。外套には私が手伝わずに書いた荷札が結んである。「へった」の最後の字に、あとから大きな濁点が足してあった。
座り込んで、すぐにほどこうとして、手を下ろした。勝手に決められたことを、私まで勝手になかったことにするのは嫌だった。
「ニコ、あとで木の犬を救出してちょうだい。暗いところに飽きたって」
「ほんと?」
下から声が返って、たちまち階段が鳴った。子供が息を弾ませて上がってくる音を聞いていたら、腹の底から怒りがわいた。私がこの音を聞きながら商いをし、夜、店を閉めてあの子に毛布を掛けるのをどんなに好きか、あの人は見てきた。それを半年手放す程度のことなら自分が決めてよいと思っていた。
夕方、ニコは犬をポケットに入れ、姉の家へ額の留め具を取りに行った。今日は夕食までに戻る、二人ともそう言って出ていった。いつも通り私が留守を預かっていると、店の呼び鈴が鳴った。
ヴィートが一人で立っていた。額に汗を浮かべ、赤銅色の髪が一筋、頬にかかっていた。手を伸ばせば直せるのにと思ってから、そんな自分が情けなくなった。どうして傷つけられたその日にも、この人がきちんと男前に見えるんだろう。
「今なら、私から聞きたいことを聞けるわ。半年間ヘッダの家で暮らしたいって、あの子のほうから本当にそう言ったの?」
店の椅子を勧めた。彼は椅子を一度手前へ引いたが、座らなかった。
「ニコは前から、ヘッダさんの家にいつまでも泊まりたいと言ってたよ。あそこには木切れも釘もいっぱいあって」
「私だって姉さんの作る団子の日にはそう思うわ。ね、ヴィート。私がここで、ニコは今朝になるまで行きたがっていたって、一緒に言ってあげるのを待ってるの?」
彼は答えなかった。私は戸口の札を裏返した。好きな人にどうしてそんなことをしたのと聞くときぐらい、誰かが飛び込んできて私の代わりに怒ったり、彼の代わりに理由を探したりせずにいてほしかった。
「朝、二人で食べることを、僕は本当に楽しみにしてたんだ」
しばらくして彼は言った。
「ニコは君を見つけたら、どんなときでもいの一番に君のところへ走ってくる。僕たちが何の話をしていても、君は笑って両手を広げるだろう。あの家では一度でいいから、いちばんに僕のほうへ来てほしかった」
いつのことだろうと思った。思い当たる日があまりにもたくさんあった。
私だって二人でいるのが楽しかった。客が引けたあと、届いたばかりの色紙をヴィートと透かして見るのが好きだった。青い紙の向こうに彼の鼻先が真紫に見える。とても上等な葡萄がなりましたね、房ごといかがですかと囁いて、軽くその鼻をつまむ。階段を鳴らさないよう靴を脱いで下りてきたニコに、ある日、口づけまでしっかり見られた。
あの晩はけんかもした。二人のときに下りてきてはいけないとあの子に言ってくれと頼まれて、私は、聞きたいことがあるのに黙って朝まで寝ていろとは言えないと腹を立てた。翌日彼が小さな靴下を買ってきて、これなら忍び足でも足が冷えないぞと履かせたから、私も一緒になって笑った。
靴下を買ってくれた人と、二人きりにしてほしいと頼んだ人は、はじめから同じ人だ。私は好きな方だけ覚えていた。
「二人で過ごす朝がほしかったら、私にそう言ってくれればよかった。私も、あなたと過ごせる晩を楽しみにしてたのよ。夫を亡くしてから、子供を寝かせたあとの階段を歌いながら下りるなんて、一度だってなかった。あなたに会えると思うと、鏡だって見るようになった」
腹が立っているのに、涙が出そうだった。朝の食卓に置いた花は私の好きな花だった。これから先あの人を思い出すとき、花瓶を持つ手の美しさまで忘れないのだろう。
「でも、私には言えなかったのよね。二人きりの朝食が欲しいから半年子供を預けてくれって。それでニコに言った。マルタを幸せにするのを手伝ってくれって言えば、あの子がどんなにがんばるか知ってて言ったんでしょう!」
