金魚救い
金魚の飼い方? 素晴らしい。漸くキミもあれの良さを理解したか。あれは良い。白い肌と、鮮やかな赤い髪。個体ごとに異なる模様。血族ごとに異なる色彩。
直ぐに死んでしまうのが難点だが、その儚さこそ、あれの価値に更なる深みを増している。
ところで、知っているかい。
金魚というのは、はじめこそ突然変異だったが、後に続くのは人の手があってこそ。交配を重ね、赤みを定着させ、色を合わせて深みを出す。手間を掛ければ掛けるだけ、彼らは真摯に応えてくれる。非人道的だと喚き散らす、愛護団体は知らないのだ。人と金魚、連綿と続く絆によってはじめて成すことができる、あの血の色の美しさを。
*
金魚の更紗は、金魚鉢に住んでいる。
金魚鉢とは、十楽寺家の別邸であり、大きな窓がいくつも連なる硝子張りの洋館だった。
その館の一際大きな天窓から、たっぷりとした陽光がこぼれてはじけ満ち満ちる朝。あかるく照らされたホールに舞うのは、ひらりと朱い一人の少女。彼女は金魚。常人より白い肌と、朱色の髪を持つ、十代半ばの可憐な娘だ。光満つる金魚鉢の内、金魚はひらりひらりと気ままに泳ぐ、硝子の中には、かつて彼女の母親もいたが、金魚は短命である。母が死んでからは、この広い金魚鉢に、更紗一人が泳いでいた。ぺたりと、素足で床を踏む。一歩足を前に出し、もう片方の足をばねに、高く跳ぶ。その度に、長く優美なひれがたなびいて、清らかな光の回廊に色の轍を残した。
「お早う、更紗」
その清廉とした洋館に、はじめて音が落とされた。喜々と金魚が顔を向ける、その先に立つのは、一人の老女だ。まばゆく照る朝日のうちに、十楽寺家現当主・十楽寺貞は笑う。歳は六十半ばだったが、しっかりと伸びた背筋は気品を纏い、片眼鏡の奥に光る目は未だ鋭さを失わない、美しい老婦人だった。
「新しい服の具合を見よう。さあ、可愛い子。私の前で回っておくれ」
指先を回して、意図を伝える。更紗の纏う朱いワンピースは、後ろに幾重ものレースがついていた。更にその臀部、尾てい骨あたりには大きくスリットが入り、そこから金魚だけが持つ、朱く優美なひれが出ていた。長く大きな尾ひれは、絹とはまた異なる光沢を持ち、角度によって虹を帯びる。更紗が泳ぐたびに華やかにゆれる様は、水のなかにたゆたう尾ひれ。
「うん。良い……良いが、もう少し、裾のレースを足そう」
そうすれば、更紗はもっと、可愛くなるよ。片眼鏡のむこうで細まった目の尻に浮かぶ皺を数えて、少女はその頬へたっぷりと親愛をこめたキスをする。
金魚鉢の中には全てがある。そう言った金魚がいた。更紗は窓の外に目をやる。暦の上では十一月半ば。冷えた空気を纏いはじめた世界は、陽の光を欲していた。しかしそれは、愛玩用の金魚には生涯関係のないものだ。
*
遠野まつりが、はじめて金魚を見たのは、小学三年生のときだった。
それは、夜半の肝試し。親の目を盗み、友人たちと目指したのは、丘の上の幽霊屋敷だった。高い塀と、深い生け垣。小さな体を駆使して忍び込んだ館の中で、まつり少年の目に映りこんだのは、忘れえぬ朱の記憶。多くの記憶が薄らぎ、その輪郭さえ曖昧になっても――暗がりの中、鮮烈に朱い髪だけははっきりと覚えている。光放つように、淡く輝く肌。赤いあかい唇に、そっとそえられた白い人差し指。記憶の中で、顔を塗りつぶされた女は、震える声でまつりに告げた。ちょうだい、と。ちょうだいと。繰り返し、今にも泣き出しそうな、声で。
「……り、ま……り、まつり。熟睡かよ。もう授業終わってるぞ」
ぱあんとやたら大きな音と共に、覚醒は訪れる。頭部の痛みと共に顔を上げると、そこに目を奪う朱い尾ひれはどこにもなく、慣れ親しんだ高校の教室があるだけだった。
「………こ、こは?」
「寝ぼけんなって。どんだけ田名瀬の授業退屈だったんだよ」
少しずつ、明確になる思考と視界。そして、自分の前に立つ人物が誰か気づいたとき。まつりは深く息をついた。
「あー……あれ……あ、れは、お経だから。俺、悟り開いた……それよりなんでうちの教室いんの、太一」
「自分の胸に聞いてみろ」
両の手を胸に当ててみた。仁王立ちする少年の名は、入江太一。幼馴染みであり、野球部でバッテリーを組む親友である。二人は一年生の頃からレギュラーを約束されたエースで、二年生に上がった今も、部活動も交友関係も充実し、満ち足りた日々を送っていた。ただ一つ。赤点が常に二つ以上あることを除けば。これか。
「部長に、お前の赤点をこれ以上増やすなって命令されているんだよ。おら、補習」
*
補習と呼んではいても、それは学校のそれではない。学年トップの成績を持つ太一の家で勉強漬けにされる魔の個人補習のことである。ただ恐るべきものに一つだけ利点があるとすれば、丘の上に建つ彼の家は裕福で、常におやつがハイレベルだ。
「幽霊屋敷」
坂道を上り、見事な邸宅が並ぶ通りを進んでいると、彼は突如足を止めた。見上げた先には、大きな庭を持つ洋館があった。蔦の絡まった、古い屋敷。人の住む気配が希薄なのは、昔と少しも変わらない。
「覚えているか、昔ここに行っただろう。お前が行方不明になったやつ」
あの肝試しには、太一も参加していた。少年たちはこの屋敷に忍び込み、そして、まつりだけが行方不明になった。もっとも行方不明といっても、時間にして六時間ほど。その後、ひょっこりと帰ってきた彼を、半狂乱になった母親が抱きしめた。
