【短編】没落させられた家の再興のために侯爵様と婚約しますが、これは策略だとわかっています!
「ミレイユちゃん、これを二番テーブルにお願い!」
「はい、わかりました!」
女将のアデラの声に、ミレイユは元気よく応えた。
王都の裏通りにあるこの食堂で働きはじめて、もうすぐ半年になる。
スープを運び終えたところで、ミレイユは首元の紐に指をかけた。先に通された指輪が、掌に落ちる。子どもの頃に父から贈られたもので、屋敷を出るときに持ち出せた唯一の私物だった。
半年前、王立魔導研究所の所長だった父テオールは、実験中の事故に巻き込まれて意識を失った。開発中の結界石が暴発し、その場にいた王族が怪我をしたのだという。
責任はすべて父に負わされ、リーヴェル伯爵家は爵位を剥奪された。屋敷も財産も差し押さえられ、ミレイユの卒業資格と研究所の内定も取り消された。
病室でそれを告げたのは、兄弟子のように慕っていたルシアンだった。眠り続ける父には一度も目を向けず、彼は薄く笑った。
「残念でしたね。優秀なお嬢様」
(お父様は、実験で失敗なんてしないのに)
父は今、地方で診療所を営む伯父のもとで療養している。治療費を稼ぐため、ミレイユは王都に残って働くと決めた。資格がなければ、魔導具に関わる仕事には就けない。それでも、嘆いていても何も変わらない。
(今できることを頑張るだけ)
指輪を服の内側に戻したところで、アデラが困った声を上げた。夜に使うジャムを買い忘れたらしい。
「わたし、行ってきますね」
◇
昼下がりの広場は、観光客でにぎわっていた。中央には、父が手がけた大きな噴水がある。
子どもの頃、父は領地で図面を広げながら、この噴水の仕組みを熱心に説明してくれた。隣には、その頃領地に預けられていた同じ年頃の女の子がいて、二人で真剣に頷いていたのを覚えている。そのあと庭で小さな噴水を作ろうとして、二人そろってびしょ濡れになったのだ。
(あの子、今ごろどうしてるのかな)
そう思った瞬間、轟音とともに噴水が爆ぜた。
制御を失った水柱が噴き上がり、悲鳴が広場を埋める。ミレイユが息をのんだとき、突風とともに一人の男が水の中心へ踏み込んだ。
銀の髪に、黒い外套。彼が腕を振るうと、暴れていた水が糸を引くように集まり、噴水の中へ押し戻されていく。暴走は数秒で鎮まった。
「ヴァレンティン侯爵閣下だ!」
「さすがレオナルド様ですわ!」
歓声の中で、ミレイユはようやくその名に思い当たった。王国の魔導部隊を率いる指揮官で、父もよく褒めていた人だ。
巻き込まれる前に立ち去ろうとしたとき、横から人にぶつかられた。体勢を崩し、ミレイユは水たまりに尻もちをつく。外套の裾もスカートも、泥水で汚れてしまった。
「あら……あなた、ミレイユさんじゃありませんこと?」
扇の陰から見下ろしていたのは、アマーリエ・ローゼンヴァルト伯爵令嬢だった。学園に通っていた頃、何かにつけてミレイユに突っかかってきた相手だ。取り巻きの令嬢たちが、くすくすと笑う。
「泥水がお似合いですわね」
アマーリエの合図で、従者が銀貨を一枚、泥水のそばに転がした。
「これで服でも買いなさいな」
ミレイユは地面の銀貨と汚れた裾を見てから、ゆっくりと顔を上げる。悔しい。でも、屈したくない。
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで十分です」
にこりと微笑むと、令嬢たちは言葉を失って瞬き、やがて興味をなくして侯爵の方へ去っていった。
人目の少ない裏通りに入ってから、ミレイユは指先で術式を描いた。
「清浄」
淡い光とともに、スカートの汚れが消えていく。自分の服を綺麗にすることはできても、仕事には就けない。無資格の者が魔導具に干渉するのは、この国では重罪なのだ。
悔しさを振り払って歩き出そうとしたとき、建物の窓から男たちの声が漏れてきた。
「テオールさんがいた頃は、魔導具の不具合なんてなかったのにな」
「あの事故、今の所長が仕組んだんじゃないかって噂があるらしいぞ」
ミレイユの足が止まる。今の所長は、あのルシアンだ。
(あれが、仕組まれた事故だった……?)