彼の顔が急に赤くなった。私に責められたときより、この先を自分で言おうとしたときのほうが、つらそうだった。
「父にはもう、君とニコの希望だって話してしまった。荷物を運んでくれる仲間にも。あの部屋を片づけたあとで君にいやだと言われたら、僕はみんなに何と言えばいいか……。君があの食卓を見て喜んでくれればと思ってた」
「息子を置いて嫁いでほしいなら、最初からそう言ってください。そうしたら私、求婚された日にお断りできたのに」
左手の指輪を外すとき、一度節に引っかかった。一年近くはめていたから仕方ない。彼がくれた日に、一人きりで何度もろうそくの灯りにかざした。右手で石座をひねるとようやく抜けた。彼の手のひらにそっと載せた。
このひとに選ばれて嬉しかった。私も選んだひとだった。嫌いな男を追い払うのなら、指輪ひとつ返すのにこんなに痛くない。
「ニコが私の結婚の邪魔をしないようにって、自分で冬の荷物を作ってた。あの子は今朝、私の前であんなに上手に笑ってみせたのよ。あなたが戻っていいっていうまで、きっと笑いながら荷造りしてたでしょうよ。私はそれが、怖くてたまらない」
やっと彼は椅子に座った。両方の手で指輪を包んで、青い石が見えなくなった。
「君からあの子を取り上げるようなまねをした。顔を出さないでいてくれと言いたかったのに、君が喜ぶことをしてやろうって、僕はあの子に言った。あの子は僕の言葉を信じてくれたのに。すまなかった、マルタ」
しばらく私は彼を見ていた。言いたかったのはこんなことじゃない。あなたがあの子に何を食べさせたらいいか困って、熱で寝てるその枕元へ溶けた砂糖菓子を三つ、紙ごと置いた日が好きだった。三人で生きていけると思っていた。そういう話をしたら、彼が一緒に泣いてくれることも知っていた。
たぶん私はこの人の肩に触れるだけで、彼をこんなに悲しませる用事は明日でいいと思ってしまう。だから手は出さなかった。
「婚約を解消します。あなたと私の結婚の話は、ここまでにしましょう」
「せめてニコに会わせてくれないか。どうして僕がおばさんの家の話をしたのか、怖い思いをさせるつもりは少しもなかったって。あの子も僕のことは好きでいてくれたはずだ。それだけでも……」
彼の視線が階段のほうへ動いた。以前は私に会いに来ると先に上へ向かって手を振った人だった。今だって、そこから小さな手が振り返してくれたらどんなに嬉しいだろう。そのために一度だけでもと、私も言いそうになった。
「あなたを好きだったかどうかを、あなたのためにあの子に答えさせたくない。私たちがどう暮らすつもりだったのか、誰かに説明するときも同じよ。あなたがしたことは、あなたが話して。私もニコも呼ばないでちょうだい」
彼は指輪を上着の隠しに入れた。今度は私に向かって、わかった、と言った。明日運ぶつもりだった本や箪笥は、まだすべて私の家にある。彼の父親が貸してくれるつもりだった家も、そのまま返せる。話が済むまで待っていたように、時計塔が夕刻を鳴らした。
「明日の馬車は、広場まで断りに行ったけど、もうよその町へ往復の荷を取りに出ていた。帰りに寄ってもらう約束だから、僕が朝、ここで待って断る。君は出てこなくていい」
戸口で彼は一度、卓上の絵を見た。ニコを膝に載せて本を読む私を、彼が遊びで描いたものだ。まるで似ていないから好きだった。持って帰るかと聞いたら、いまはいいよ、と小さく言って通りへ出た。
私はしばらくそこに立っていた。引き出しには返せるものも残せるものもある。でもあの小さな靴下はニコのものだ。私と彼だけで片づけてしまっていいものが思ったより少なかった。
* * *
翌朝いちばんに、ニコと揃っていつもの青い仕事着を着た。ニコのは私の古着の裾を詰めたもので、一人前に大きな隠しがある。木の犬がすっぽり入った。姉のヘッダが七つ窓の額を運んできて、誕生日の仕事が始まった。