「あ、悪い……まだだめか……」
「いや。ただ、本当に、何も覚えていないんだ」
周囲から向けられる気遣うような視線は慣れた。だが、その目に見合う感情が、まつりの中にはない。誰もが事件の詳細を問い詰めたが、今も、昔も。当時のことは、よく覚えていないのだ。そして無言になってしまったまつりの顔を眺めて、彼は咄嗟に明るい顔で話題を変えた。
「……そういえば。まつり、お前、マネの長谷川に告白されたってほんと? 何で断ったんだよ」
ぎょっと太一の顔を見る。彼の情報網は恐ろしい、何故知っているのか。驚嘆を息にして吐き出すと、まつりは長い時間を掛けて、自分の中でも明確ではない答えを口にした。
「……なんか、違った? から」
「そんだけで⁈ 勿体な! おっぱいでかかったのに」
「なっ……!」
瞬時に顔を赤くして、まつりは太一を蹴りつけた。彼は笑う。純だなあ、まつりちゃんは。さして痛がるそぶりもなく、一層笑う太一のすねにもう一撃蹴りつけてもみ合っていると、少年たちに声が掛けられた。
「制服の少年たち」
いつの間にか、すぐ側に止まった黒塗りの車から運転手が顔を出していた。
「すまないが、そこをどいてくれないか。車を入れたいんだ」
幽霊屋敷の、門が開く。驚く少年たちは咄嗟に道を開けたあと、その車を凝視した。後部座席にいたのは、一組の男女。高そうなスーツに身を包んだ青年と、少し神経質そうな細身の老女だった。まつりは一瞬だけ、彼女と目が合う。
「なんだあれ。いけ好かない男だったな。ばーさんも怖そうだったし」
驚愕の混じった沈黙の間を、車が通り過ぎたあと、太一は不機嫌そうに眉を寄せた。
「そう?」
そんな太一を横目に、まつりは通り過ぎた車の影を追った。まつりには、怖そうというよりも、どこか、寂しそうな人に見えた。
*
太一は昔から、教え方がうまい。まつりが四苦八苦していると、いつも簡潔でわかりやすい道筋へ導いてくれる。丸が増えた数学の問題集片手にそれを褒めると、太一は言った。
「それは、俺は凡人だから。細かくまとめたあとで漸くだよ、何でちょっと教えただけで三十点上がるんだよ」
お前はやり方を知らないだけで、本当は何でもできる。太一はそう言ったが、彼は買いかぶっている。まつりには何もない。そもそも自分が部活を続けているのも、熱中している間、空虚さを忘れることができるからだ。一度野球から離れてしまえば、何もない遠野まつりは空っぽで、きっとぼんやりと立ち尽くすことしか出来ないのだ。いつからか。空いた穴がずっと胸のうちにある。
想像よりずっと、苦痛ではない勉強会は早々に終わった。太一に宿題を手渡され、帰路につく道すがら、まつりは鞄から野球ボールを取り出した。試験期間中にその感触を忘れないように、歩きながら手の中で転がして、時折かるく宙に浮かせてみせる。
『――ちょうだい』
ふと。遠く声が聞こえた気がして、まつりは手を滑らした。掴み損ねたボールは、放物線を描いたあと、二度三度とはね落ちて、しまったと正気に戻った時には、傍らの屋敷の柵の中へ。慌ててその先を見れば、何とか届きそうだと伸ばした腕に、柔らかな感触が触れた
「え……?」
手に触れた存在に驚いて顔を上げれば、そこにいたのは、白い、白すぎる肌の少女だった。
「……きん、ぎょ?」
少女の肩からこぼれおちたのは、あまりに鮮烈な朱。たゆたう髪は鮮やかに、まつりの目を奪い釘付けにした。それは常人にはない色だった。朱色の髪に、白い肌。そして、腰のあたりから生えた、ひらりと流れる優美な尾。それは、一匹の金魚だった。
重なったままの指先は、ひやりと冷たい。困惑のうちに凝視すれば、対する少女はあどけない顔に、無垢さをさらしたままでいる。あまりに無防備に、じっと見つめ返してくるので、まつりは気まずくなって目をそらした。すると少女の手が、伝うように少年の筋肉のついた腕にふれた。つうと、彼女の爪の先が肌を掠めれば、悪寒に似た何かが背筋を駆け、ばっと仰け反り、手を逃れた。
距離を取った少年に向かって、少女は右と左の手のひらをそろえて、何かをすくい上げるように、まつりに向かって差し出した。何と、戸惑いのまま見返すと、期待に輝く瞳と合わさり、その目に心が閉じ込められた。一瞬のような、永遠とも思える時間。それは、突如鳴った携帯に遮られ終わりを迎えた。正気に戻ったまつりは慌てて彼女に背を向け走り出した。
『まつりー、忘れものしてるー』
電話越しに太一ののんきな声を聞きながら、まつりはあれが幽霊屋敷だと漸く気づいたのだった。
*
あの少女のことが頭をちらつくようになって幾日。太一の補習を受けた帰り、ボールを拾う口実に、再びまつりが鉄柵に触れたとき、彼女はその内側で待っていた。
十一月も終わりに近づき、気温は随分と下がっていた。しかし、彼女はまるでネグリジェのように薄い赤いワンピースしか身に纏っていなかった。
「寒く、ないの? ……君、名前は?」
少女が首をかしげる。ただ、にこにこと微笑む姿があまりに無垢で、まつりは重ねて問いかけた。名前は。幾つなのか。閉じ込められて、いるのかと。しかし、問いに答えはなく、笑顔が返されるだけ。そうして意味のない問答を繰り返すこと数分。ようやく、少年は思い至った。
(まさか。言葉が通じない?)