ミレイユは、籠の持ち手を握りしめた。
(わたしも、真相が知りたい)
◇
数日後の昼。食堂がにぎわう最中、店の外から耳障りな金属音が響いた。
魔導具が暴走する直前の音だ。父の研究室で、何度も耳にした。
ミレイユが外へ駆け出すと、広場に止まった豪奢な馬車の荷台で、大型の魔導具が不自然に膨らんでいて、今にも破裂しそうだ。
馬車の中では、髪を金属飾りに絡め取られた令嬢が、降りられずにもがいている。
「た、助けて……!」
そこで泣いていたのは、あの日ミレイユを罵ったアマーリエその人だった。
取り巻きや従者たちは爆発を恐れて近づけず、人々も遠巻きに距離を取っている。魔導部隊の到着を待っていては、間に合わないかもしれない。
(ここで力を使えば、仕事も今の暮らしも失うかもしれない。それでも、見て見ぬふりなんてできない)
ミレイユが人垣の空白へ踏み出したとき、足元を白い影が駆け抜けた。
「きゅい!」
「リュミー!?」
肩に飛び乗ってきたのは、五年前に領地の森で出会ったウサギの魔獣、リュミーだった。
「どうして、ここに……」
「きゅい!」
家を抜け出してきたらしいリュミーは、得意げに胸を張っている。白い毛先に淡い光が宿り、乱れた魔力に呼応するように、雷紋のようなきらめきが浮かび上がった。
不思議と頭の中が澄んでいき、暴走する術式の構造だけが鮮明に見えてくる。肩に寄り添うぬくもりに背を押されて、ミレイユは馬車へ近づいた。
「あ……あなた……!」
馬車の縁にしがみついたままのアマーリエと、視線が合う。涙で濡れた瞳が、怯えと混乱に揺れていた。
「大丈夫です、アマーリエ様。今すぐ、この魔導具を止めます」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。恐怖より先に、やるべきことが頭の中に並んでいく。
(術式の流れを、まず見る)
本来は熱を一定に保つための循環術式が、揺れと衝撃で絡まり合い、逃げ場を失った魔力が内部で膨れ上がっている。
(温度制御核は中央。循環路は三重。なら、逃がす場所を作ればいい)
息を呑むアマーリエを前に、ミレイユは短く息を整えて、両手を魔導具にかざした。
「展開」
声と同時に、空中へ淡い光の鎖が走る。文字と記号で組まれた術式が立体的に広がり、幾層にも重なった内部の構造が浮かび上がった。
「……補助が多すぎる。安全のために重ねたつもりでも、これでは流れが詰まるわ」
念入りに積み重ねられた制御や補助の術式が、今は逆に器へ負荷を集めている。
ミレイユは文字を書くような手つきで、不要な術式をひとつずつ弾いていった。綻びが生じる前に、簡略化した新しい制御を即座につなぎ直す。力で押さえ込むのではなく、魔力が自然に巡る道を作り直していく。
「循環は単純に。変換は切る。保持は最低限で……これなら」
魔力の圧で空気が重く、額に汗がにじむ。それでも、指先の動きだけは乱れなかった。
書き換えるたび、膨れ上がっていた光が輪郭を失い、内側へと収束していく。最後まで確かめてから、ミレイユは仕上げの術式を書き加えた。
「固定」
高い金属音が鳴り、それが少しずつ低くなって消えていく。魔導具を包んでいた赤白い光がすっと引き、熱と振動がぴたりと止まった。
「止まり、ましたの……?」
「もう大丈夫です。髪も……はい、取れました」
金属飾りに絡まった髪を、力をかけずにほどいていく。自由になったアマーリエが、その場にへたり込んだ。
支えるミレイユの袖を掴んだまま、アマーリエはためらうように口を開く。
「……どうして、助けてくださったの? わたくし、あなたにひどいことを言ったわ。あんな態度を取ったのに」
「覚えています。でも、それとこれは別です」
言い訳も飾りもない声で、ミレイユは続けた。
「アマーリエ様が危険な場所にいて、わたしはあなたを助けられる状況でした。命や怪我は、取り返しがつかない大切なものです。アマーリエ様にお怪我がなくて、よかったです」
アマーリエは唇を噛みしめ、それから息を吐いた。
「……ミレイユさん。あなたは、不思議な方ね」
その声に、もう嘲りはなかった。
ミレイユが微笑みかけたとき、周囲からどっと歓声が上がる。
「爆発しなくてよかった!」
「誰かが止めたんだ、すごい!」
令嬢たちと従者が一斉に駆け寄り、アマーリエを取り囲む。その勢いのまま人の波が広がって、ミレイユの肩が弾かれた。
押し出されてよろめきながら振り返ると、広場は落ち着きを取り戻しはじめている。
(今なら、帰っても気づかれないんじゃないかな)
逮捕されずにすむかもしれない。
「リュミー、家に帰ろうか」
「きゅ!」
そう言い合った、そのときだった。
「魔導部隊が到着したぞ!」
人々が道を開け、揃いの外套をまとった一団が広場へ入ってくる。先頭に立つのは、噴水の前で見たあの人だ。
(確か、ヴァレンティン侯爵様……だったかな)
状況を確かめるように巡っていた鋭い視線が、ふいに止まる。ばちりと、目が合った。
隊員たちに指示を出しながらも、彼の視線はミレイユから外れない。
(気のせいではないみたい!?)