作業場の壁に白い紙を留め、腰掛けを運ぶ。ニコを横向きに座らせて、灯火で壁に映った影を細い炭でなぞる。それを小さく写し取って黒紙を切れば、七歳の横顔になる。一歳のときは昼寝の間にできたのに、六歳のときは睫毛が痒いと言って三度も私を振り向いた。
「今年はお母さんが座ってね。ヘッダおばさんが線を取るから、動いていいよって言うまでお口を閉じてね」
ニコに椅子を押しつけられた。もう一つ、低い丸椅子を姉が横へ運んできた。なるほど、だから二人入るかと額の穴を指で測っていたのか。
ここで初めて、私は自分の着ているものを見た。袖には何年も前につけた膠の白い染みがある。
「二人で入るの? そういう大変な用事は昨日のうちに教えてちょうだい。髪もこんな、適当にねじっただけよ」
「お母さんは夜になるといつもそうなるよ。朝なんだけどね」
ひどい、と言うとニコは笑いすぎて椅子からずり落ちた。まだ始めてもいない。姉は明かりをちょうどいい高さに置けそうだと言って、奥の物置へ踏み台を取りに行った。私は近くの鏡に顔を向けた。
そのとき通りで、止まれ、という声がした。店の飾り窓の下を二頭の馬の耳が横切った。たてがみに青い紐が編み込んである。町の荷馬車屋の馬だ。約束の昼まで、まだ何刻もあった。
店のほうへ抜け、作業場との仕切りを背中で半分閉めた。通りへ出る両開きの戸には、誕生日の午前中だけ休みという札を昨日から掛けてある。
「父さん、どうしてここへ?」
ヴィートの声だった。すぐ向こうにいる。飾り窓の端から覗くと、敷石の上には空荷の馬車と、ヴィートと、彼の父親が立っていた。車夫のほかに紙商仲間の男が二人、荷物を包むための古毛布を肩に掛けていた。彼らも今日は店を空けてくれたのだった。
「みんな今朝は荷揚げが早いというし、昼に手を貸すなら今のうちに済ませてしまおうと思ってな。お前がうちへ挨拶にも来ないで、馬を止めに出ていると聞いた。どうした」
戸口の鈴が少し揺れた。父親が握った呼び紐をヴィートが横から持ったからだ。子供の背にも届くよう、手を掛ける輪を少し下の方につけた、うちの店の鈴だった。
「僕がここで済ませる。鳴らさなくていい。マルタとは結婚しない。荷も運ばない」
「結婚しない? おい、子供が伯母さんの家に行くのを嫌がったのか。あんな小さい子が言うことだ、気が変わっても不思議はないさ」
父親は私と顔を合わせると必ず片手を低いところで動かして、坊主はこれくらいになったかい、と尋ねてくれる人だ。その人はまだ、気を変えた子供を宥めれば済むと思っている。ヴィートは昨日のうちに、父親にだけでも破談を話すことができたはずだ。今まで言えなかったのだと、その顔を見てわかった。
「坊主にどうしたいか聞こうじゃないか。気が変わったなら、こっちが無理に運ぶわけにはいかん。わしがこの人たちに謝って、馬の手間賃も持つから」
ヴィートの手が輪に掛かったままだった。父親は中へ入るほうへ踏み出しかけた。鳴る、と思った。私の足が戸口へ向いた。
昨日六本の指を数えたニコが、あの人たちの顔を見上げて、自分が悪かったと思ってまた何かを数えたらどうしよう。あの子を黙って抱き上げてでも、輪の中から連れ出さなくては。
「父さん。ニコは気を変えてないよ。お母さんを喜ばせてあげようって、僕が先に言った。マルタに聞いたら怒ると分かっていたから、子供に聞いたんだ」
父親の手が外れた。たるんだ紐をヴィートが壁へ戻して、鈴は鳴らなかった。
車夫は手綱を持ち直した。毛布を肩に載せたひとりが「坊主がえらいって、うちの夕べの食卓でも言っちまったぞ」と困った声を出した。一緒の茶店で昼を食べ、重い荷が来れば肩を貸し合う仲間だった。ヴィートは顔を伏せかけてから、その人に向き直った。