まつりが手招きすると彼女も柵に近づく。少しの躊躇の後、彼は自分のマフラーを外して、彼女の首に巻いてやった。これで、少しは寒くないといいのだけれど。そして、まつりは己を指さし、言った。
「遠野まつり」
彼女は、少しだけ目を開いて、興味を示した。指先に注視する少女の前で、まつりは同じ言葉を繰り返す。
「俺は、まつり。ま、つ、り」
「…………」
少女の閉じたくちびるが、わずかにひらく。そのあわいから、小さく蠱惑的な舌先がみえた。
「ま、つ、り……?」
それは、たどたどしくも甘い呼び声だった。
*
補習の帰りの度、少女と目を合わせることを繰り返したあと、まつりは意を決した。遠い記憶を頼りに、生け垣の端に鉄柵が折れた場所を見つけ、大きく育った体には少々きつかったが、何とか体を割り込ませた。そうして隔てるものなく金魚と向かい合うと、彼女が思っていたよりも小柄なことに気付いた。
「えっと、元気?」
応える言葉がないと分かっていながら、我ながら意味不明な照れ隠しだ。彼女はにこにこと笑って、そんなまつりに手を差し出した。伸ばされた指先に、言葉は無い。おそるおそる手を出すと、からめとられて口づけをうけた。ほんのりとした弾力と呼気のぬるさを手に感じ、あまりのことに振り払うと、少女はまたきょとんとしてまつりを凝視する。まるで少年の方が異端のような、そんな視線にたじろいでいると、彼女は腕を差し出した。見て、というように、促されるまま見つめると、その肌は一つ一つ小さな花びらのような鱗で覆われていた。導かれるまま指の腹でさすると、その触れたところがぴかぴかと虹を帯びた銀の輝きをはなつ。感嘆の、声が漏れた。
*
金魚は思っていたより力強い手で、戸惑う少年を洋館の中へと誘った。蔦の巻いた外観とは異なり、屋敷の中は掃除が行き届いて清潔だった。一面の窓ガラスにまず驚き、次に明るすぎる室内に気味の悪さを感じた。広く明るく、清潔な場所。それは、まつりに病院を連想させた。
「あら。あらあらあら、かわいらしい、制服のお客様」
少女と手をつないで屋敷の中を進んでいると、正面から一人の女が近寄ってきた。見つかったと、慌てるまつりに声を掛けたのは、着物に割烹着を身に着けた女だった。年は恐らく四十代半ばごろ。彼女はいわゆる、使用人というやつではないだろうか。
「あ、あの、怪しい者ではなくて、俺、その……この子に連れられて」
咄嗟に飛び出た不出来な弁明を、女は聞いてはいなかった。彼女はまつりを無視するように少女と向かい合い、ふーんとか、あらあらとか。そうだったのおと、間延びした声を出して笑う。しかし、その間に金魚が何か言葉を口にすることはない。一体何を理解したのかも不明のまま。彼女は嬉しそうに、両の掌を合わせた。
「お茶にしましょう。制服の貴方も是非に。この子は、更紗さん。私は侍医の優子と言います。私は彼女の管理をしていますの。更紗さんは小食だから、男の子がいてくれるのはうれしいわ。甘いものは、お好きかしら」
*
案内されたのは、ホールから続く広い部屋だった。部屋の大きさの割に、置かれた家具が最小限で意匠もなく、機能的で簡素な印象を受けた。部屋の中心には既に茶会の用意がされていた。並べられた二組のカップと、山のような茶菓子。優子に勧められるまま腰掛けると、目の前には、良い香りのする焼き菓子とケーキがあった。手を伸ばすか悩んでいると、その前を白い腕がぐうんとのびていった。驚くまつりの前で、金魚はケーキを手でつかむ。そのまま口に運んで、かぶりついた。ぼろぼろと、こぼれるクリーム、落ちるスポンジ。口の周りが汚れることも気にせずに、彼女は一心不乱にむさぼりはじめた。ナイフもフォークも手元にあったが、手づかみで咀嚼する様子に、唖然とするまつりは置き去りにされる。
「いいんです」
え、と。戸惑う少年に向かって、女は繰り返す。更紗さんはこれでいいんですと。
生クリームと食べこぼしで、ぐしゃぐしゃになったテーブルクロス。その上に、少女はべちゃりと絵本を開いた。ずいぶんと古い、汚れたそれは、人魚姫の絵本だった。本には字がなく、また絵の中の人魚姫の鱗は、赤いクレヨンで執拗に塗り潰されていた。字のない絵本を指さして、口の周りに食べ滓をつけた少女は、一体何が面白いのかケタケタとわらう。異様な光景に鳥肌が止まらなかった。思わず腰を浮かせると、優子がまつりに向かって、気遣うような声音で言った。
「何故、この屋敷に侵入したのです」
その声はどこまでも柔らかかったのに、その言葉は容赦なく少年を突き刺した。
「え? あ……」
あまりの落差に事実を受け入れずにいるまつりに、ほの暗い目が照準を定める。
「何故、あなたみたいのが、更紗さんの隣にいるのです」
詰め寄られて顎を掴まれた。恐怖のうち、目前に迫った顔を見る。女は、ずっと同じ笑みを浮かべていた。
「あなたは、更紗さんを憐れんだのではないですか」
耐えきれず、まつりは立ち上がった。つくりものの笑顔で笑い続ける中年の女に、恐怖が足元から体中にかけぬけた。そして彼は、更紗を置きざりにその場から逃げ出したのだ。
*
補習の成果空しく、期末試験の結果は散々だった。
それから数日間。テストの結果も、あの奇妙な少女の事も忘れようと努め、部活に打ち込んだ。太一は赤点の数に怒り心頭だったが、最後には熱心に練習に付き合ってくれた。結局のところ面倒見がいい奴だ。くたくたになって家に帰り、風呂と食事を取れば、宿題もそのままあっという間に眠ってしまう。そんな日々を繰り返したある日の、夕食。
「ひどいわ、金魚の人権をなんだと思っているのかしら」