人混みに紛れようと一歩下がった瞬間、レオナルドがまっすぐこちらへ歩き出した。逃げ道は、人垣に塞がれている。
気づけば、彼は目の前にいた。
「行かないでくれ」
叱責ではなく、懇願のような声だった。伸びてきた指先が、頬に残っていた煤を丁寧に拭っていく。
「やはり、君だったか」
「な、何のことでしょうか」
とぼけた声が裏返る。それなのに、レオナルドはふっと笑った。
「ミレイユ・リーヴェル。その指先が紡ぐ奇跡を、私は片時も忘れたことはない」
胸が、どくんと鳴った。名前まで割れている。詰んでいるではないか。
「自分が何をしたのか、わかっているね?」
観念してこくりと頷くと、彼は満足そうに目を細める。
「よろしい。君には聞きたいことがある。……来なさい」
(ああ、無資格の罪で連行されてしまうのね)
しょんぼりと肩を落としたミレイユが馬車に乗り込むと、レオナルドも当然のように隣へ座る。
逮捕確定だ。しかも逃走を警戒されている。
腕の中で身を縮めるリュミーを撫でながら、ミレイユは走り出した馬車の揺れに身を任せるしかなかった。
◇
翌朝、ミレイユが目を覚ましたのは、見たこともないほど広い寝台の上だった。
そうだった。ヴァレンティン侯爵邸の客間だ。昨夜は温かな食事を勧められ、侍女に湯浴みの世話までされて、そのまま眠ってしまったのだった。
「きゅ〜!」
ふかふかの寝台がすっかり気に入ったらしく、リュミーが腕にくっついて揺れている。
(聞いたことがあるわ。あえて安心できる環境を整えて、相手の警戒を解いてから話を聞き出す取り調べがあるって)
昨夜の手厚いもてなしも、そう考えればすべて筋が通る。
「さすがは魔導部隊の指揮官……とても理にかなったやり方だわ!」
妙な覚悟を固めたまま朝食を済ませ、ミレイユは執務室へ通された。
向かいに座ったレオナルドは、父を恩師として尊敬していること、事故のときに国を離れていたのを悔やんでいることを静かに語った。
「先生は、そんなミスは犯さないはずだ」
「……わたしも、そう思います」
父の術式を誰より近くで見てきたからこそ、それだけは信じられた。
レオナルドは頷き、昨日の件に話を移す。
「無資格者による魔導具への干渉は、本来であれば違法だ。ただし、資格者の正式な監督下にある研究補助であれば、その限りではない」
「ほ、本当ですか!? わたし、働けなくなると困るんです。父の療養費も必要で……なんでも仰ってください!」
身を乗り出したミレイユに、レオナルドは軽く咳払いをした。
「君の安全を守り、屋敷に滞在する体裁を整えるため、形式上――私の婚約者として扱いたい」
「…………はい?」
侯爵家の婚約者であり、彼の監督下にある研究補助者。そう記録されれば、術式の行使は正式な研究行為として扱われるのだという。理屈は簡潔で、隙がない。
「わたしと婚約することで、侯爵様に何か利点があるのでしょうか」
「あるとも。十分すぎるほどに」
レオナルドは迷いなく言い切った。
「あの事故の真相を、私は以前から密かに調べている。君にも協力してもらいたい」
「……わたしも、真相を知りたいです!」
気づけば、前のめりに答えていた。
「よろしい。それでは、正式に婚約という形を結ぶこととしよう」
(お父様への恩義でそこまで言ってくださるなんて、侯爵様はとても善い方ね!)