「来てもらって悪かった。今日の馬車代は僕が出す。うちの勘定につけないで、いま払わせてくれ」
小銭を出したのが窓越しに見えた。町の外まで行ったわけじゃない、車輪を押さえてあった半日分でいいと車夫が言った。ヴィートは礼を言い、足りない分を上着の内側から数え足した。父親はもう代わってやるとは言わなかった。帽子を取った彼が、夕べの話は違ったと仲間の家へ帰りに寄って話すよ、と言うのが聞こえた。私は作業場へ戻って仕切りを閉めた。
戸を開けて一緒に頭を下げたい気持ちが一瞬あった。私もあの人たちを知っているし、来てもらえたらどんなに助かったか、言っておきたかった。それでも戸を開けずにいられた。あとは彼が自分で話せばいい。灯りの前で、ニコが私の椅子を手で叩いた。
「お母さん、今、きれいなほう向いてる?」
椅子の上でニコが口を尖らせていた。片方の前歯が昨日抜けて、隙間からひゅっと息が抜ける。その音を出す角度を、母親の私に披露しようと懸命だった。
私は笑って、歯の隙間は横からじゃ影に映らないと言った。ためしに自分の唇を尖らせてみると、こんどはぷぷ、と間の抜けた音がした。姉が戻ってきて、朝からどこの小鳥かしらと踏み台を置いた。
「ニコ、どうして今年は私の顔も入れることにしたの。お母さんは三十二歳で、七つには少しさばを読みすぎだわ」
「だってお母さん、毎年ぼくの顔が変わったって言うけど、お母さんだって変わるでしょう。どんな顔だったか、ぼくだってあとで見たいよ」
思わずじっと息子を見た。幼いニコの顎が丸くて可愛かったと、壁を見上げて何度も話したことがある。自分だけが、誰かの小さな変化を宝物にしているつもりだった。ニコの目から、私は毎日ちょっとずつ変わっている。そのことが、胸を突き上げるほど嬉しかった。
「ヘッダ、私からも頼んでいい? こっちの耳の後ろにね、毎朝どうしても跳ねる毛があるでしょう。あれは寝かせずに描いてほしいの」
ずっと手で撫でつけて大人しくさせてきた髪だった。ニコは赤ちゃんのときから、抱き上げるとそこへ指を絡めるのが好きだった。彼があとで思い出す三十二歳の私なら、あの毛が一本くるんと出ていたって良い。
姉は心得たと頷いた。鎧戸を細く閉め、踏み台に載せた灯火の芯を上げると、白い紙に私の鼻とニコの小さな鼻が横に並んだ。どちらも頭のうしろにちょっとだけ跳ねる毛があった。
じっとしている約束なのに、私からやぶった。いとしくてたまらなくて息子の頭へ口をつけた。紙の上で二つの影が重なり、姉が炭を走らせた。
ニコの声が下から聞こえた。
「そのまま、じっと。お母さん、髪が耳に入ってくすぐったいけど、ぼく動かないよ」
「私も動かないわ。七歳、おめでとう」
できたよと姉が言うまで、私はそこに口を押し当てていた。生え際に当たる鼻先があたたかかった。
その日のうちに私は黒い紙を切り抜いた。息子の頭にくっついた私の横顔は、腕のいい職人が切ったにしてはずいぶんと鼻がぺちゃんこだった。でもひと目で分かる。これがどういう顔をしているときの母さんか。
六枚の影絵の隣に、新しい一枚をはめた。それからニコを抱き上げて壁の釘へ掛けさせた。もう片手では持ち上がらない。少しよろけた私を姉が支えて、三人でおかしくて、掛けたばかりの額まで揺れた。
あの朝食卓も、青い皿も、思い出せばしばらくは泣くだろう。きれいな二枚の皿だった。私もあの席で好きなひとと朝を過ごしたかった。
額を見上げていたら、ニコが私の耳元でひゅうと鳴いた。新しい前歯が出たら、この音はもう出ない。今のうちに教えてとせがむと、まず唇をこうして、と生意気に私の頬を両手で挟んだ。私は仕事場の鏡を引き寄せて、七歳の先生と一緒に口を尖らせた。
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