箸を片手にうとうととしていたまつりの耳に届いたのは母の声だった。彼女は憤慨しながら、人魚の肉をフォークで口に運ぶ。美容にいいと健康番組で目にしてから、週に三回は人魚の肉が食卓にあがるようになり、父もまつりも辟易していたのだが、彼女は素知らぬ顔でテレビを眺めていた。動物番組で取り上げられていたのは、鮮やかな色を誇る少女だ。画面の中の娘は、その美しさを見せびらかすように、尾ひれを水面にたゆたわせる。それを見て、母は再びひどいと言った。
「こんなの、ただの見世物よ」
特異な色彩を持ち、人に似て、人ならざる、飼われるもの。一部の富裕層によって愛玩される。それが、金魚。それが、更紗。
「父さんには、人魚も金魚も同じに見えるけどなあ」
「全然違うわよ! 足があるでしょう。それに金魚は肉食じゃないわ」
人魚は獰猛で、人を襲い喰らうことがあるという。害獣は狩られて、今日も食卓を飾る。
「金魚は中国の奥地で発見された突然変異の新種なのよ」
喜々として金魚を語る、母の声が熱を持つ。それを聞き流しながら、まつりはテレビを見つめた。切り取られた画面の中。裸に剥かれた金魚の尾てい骨から、うつくしい尾ひれが生えて、たゆたっていた。全く似ていない金魚少女に、更紗の顔が重なったあと、耳の奥で声が繰り返される。
『憐れんだのではないですか』
*
一週間ぶりに屋敷に足を向けたまつりを出迎えたのは更紗だったが、彼女は柵の向こうで船をこいでいた。まつりのマフラーに顔をうずめて、健やかな寝息を立てる。どうやら、待ち疲れて眠ってしまったようだ。
「……更紗」
思わず苦笑がこぼれた。鉄柵を握り、その名前を繰り返し呼ぶと、更紗はすぐに顔をあげた。まるで親鳥をみつけた雛のように。一瞬にして、その顔に喜色が宿るのを見ると、いいようのない罪悪感がこみ上げた。悩んだ末に柵を越えて中に入ると、待ちきれなかった更紗に飛びつくように抱きつかれた。勢いに負けて、二人そろって芝生に転がる。日の光が透けて、彼女の髪は朱金にかがやいていた。長い髪がおちてこぼれ、カーテンのように、世界から二人を遮断する。
「……まつり」
閉じた世界で彼女は笑んだ。
「まつり、まつり」
この上なく大切そうに、その名前を舌で転がし、彼女は力一杯まつりにすがる。
まばゆいものに、おそるおそる手を伸ばすと、彼女は嬉しそうにその手のひらに頬を擦り寄せた。指先にやわらかい皮膚が、かすめてふれる。その熱に、心臓を掴まれたような心地がした。何故、この少女と一時でも離れる事ができたのだろうか。急くように、彼女の体を抱きしめた。すると、更紗がきゃははと甲高い声を上げて笑うので、なんだか自分もおかしくなって、一緒に笑い転げてしまった。
深入りしてはならないと、警鐘を鳴らす理性を無視して、まつりは更紗の手を取った。
憐れんだ、わけじゃない。
そうして屋敷の扉を開いたとき。あの優子という女が、全てを知った顔で、当然のように二人を迎え入れた。
「あなたには、知っていただく必要があります。更紗さんの、置かれた現状を」
*
優子に従って、まつりは茶会の部屋の戸棚に身を隠した。そして幾ばくも経たぬ内、扉が開かれた。そこに立つのはいつか見た、車中の老女。身を固くして息を殺す。物音一つ立てぬようにしながら、優子に命じられた通り、まつりは成り行きを見守る。すると老女は二つ並んだカップを眺めて、ぞっとするほど冷たい声を出した。
「まさか、『二人で』お茶の……時間だったかな」
「すみません、奥様。その……更紗さんが、あんまり寂しげで。つい私が一緒に」
「更紗に他人は必要ないさ。私以外ね」
そう切り捨てた老女の声を、開いた扉が遮った。
「貞おばさま。それはいかがでしょう」
老女が振り向く。その先には、スーツに身を包んだ三十半ばごろの男が立っていた。これもまたいつか見た、車中の青年だった。
「……俊也くん。今日の訪問は聞いては無かったのだけれど。また唐突だね」
「ええ、サプライズですから!」
そう輝かしい笑顔で言う男は、傍らに一人の男を連れ立っていた。まつりにも一見で分かる、それは男の金魚だった。はっきりと彫りの深い骨格は、東洋のものではなく、金魚の白い肌も更紗のものより一層白かった。奇妙なのはその髪色は白く、その毛先だけが紅いこと。老女はそれに目をやって、口角を持ち上げた。
「いい色でしょう。髪の毛先だけが紅い、大層珍しいものだそうで。西の血が混ざっているので、彫りが深く、肌の色もより白い」
「……キミは、金魚に興味がないのではなかったか」
「ええ‼ ですから、これは貞おばさまへの貢ぎ物です」
そう言って男は、腰掛ける老女の、皺だらけの手を取る。その手の甲を指の腹でゆるやかになぞりながら、ところでと、言葉を重ねて笑みを浮かべる。
「大好きな貞おばさまは、いつになったら私と結婚して下さるのですか。昔は、大きくなったらねと微笑んでいらしたのに。大きくなったら、微笑んでさえくれなくなった」
老女は頭を押さえた。咄嗟に、夢を語るには、キミは少しばかり、年を取りすぎているよ。そう答えて、頭痛に耐える。
「そんな夢ばかりでは、恵理姉さんに怒られてしまうよ……プレゼントは気持ちだけで十分だ。うちには、既に更紗がいる。あの子だけが、私の全てだ。それで、いい」
声音こそ柔らかだったが、それは確かな拒絶だった。しかし離れ行く手を前にしても、男はなおも追いすがった。
「ですが、更紗にもそろそろ、つがいが必要でしょう」
そう告げる男の声に、老女ははじめて目を瞠った。何かを深く考え入るように、そうかと、彼女は繰り返す。もう、更紗もそんな歳か。