こうして没落令嬢のミレイユは、牢屋ではなく、侯爵様の婚約者の席に収まることになった。
◇
半月ほど経った日。ミレイユは、なぜか王都のブティックにいた。
次々と運ばれてくる布地に、仕立て屋が採寸の手を止めない。
「あの、侯爵様。わたし、服なら今あるもので十分です」
「十分ではない。夜会用と昼の外出用、それから普段着も要る」
「でも、こんなにたくさんいただいても、お返しできるものがありません」
「返してもらうつもりはない」
言いながら、レオナルドはミレイユの耳に指を伸ばした。ひやりとした感触のあと、耳元で何かが揺れる。
鏡を覗くと、灰色の宝石の耳飾りがつけられていた。その色は、目の前の彼の瞳とよく似ている。
「これは……」
「よく似合う」
満足そうに頷かれて、ミレイユは慌てて耳飾りに手をやった。
「こ、こんな高価なもの、受け取れません!」
「君が誰の庇護下にあるのか、見せつけておく必要がある」
レオナルドは、当然のことのように言った。
「私の婚約者に、余計な手出しをする者が出ないように」
そこでミレイユは、はっと目を見開く。
婚約を持ちかけられたあの日、彼はこの婚約には十分すぎるほどの利点があると言っていた。魔導部隊の指揮官が事故の真相を追うなら、その婚約者は周囲から一目置かれる存在でなければならない。
ミレイユが役に立てるのは、侯爵様にとって都合の良い婚約者であることだ。
(そうよ。これは合理的な戦略なんだわ)
「なるほど……! 戦略的なものですね!」
「戦略」
「はい! 侯爵様の婚約者として、隙を見せないようにということですよね。わたし、しっかり務めます!」
力強く頷くミレイユを、レオナルドはなんとも言えない顔で見下ろしていた。
「それなら、ひとつ直してほしいことがある」
「なんでしょう?」
「婚約者が私を侯爵様と呼ぶのは、不自然だろう」
言われてみれば、その通りだ。ミレイユは姿勢を正した。
「で、では……レオナルド、さま?」
「……もう一度」
「え? レオナルド様」
「それでいい」
ぼそりと答えて、レオナルドは口元を手で覆った。その耳が赤いことに、ミレイユは気がつかない。
(お父様への恩義で、ここまで力を貸してくださっているんだもの。婚約者役、しっかり務めなくちゃ!)
決意したミレイユが屋敷に戻ると、玄関にはアマーリエからの詫びの品が山のように届いていた。菓子に茶葉、刺繍の見事なハンカチ。添えられた手紙には、あの日の広場でのことを詫びる言葉と、困ったことがあればいつでも頼ってほしいという伯爵の一筆まであった。
(アマーリエ様ったら、こんなにたくさん)
思わず笑みをこぼしたミレイユの隣で、レオナルドは届いた箱の山を、なぜか面白くなさそうに眺めていた。
◇
次の日。仕事から帰ったレオナルドは、ミレイユ用の研究室に淡い乳白色の結界石を持ち込んだ。
「ミレイユ。これを見てもらいたい」
「これは……?」
「宮廷の備品庫の奥から見つかったものだ。誰がいつ持ち込んだのか、どの記録にも残っていない」
「記録にないのですか?」
「ああ。そして、先生の事故のものと同じ術式系統が組まれている」
ミレイユの指先が、冷たくなった。
「わたしが、見てもいいのでしょうか」
「君にしかできないことだ。思うままにやっていい」
ミレイユは頷き、結界石を両手で包み込む。
「展開」
浮かび上がった術式を見て、息が止まった。古い組み式の上に、新しい層が無理に継ぎ足されている。文字の癖が、明らかに別の人の手によるものだ。
「……ひどい継ぎはぎです。これでは結界がうまく働かないか、逆に事故を起こしてしまいます」
「先生の術式ではない、と?」
「はい。父は古いものを無理に継ぎ足したりしません。いつも一から組み直す人でした」
言い切ったミレイユに、レオナルドは頷いた。
「直せるか」
「やってみます」
継ぎ足された層をひと筋ずつ弾き、その下の流れに沿って組み直していく。
「固定」
ミレイユがそう唱えると、結界石が内側に澄んだ光をたたえた。美しい術式だ。
「見事だ、ミレイユ」
顔を上げると、レオナルドと目が合った。
「先生が誇りにしていた理由が、よくわかる」
「……父が、わたしのことを?」
「ああ。会うたびに、ミレイユの話ばかりしていたよ。うちの娘は天才だって」
思いがけない言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。父は今も意識がなく、言葉を交わすことはできない。