「そうだね、この金魚鉢に、あの子ひとりは広すぎる」
そう言って、目を伏せた老女は、それの名前は何と、男に尋ねる。すると男は、傍らの金魚に目をやって、『錦』と告げて微笑んだ。
その後すぐ、更紗が呼び出され、部屋の中に入ってきた。彼女は部屋の中の白い男に気づくと、何度も瞬きして、興味深そうに男の金魚――錦を見つめる。成り行きを見守る老婆と青年、まつりの前で、やがて二人は距離を詰めて微笑み、どちらからともなく手を取りあった。
*
ふかく。ふかく、沈むように、おちた水底。金魚鉢の底は、ふかく暗く。ただ静寂のうち、水泡がこぽこぽと、こぽこぽと満ちる。その泡が満ちたように。頭が、ぼうとしていた。老女と青年が屋敷を後にしてから、どれだけの時間が経ったのだろう。それも分からぬほどに、室内は闇に満ちていた。大人たちの言葉から、逃げるように、入り込んだ屋根裏部屋は、昏い。どこをどう走って、そこにたどり着いたのかも、分からない。ただ。そこは金魚鉢の明るさが嘘のように、重い緞帳に囲われた部屋だった。神経質なほどに陽光を遮断された暗い室内は、埃がつもり、忘れ去られた場所だった。
『ちょうだい』
部屋の中心部には、大きな絵画が一枚あった。肖像画、だろうか。まつりの身長程もありそうな絵のなかには、三人の人物が描かれていた。
「さら、さ?」
一際目を引くのは、絵の中心。椅子に腰かける、朱色の髪の少女だ。しかし、色彩こそ同じだったが、彼女は更紗ではなかった。あばただらけの顔はむくんで、世辞にも美しいといえない醜女だった。その左右には、少女を支えるように二人の男女が立っていた。片方には、見覚えがあった。十楽寺貞という、あの老婆の若かりし日なのだろう。四十代後半ごろ。伸びた背筋。気品ある立ち姿には確かに今の姿が重なる。では、傍らに立つ男は、その夫だろうか。それは、偉丈夫という言葉が合ううつくしい男だった。垂れた目尻は柔和な印象と、どこか親近感を覚えさせた。
「じゃあ」
絵の中心に描かれたのは、更紗の母親なのか。もしそうならば、あまりに似ていない母子だ。そう、思ったとき、頭に鋭い痛みが走る。お父様。どこかで、誰かの声がする。すすり泣く声。その声が、同じ言葉を繰り返す。お父様、と。激痛に耐え、頭を抱え悶え打つ。そんなまつりの耳に、気遣うような、声が届いた。
「ま、つり……?」
少年を、探しに来たのだろう。扉を開いて、更紗が不安げな表情でこちらを見ていた。垂れ目がちな目に、涙が零れ落ちそうなほどにたまっていた。その顔を見た途端、不思議と頭痛が収まった。まつりは、彼女を手招きする。素直で優しい子だ。それなのに、大人たちの身勝手で、あの錦という雄の金魚とつがいにされるのか。言葉もなく、手を握り合った二人は、まるで揃いのように、うつくしかった。無意識に噛みしめすぎた唇に、血がにじむ。
ただ。ただただ、もどかしく、不自由さにおぼれてしまう。咄嗟に強くつかんだ腕には、きっと痛みを感じていたのに、更紗は穏やかな目で、まつりを見ていた。
「更紗」
縋るように名前を呼ぶと、更紗はまつりを抱きしめた。彼女の手は全ての闇を遠ざけてくれる。やさしい腕に包まれると、不安感が遠のいて、同時にいとおしさがあふれ出た。
「更紗、更紗――」
どうすればいい。どうすれば、いいのか。
「まつり」
彼女は、そろえた両手の平を差し出した、まるで、ちょうだいというように。そこで、遠い、景色が重なった。慟哭する朱い髪の女性。それを見つけた幼いまつりは彼女に――
『ちょうだい』
そう、こいねがった金魚が、いた。
*
日常は、浸食された。
まつりは耳の奥に水が詰まったように、すべてが、遠く感じるようになっていった。
「……り、まつり!」
そんな彼が、急速に現実に引き戻される。気が付けば、そこは教室で、目の前には血相をかえた友人が立っていた。その顔をぼんやりと眺めて、何を慌てた顔をしているのだろうと、そういえば久々に太一の顔を見たと、思った。
「……太一」
「お前、一体どうしたんだよ……どうしちゃったんだよ、部活も顔出さないで、先輩たち心配してんぞ」
肩をつかんで揺さぶっても、反応のないまつりに焦れたのか。太一は口調を変えて、わざとふざけた調子で言う。
「なんだよー恋の病⁈ 何、今度はどんな子に」
「違うんだ」
「は」
「そういうのとは……違うんだ」
立ち上がり、机の脇にひっかけていた鞄を手に取った。
「まつり? おい……! 待てよ……! お前、最近変だぞ。おい! まつり‼」
三限目の授業を前に、教室を出た。行こう。友人に背を向けて、まつりは歩き出した。
更紗が、きっと。待っている。
ゆがんだ、柵のうち。約束の場所で、彼女はまつりを待っていた。前にあげたマフラーを、滅茶苦茶に顔にまきつけて。あの花のような笑顔で手を振った。待っていた少女の姿。その微笑みに、胸の奥からあふれでるものに、まつりは息ができなくなった。それは、理屈や理性などで測ることなどできない。更紗。ただ、あふれでる、もどかしさの中。あえぐように、彼女を呼ぶ。寒さに赤くなった指先にふれて、泣きたくなるほどの何かに耐えた。
「……逃げよう、更紗」
絞り出した声はふるえて、顔もひきつっていた。行先などわからない。それでも、ただ無心に。少女の手を引いて、ふたりは逃げ出した。
*
更紗の手を握り、電車を乗り継いで数時間。ふたりで外に出るとと、今まで知らなかったことを知ることになった。まず更紗はすぐ、息切れをする。寒いとすぐにひっつくし。まつりが少しいなくなるだけで、世界のおわりみたいな顔をするのだ。
公園のベンチに腰掛けていた更紗に駆け寄った。髪を隠すようにニット帽をかぶらせたあと、その上にパーカーをかぶせた。彼女ははじめこそ首を振って嫌がったが、まつりが嘆願すると黙って言うことを聞いてくれた。
「ほら、はんぶんこ」
彼女の横に座り、まつりは買ったものを半分に割った。差し出されたたい焼きを、不思議な顔で受け取る。理解してない彼女の前で、まつりは半分のたい焼きを口に入れた。おいしいよ。食べてごらん。そうして。その顔がすぐに、ぱっと輝くのを、まつりは既に知っている。更紗は、甘いものがすきだから。
「熱いの、気をつけろよ。ああ、ほら、餡子。ついてる」
夢中でたい焼きにかぶりつく少女。その口の端についた餡子をぬぐいとってやりながら、おいしいかと問いかけると、にっこりと更紗がわらう。鼻の頭を真っ赤にして、もくもくと、たい焼きと格闘する。その横で、まつりは財布を開いた。中学の入学祝に親に買ってもらった財布。その中には、一万円札がのこり五枚と、千円札が八枚、少しの小銭が入っていた。母が何かあったときのためにと、鏡台に隠していた金を盗み出したものだ。
「ママー」
ふと、三、四歳ほどの幼子が目の前を横切った。ママ。ママ。と、何度も呼んで、走って向かった先。一人の女性に抱き上げられる。ごく自然な公園の景色だ。それを、更紗が凝視した。
「……まま?」
たどたどしく、言葉を繰り返す更紗。まつりは知った。彼女が、何も知らないことを。
「『ママ』っていうのは、お母さんのこと」
とはいっても、その説明で更紗に分かるはずがない。まつりは石を拾うと、地面に絵を描いた。大きな人間と、小さな人間。大きな人間から、小さな人間に矢印をひいてみせる。
「生んでくれた女の人のこと。あーっと、分からないかな」
大きな人間に長い髪の毛を生やしたりしたが、うまく更紗に伝わらない。
「ママ、大好き」
少女が笑って、母親に縋り付く。それを見て、矢印の上にハートマークを付け足した。そして、更に小さな人間から大きな人間へ。最後に大きな人間を指して、ママと言った。更紗が、じっと、それを凝視していた。ずっとずっと、眺め続けていた。
財布をポケットの奥にしまい込む。両親は、自分に失望するだろう。積み重ねてきた縁と絆を捨て、信頼に泥を塗った、この自分を。
やがて二人はベンチから立ち上がる。家族連れもすでに家路についた。今日の宿を探さねばならない。
*
しかし、宿探しは思うようには進まなかった。
「あの、部屋を、とりたくて」
「……親御さんは?」
制服を着ていたことが失敗だったと、何故最後まで気づかなかったのか。問答を繰り返すこと、三度。怪しむ視線。最後に行ったホテルは特に怪しまれて、警察を呼ばれた。逃げ込んだのは近くの公園。更紗の手を取り、土管型の遊具の内側に身を忍ばせた。日はすっかりと暮れて、凍えた空気が肌を刺す中、寒さをしのごうとしても、容赦ない冷気が二人を震えさせる。
まつり。息が白くなりながら、たどたどしく名前をよんで、彼女がくっつく。不安そうに打ち震える子どもを抱き寄せる、その手が、震えた。もどかしさと、ふがいなさ。悔しさに、涙がにじんだ。何故。自分はまだ、大人ではないのだろう。か弱い少女を抱く手に力が籠る。いまだ制服を身に纏う、己の幼さ、無力さに吐き気がした。大人の許可を無くして、選び取ることも許されない。少女一人、助けることもできない。強く強く抱きしめた、彼女の体。ただ祈りを込めるように。更紗と名を呼ぶ、繰り返す。するとふと、その指先が力なく、地面に落ちていることに、はじめて――気づいた。
「……? さらさ? 更紗……!!」
ぐらりと彼女の体が、かたむく。その熱すぎる体に、目の前が真っ白になった。
*
呆気ないほどあっさりと、逃避行は幕を閉じた。
更紗の体を背負って公園から道に出ると、優子がそこに待っていた。遠く離れた他県の公園に、彼女は当然のように立っていた。疑念を抱くより先に、縋り付いた。更紗を、助けてと。そして、まつりは再び――金魚鉢の中にいる。
「金魚は、菌に弱いんだ。この清潔な金魚鉢で、細かなメンテナンスを受け続けないと、彼女は生きられない」
知らなかったのかい。そう言ったのは、更紗の飼い主である十楽寺貞である。金魚が横たわるベッドの傍らに腰掛け、汗の浮かんだ額をぬぐい、いたわるように頭を撫でてやる。それはあまりに手慣れた様子だった。ベッドの上の更紗が無意識に握っていたのは老女の手で、そのからまった指先には確かな信頼が満ちていた。それを前にして、まつりは己のしでかした事の大きさに、漸く気づいて震えた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、俺、俺……」
「わかってくれれば、いいんだ……キミは憤ってくれた。言葉も知らず、閉じ込められた更紗のことを」
だが、どうか。分かって欲しい。老女の声はあまりに優しかった。
「……私はね、子供が作れない体でね。私と夫は話し合って、一匹の稚魚を引き取った。それが、更紗の母親だった」
あの暗い部屋に置かれた、絵画を思い出していた。寄り添う三人の男女。信頼が、にじみ出た立ち姿。
「私たちは彼女を愛して、あらゆる教育を施した。彼女もそれに、応えてくれた。出来がよくてね。誰よりも頭が良く、溌剌とした、自慢の、娘だった」
更紗の母親がどうやって死んだか、知っているかい。その問いに、いいえと答えたまつりに、彼女は言った。自殺だよと。