前みたいに、また父と話がしたい。
そう思ったら、目の奥が熱くなった。
◇
数日後。ミレイユは例の結界石の詳細な解析結果を、レオナルドから告げられた。
「術式の書き込みには、必ず履歴が残る。だがこの結界石の履歴には、空白の時間があった。継ぎ足しが行われたのは、その間だ」
「空白の、時間……」
「その時期、先生は王都を離れて領地にいた。この書き換えは、テオール先生の手によるものではない」
ミレイユは、瞬きもできずにその言葉を聞いていた。
「……本当、ですか」
「ああ。正式な記録として残る」
事故から半年。誰に訴えても、あの事故の家の娘だと言われるばかりだった。ずっと一人で信じてきた父の潔白が、ようやく認められたのだ。
「よかった……っ、お父様は、やっぱり……」
声が震えて、続かない。胸を押さえたミレイユの前に、レオナルドは黙ってハンカチを差し出した。
「君の術式が、それを証明した」
「レオナルド様がいてくださったからです。本当に、ありがとうございます」
受け取ったハンカチで目元を押さえていると、レオナルドの手がミレイユの髪に触れた。
父の冤罪を晴らすための光が、ようやく差したのだ。
その夜、客間の寝台で、ミレイユはリュミーを抱いて天井を見上げていた。
(この事故の真相がわかれば、この婚約も終わるのよね)
戦略的な婚約生活は、真相を追うためのもの。目的を果たせば、侯爵様の婚約者でいる理由はなくなる。
寂しい。けれど、仕方がない。父への恩義さえなければ、本来は言葉を交わすこともできないほど遠い身分の方なのだ。
「きゅい?」
「ううん、なんでもないの」
見上げてくるリュミーの頭を撫でて、ミレイユは目を閉じた。
(最初からわかっていたことだもの。大丈夫よ、うん)
ミレイユは、そう思っていた。
…………のだけれど。
◇
それからしばらくして。
結界石の解析を皮切りに調査は一気に進み、父を陥れたルシアンは投獄された。リーヴェル伯爵家は爵位を取り戻し、父の名誉も回復した。
手厚い治療の結果、父もついに意識を取り戻した。それなのに、なぜかミレイユは、今も侯爵邸にいる。
今さら追い出しにくいのだろう。レオナルドは優しい人だから。
(いつまでも甘えていてはいけないわ)
ある夜、ミレイユは意を決して執務室の扉を叩いた。
「レオナルド様。少し、お時間をいただけますか」
「ああ。どうした、改まって」
書類から顔を上げたレオナルドの前で、ミレイユは深く頭を下げた。
「これまで、本当にありがとうございました。父の潔白も証明されて、父も目を覚まして、家も戻りました。もう戦略は必要ありませんから、婚約は解消していただいて大丈夫です」
言い切ってから、ミレイユは笑ってみせた。
「解消?」
「はい。わたし、最初からちゃんとわかっていましたから。形だけの婚約だって」
レオナルドは黙ったまま立ち上がり、ミレイユの前まで歩いてきた。
「わかっていた、か」
「はい! ですから、大丈夫です」
「私は、少しも大丈夫ではないのだが」
思いがけない言葉に、ミレイユは瞬きをした。
「え? まだ、警戒が必要ということでしょうか。それなら、もうしばらく婚約者役を」
「違う」
低く遮られて、手を取られる。
「婚約解消はしない。私にとって、この婚約が戦略だったことなど、一度もない」
「で、でも、見せつける必要があるって……」
「見せつけたかったのは本当だ。君は私の婚約者なのだから、手を出すなと」
アイスグレーの瞳が、まっすぐにミレイユを捉える。
「君がどんな未来を選んでもいい。ただし、その隣は、必ず私だ」
「…………はい?」
間の抜けた声が漏れる。
真っ赤になって固まるミレイユの前で、レオナルドは上着の内ポケットから何かを取り出した。
色の褪せた、一本のリボンだった。
「君が奪われたものを、すべて取り戻したら。そのときは、ちゃんと伝えようと決めていた」
その色と刺繍に、ミレイユは息をのんだ。
「それ、わたしが昔、あの子にあげた……! どうして、レオナルド様が……?」
「君に、ずっと話していなかったことがある」
――ミレイユが彼の秘密を知るのは、このすぐあとのことだった。
おわり
お読みいただきありがとうございます。すれ違っている二人という存在は私の好物です( ◠‿◠ )
ブクマや★などいただけると嬉しいです…!
この二人のお話は、長編版でも連載中です。(展開や構成は異なります)
レオナルドの秘密の詳細が気になった方は、ぜひこちらもどうぞよろしくお願いします!