「私たちは、知恵の実を与えてしまった。彼女は己の存在に深く悩み、最後には悩みぬいて死を選んだ。その後夫も亡くなり、今となっては彼女が遺してくれた、更紗だけが――私の、家族だ」
彼女ははじめて、まつりと向かい合った。更紗の頭を撫でるように、少年の頭に触れる。その手付きには、確かなぬくもりが満ちていた。
「恐ろしい思いをしたね。更紗が死ぬかもしれないと、不安に思ったろう……分かるよ。よく、分かる。だが、もう大丈夫だ」
目の端から熱い、熱い涙が零れていった。老婆は白いハンカチを取り出して、まつりの目元をぬぐい取る。
「分かっているよ、キミはただ。更紗に外の世界を見せてあげたかっただけなんだ」
ありがとうねと、老女は微笑む。あの子のために、そう思ってくれて嬉しいと。心から感謝すると。
「ただ、とても悲しいことに。彼女は、外の世界では生きられない。この、金魚鉢を出ることは、彼女の死を意味するんだ」
死。その言葉に、力なく崩れ落ちた更紗の姿が浮かぶ。震える少女。熱すぎるからだ。恐怖が蘇る。自分は、このかよわい少女を殺しかけたのだ。
「……ああ、勘違いしないでほしい。何も、キミを責めているわけではない」
むしろ。老婆は少年の乱れた髪に手を添えてくしけずる。
「私も忙しいから、更紗には寂しい思いばかりさせている。キミが更紗と遊んでくれることは、喜ばしいことなんだ。ただ、今後も――……彼女のために、キミが訪ねてきてはくれないだろうか」
今度は正門から来るといい。茶を用意して歓迎しよう。微笑む老女の声音のやさしさに、眼の奥が、いっそう熱を持った。
「お、れ……なんかが、ここに……来てもいいんですか?」
「何を言うんだ。更紗が私以外に懐くなんて、とても――本当に、とても珍しいことなんだよ」
キミでなければ、意味がない。そう、老婦人がはっきりと言った声に、全身に震えが走った。そのとき。ベッドの上の少女が、身じろぎした。慌てて老婆と二人のぞき込む。そこにはうっすらと目を開いた更紗がいた。更紗と、名を呼ぶと、彼女は微笑もうとして、失敗した。
「……なんだい、更紗」
彼女は、はくはくと幾度とその唇をひらく。その声が、かすれて、音を成さなくても、彼女は必死に口を開く。そして。
「マ……マ……」
ママ、ママと、たどたどしく告げる。その向け先は、確かに老婆に向けられていた。彼女は目をみひらいて、握った手に、力を籠める。子を成すことがなかった人は、金魚の手を取り、ふるえだそうとする唇をかみしめた。そして、ふかくふかく、瞼を閉じたあと。つかれたように、目元を押さえた。
「これは、本当ならば、キミに告げるつもりはなかった……キミは、未成年だ。それに、守られている」
老婆は制服を指さした。だから、キミには頼れないと。そう、論外に語りながら、それでもなお、彼女はまつりに告げた。
「本当は、彼女の命は長くはない。だから、私は彼女にできる限りのことをしてやりたいんだ。彼女の欲しいものは、できるだけ与えてやりたい。不自由な思いなど、させたくない」
老女と目を合わせるまでもなく、まつりは自分のすべきことを瞬時に理解した。いや、ずっとこの機会を待っていたのかもしれない。空っぽの自分。この未熟な自分が、一体更紗に何をしてやれるのか。
父母の顔。友人の顔。野球部。学校の風景。そういったものが、脳裏に駆けたあと、まつりは制服の上着を脱ぎ捨てた。
「本当に、分かっているのか……戻れなくなるよ」
「いいです。更紗に全て、与えてあげてください」
一切の迷いなく、制服を脱ぎ捨てカッターシャツになった少年。彼の決意をみて、彼女は目を伏せる。
「……ありがとう。キミに、約束しよう。更紗には最低限の学びと、健康に応じた自由を。変化と、失う未来を、恐れていた。だがキミがいてくれれば。きっとそれを乗り越えられる……ああ。すまない。今更だが、名を聞いてもいいかな」
「遠野、まつりです」
「そうか。いい、名前だね。手を」
どこか有無を言わせぬ老女の声に、少年は手を差し出す。その手を取って、よく観察するために、眼鏡を額にずらして、顔と手がくっつきそうなほど近づけた。その爪を指の腹でしゅうねくこすり、感触をたしかめる。
「うん。うん。やはり……いいね」
「はい?」
「失礼。でも、これが。我が家の挨拶なんだよ」
最後に老女は、いつか更紗がしたように。まつりの指先に口づけた。
「キミは、更紗を選んだ。遠野まつり君。歓迎しよう。ようこそ、十楽寺家へ」
*
目を覚ました更紗は、まつり少年を求めた。初々しく、だがしっかりと手を握り合う二人を横目に、部屋を出た。家族。その言葉のぬくもりに身をゆだねて扉を閉じると、続き間で甥の俊也がソファで寛いでいた。彼はにやにやと笑みを浮かべてこちらに笑いかける。
「金魚は、戻ってきましたか」
「意味のない質問だね。更紗が、私から離れるわけがないだろう」
「……貞おばさまも、お人が悪い。錦は――私の連れてきた金魚では、お気に召しませんでしたか」
その言葉をはっと老女は笑い飛ばした。
「あれは、去勢済みだろう」
「おや、気付いていましたか。男の金魚は扱いが難しくて、どこぞで種など撒いてはよそ様に迷惑でしょう。去勢するのも飼い主の務めですから。貞おばさまが受け取ってくれなかったので、とりあえず飼ってみることにしました」
こればかりは、老女を驚愕させるに足りた。彼女は目を丸くして、身を乗り出した。
「……キミが? それは……本当に、大丈夫か?」
「すでに、髪の色がくすみ始めているんですが。おばさま、いいケアの方法教えてくれませんか」
そう情けない声で言う甥の姿に、彼女は堪えていたものを吹き出した。滅多に笑わぬ老女は、闊達と笑う。そうして、ひとしきり笑ったあと。彼女は目の端に浮いた涙を拭って言った。
「何にしろ、キミが金魚に興味をもってくれて嬉しいよ」
そうだね、そんなキミに言っておかねばならないことがある。いいかい。金魚の交配には、いくつも手段がある。同じ赤と赤を重ねて、深みも出すのもいいが、もう一つ。私が勧めるものは、交雑だ。金魚は短命だから、時折血を混ぜる必要がある。また混ぜたことで、その美しさを変化させるものもいる。更紗が、そうだった。
「ああ、楽しみだ。実に実に楽しみだな。更紗に子供ができたなら、そのうち一つをキミに譲ってあげようね」
しなやかな筋肉のついた、少年だった。日に焼けた肌は健康そのもので、見目もわるくなく――むしろ、いい部類に入るだろう。そして、何より。いい、爪だった。
「更紗は美しいけれど、爪だけが横爪なんだ」
嬉しそうに微笑む女主人の前に、そのとき使用人である女が雑事を終えて、部屋の中へと入ってきた。割烹着姿の女は恭しく主人に礼をとり、深く頭を垂れた。その彼女に老女は問う。首尾は、と。
「はい。奥様。全て――終わらせました。退学処理。戸籍の処理、まつり様の、新しいお部屋の準備も。制服はもう必要ないので、破棄しました」
「親は騒いだ?」
「ええ。多少。ですが、もう。あれでは、騒ぐことはできないと思います」
「……キミの仕事ぶりは、いつも素晴らしい」
「身に余るお言葉ですわ」
ふかくふかく垂れていた頭を上げて、優子は微笑んだ。
そのとき、きいと音を立てて、扉が開く。戸の影から顔を出したのは、けだるげな、金魚少女。
「……更紗」
もう起きても大丈夫かと、気遣う飼い主に向かって、金魚は頷き、唇を開く。
「うん。はんぶんは、仮病だから」
すこし舌足らずに、更紗は『言った』。
およそ八年ぶりに、封じた言葉を口にした金魚を前にして、貞は問う。あの少年は、と。彼女は頬を膨らませて、つかれたみたいで、たおれちゃったと、答えた。
「あの子のおかげだね。キミがまた、私のことをママと呼んでくれる日がくるなんてね」
かつて――実母の自死のあと。金魚少女は告げた。もう言葉は必要ないと。あなたのことを、母とは呼ばない。自分は金魚で、愛玩されるだけのものだと告げた彼女は同時に、一つの願いを言った。
だけど。
もしも、自分に本当に欲しいものができたのならば、母と父の償いを含めて、手助けしてほしい、その時には自分は再びあなたを母と呼ぶだろうと。
そして――たゆたい続けた少女は、まどろみから覚めた。ねえ。ママ。わたし、見つけたの。わたしの――たった一つ、絶対に欲しいもの。更紗は、笑う。
「今度こそ、金魚のものよね」
「ああ、約束しよう。あの少年は、キミだけのものだ」
小指と小指を絡め合わせて、人と金魚は絆を結ぶ。
「ねえ、ママ。まつりがいちばんだけど、にばんにあいしているわ、本当よ」
「分かっているよ。臆病で可愛い、私の、家族。だから、キミのために」
彼も、家族にしてあげよう。二人は手を絡ませ、微笑みあった。
*
それは、忘れ去られた朱の記憶。小学三年生の遠野まつりは、迷い込んだ屋敷の中で、一人の女を見つけた。鮮烈に記憶に焼き付く朱色の髪。それをぶちぶちに引きちぎって、彼女は声を憚ることなく泣き叫んでいた。どれほどの絶望だったのだろう。その声があまりに悲しみに満ちて痛々しく、まつりは咄嗟に彼女に駆け寄り手を握った。傷ついた人には、優しくしてあげるのよ。母の言葉を思い出して、まつりは泣き続ける彼女に寄り添った。どうしたの、案じる少年の傍らで、彼女はひび割れ血のにじんだ唇から、同じ言葉を吐きだした。お父様、お父様、お父様。その腹に手を添えて、彼女は、お父様と、詰るように繰り返すのだ。嘆く女の手は強く握りすぎて、血が流れていた。それが彼女の心のように思えて、まつりは一層辛くなった。泣かないで。どうしたの、何か、欲しい? 飲み物? 僕がもってきてあげる。僕が、あげるよ。ひび割れ今にも壊れてしまいそうな彼女の心を、少しでも励まし支えたかった。泣きつづける人の、涙を止めてあげたかった。彼は辛抱強く寄り添い続けた。どれだけの時間を、彼女と過ごしたのだろう。やがて、落ち着きを取り戻した女は、赤く充血した目で言った。
金魚鉢の中には全てがあった。私の欲しいものは、全て。だけど、それは全てお母様のもの。血を吐くように、告げる彼女は、長く深く息を吐いたあと。はじめて、少年を見た。
それは決して美しい女ではなかった。むしろ、ざんばら髪と腫れて膨れた瞼は化け物のようだった。しかし、まつりは不思議と、彼女に恐怖を抱かなかった。金魚はそんな少年の声に応えた。優しい子。ありがとう、と。
「だけど。私は、もう、いいわ」
だから。今もなお涙を落とす疲れはてた目で、彼女は言う。少し震えた今にも泣き出しそうな声で、ちょうだいと。繰り返して、願うのだ。
「ちょうだい、ちょうだい。あなたのこころを、更紗にちょうだい」
両の掌をそろえて上にし、ふかく深く乞いねがい、祈るようにその母親金魚は言ったのだ。だから、少年は彼女に応えた。いいよ、と。彼女の頭を抱え込んで、その頭を撫でてやった。
「僕のこころを、更紗にあげる」
更紗が誰かも知らなかった。それがただの口約束に過ぎないことを金魚も少年も知っていた。だが、それでも良かったのだ、女は一時の安らぎを必死に求めていたのだから。
少年の真摯な声を聞き、彼女はやっと涙を止めた。その生涯で初めて安らぎを得、ありがとうと告げた彼女は心の底から微笑み――自らの首を包丁で掻き切った。
9年前の同人誌の再録です




